ブリジット・バルドーの「Mind Tree」(2)- 「バレエ」のレッスンだけが不安と憂鬱を忘れされてくれた。学力があまりにも悪く修道院に入れられる 


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「バレエ」のレッスンだけが不安と憂鬱を忘れされてくれた

▶(1)からの続き:9歳の時(1943年)には、バレエで踊っている時だけは幸せだったといいます。身体を動かすとまるで別人になったような気分でした。「バレエ」のレッスンだけが、家にいると襲いかかってくる憂鬱と不安を忘れされてくれたのです。体を動かすとブリジットは優雅に動くことができました。リズム感があり音楽に完璧に合わせることができたのです。ブリジットがなぜ「バレエ」を選び、またなぜ人一倍リズム感があり、身体の動きを音楽に完璧に合わせることができえたか、その”根っ子”は『自伝』からはよくは分からない部分です。ただ両親の友人にクリスチャン・フォア(シャンゼリゼ劇場バレエ団の男性スター・ダンサーだった)がいたり、家にあった蓄音機から幼少の頃に音楽がいつも流れでていたのかもしれません。あるいはつぎのように捉えることもできるかもしれません。学校の勉強で教わる言語感覚がからっきしダメだったブリジットが秀でていたのが「身体感覚」でしたが、家の中ではあまりに憂鬱で閉鎖的だったことが、「身体感覚」の想像力がまるでビッグバンのように拡張した、という見方です。
ちなみに俳優のデニス・ホッパーは、生まれ育った大草原で話し相手も祖母以外ほとんどいなかったため「空想」に耽る他なかったといいます。そして祖母が週に1度、映画館に連れて行ってくれるようになり、その1回の映画のシーンが次の映画を見るまでの1週間、「空想」の遊び相手となっていたといいます。ブリジットの場合、養育係のビッグと一緒に初めて映画を見に行ったのは12歳の時で、すでにこの頃にはすっかりバレエにそまっています。ただその時に見た映画『呪われた抱擁』は、実際生涯忘れられない映画になり、その恋物語は、ブリジットを天真爛漫な恋に導いていったようです。本人はその映画を見て”血行を刺激した”と言っています。
とにかく少女の場合、人によって差はありますが男子と比べても「身体」がひらいていく時期が早いので、ブリジットの場合、ちょうどうまく身体を「バレエ」にはめ込むことができたようです。自分は醜いと思い、日常でもあまりにも鬱屈していたため、バレエでしか開放感を味わえなかったブリジットでしたが、11歳の頃になると、気づけばブリジットの身体つきは大きく変わってきて、眼鏡も矯正器もしなくなり、バレエで舞っている時には自分が「スター」になったような大きな気分になることもあったようです。バレエはブリジットに身体で大胆に表現することを教えました。それは美しい人形のような妹ミジャヌーには真似のできないことでした。事実、妹ミジャヌーは、途中でダンス教室を去っています。バレエのおかげで後のブリジット特有の身のこなしや軽快な歩き方が身についたのでした。

学力があまりにも悪く、両親に修道院に入れられる

ただこの頃、ブリジットの学力があまりにも低いことに手を焼いた両親は、ブリジットをラ・トゥール校に転校させました(友達のシャルタンが入学していたが)。ブリジットからバレエを取りあげることもなんとも思っていませんでした。そこは修道女(シスター)がたくさんいる修道院でした。バレエから引き離されたブリジットの学力は超低空飛行で、ほとんどが零点でここでもクラスの最下位をキープします。さいわい肺炎を患い、その年に修道院を去ることができたものの、同じ小学校に戻って翌年最終学年をふたたびやり直すはめになります。が、大好きなバレエのレッスンを再開することができたのです。療養期間中に、友達のシャルタンの家が持っていたノルマンディーの農場に預けられ、田舎を自転車で自由に走りまわる素晴らしさを発見しています。
しかしちょうどその頃、連合軍がノルマンディー上陸作戦を開始する直前で、パリに戻らされてしまいます。パリに戻ったブリジットに両親は養育係を雇い入れます(10歳の時)。少なくとも”ふつう”の女の子にしてくれるよう白羽の矢を立てられたのがルグラン夫人(英語を話し背が高かったのでブリジットは”ビッグ”という綽名をつけた)で、ブリジットは彼女を大好きになります。ルグラン夫人は素晴らしい女性で、ブリジットと両親の間をとりもってくれれたのです。

