アーサー・C・クラークの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 父はかつて郵便局に務める「電気通信」技師、母も「モールス信号」解読の「電信技手」だった 


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はじめに:奔放な「イマジネーション」と、リアルな「サイエンス・ファクト」の地平線

映画『2001年:宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督)の共同原作者であり、20世紀の「SF(サイエンス・フィクション)作家」を代表するひとりアーサー・C・クラークは、一方で人工衛星を使った電気通信リレーや軌道エレベーターなど実際的な科学的なアイデアマンとして、また宇宙開発に関する科学解説書の作者としても広く知られています。「衛星通信」に利用されている赤道上空3万6000キロにある静止軌道は、「クラーク軌道」と呼称され、SF小説に描かれた物語は科学技術に裏打ちされたまさに近未来の科学システムを先取りしたものでした。他の大勢のSF作家と異なるアーサー・C・クラークSFのおおきな特徴は、壮大な「人類の宇宙的進化」を主要なテーマにしたことで、そのためにはリアルな科学的知識は必要不可欠だったのです。そのために人類の未来を扱う科学解説者としても活躍できたのです。
アーサー・C・クラークのこうした奔放な軌道をえがく「イマジネーション」と、その軌道上に打ち上げる実際的な「科学的知識」はいったいどこからやってきたのでしょう。日本の中学・高校にあたるグラマースクールを卒業した後、クラークは大学に行くことができず、公務員になっています。州の教育に関する事務を担う教育委員会の年金