パーティー好きな父と母だったが、2人とも神経質で、夫婦喧嘩が日常茶飯事に

父と母はともに短気で神経質、すぐにカっとなるタイプだったので、ブリジットに降り掛かる日常的な夫婦喧嘩の火の粉をルグラン夫人が払いのけてくれたのです。それでもブリジットは「夫婦喧嘩」という恐怖を嫌というほど体験せざるえおえなかったといいます。静寂の中でとられる食卓。食事中に父と母が隣の部屋に行き、罵りあい、叫びはじめた日もあったほどです。おののきながらの夕食ほど味気ないものはありません。ブリジッドの脳裏に深く焼き付いているのは、スーツケースに荷物を詰め込んだ父がまさに去ろうとしている姿だといいます。
夫婦の亀裂は最終局面で修復され、再び友達を呼び好きなパーティを催すようになりました。しかしパーティの料理はすべて女中か養育係ビッグの仕事。母は料理は大嫌いで(日常の料理もすべて女中仕事)、爪を赤く塗って仕上げ、完璧に手入れした手を汚すことなど考えられなかったのです。ブリジットは友達の母親がしてくれていたように、ずっと母の手料理を味わいたいとおもっていたといいます。ブリジットが後に自身かなりの「料理人」になったのは、その時の淋しい思いの裏返しのようです。家庭での「料理」ひとつとってみても、そこには幼少期の体験と記憶が「反映」されているのです。

12歳、バレエの難関校コンセルヴァトワールの入学試験に合格

ブリジットに乙女心が俄(にわか)にもりあがってきてきたのもこの頃です。眼鏡も歯列矯正器もすでに外していたブリジットは生まれてはじめて自分自身をちょっと「カワイイ」とおもったといいます。大きくなってきた胸もブリジットに自信をもたせ、恋心をときめかすようになりました。同じアパルトマンに住んでいた3歳年上のいけすけない男子と友達のシャルタンがキスしているのを偶然見てしまったブリジットは、シャルタンを脅して入れ替わってその男子とキスを試してみるのでした。これは恋心というより下心。天真爛漫にして小悪魔的で衝動的な行動の魁(さきがけ)でした。
バレエの難関校コンセルヴァトワールの入学試験に合格したのは、同じ年の12歳の時(受験者150人、うち合格者10人)。厳格な規律と足先に血を滲ますほどの厳しいレッスンが待っていました。最初の1年は負けん気と意地でやり抜きましたが、バレエ以外の数学とラテン語は相変わらずだったといいます(試験はいつも零点)。
先述した映画『呪われた抱擁』を見たのは、過酷なレッスンで鬱屈していたこの頃でした。この映画は、ブリジットの「マインド・イメージ」に焼き付き、小悪魔的な「ブリジット・バルドー」が心と身体の裡(うち)で涵養(かんよう)されていきます。ブリジットの「マインド・ツリー(心の樹)」は、バレエで鍛えた「樹体」と<主客>が入れ替わらんばかりとなるのは時間の問題でした。ブリジットは醜くかった自分が、脱皮するように”変化(へんげ)”していく自分を確認したのは、オペラ・コミックで催された学年末のバレエの試験でした。ブリジットは第一位となったのですが、もう一人同率で第一位となった生徒がいました。後に有名な舞台女優になったクリスチアーヌ・ミアンツォーリでした。

バレエ団からの誘い。巡業先で一人立ちの感覚を味わう。15歳、「モード写真のモデル」に

時をおかず、両親の友人クリスチャン・フォア(シャンゼリゼ劇場バレエ団の男性スター・ダンサー)が、ブルターニュで巡業する自身のバレエ団で踊ってみないかという誘いがあったのです(この時、ブリジットはコンセルヴァトワールを離れ、ボリス・クニアツェフでレッスンを受けていた)。そしてバレエ団に1カ月間あずけられた間、一人で安宿に泊まる経験をします。この時はじめて一人立ちした感覚を抱きます。ところが舞台でブリジットは大失態をやらかせてしまいます。舞台の1幕目では黒のドーランを塗り黒のタイツを履き、黒人娘の役。問題が2幕目で、黒のドーランを素早く落としシューマンの「子供の情景」とプロコフィエフの曲を踊るのですが、着替えが半端だったためスカートもパンツもずり落ちて両足にまとわりついてしまったのです。会場は大笑いで盛り上がりましたが、ブリジットにはショックしか残りませんでした。
そして巡業からパリに戻ったブリジットに、スター女優「ブリジット・バルドー」誕生のターニング・ポイントとなる出来事が起こったのです。ブリジット15歳の時のことでした(1949年)。母の女友達から、ファッション誌の『ジャルダン・デ・モード・ジュニオール』に「モード写真のモデル」としてブリジットを起用したいと申し出があったのです。「上流社会のお嬢さん」というイメージでした(ノー・ギャラだった)。さらに『エル』誌の表紙に、ブリジットが載るのはすぐ後のことでした。▶(2)に続く-未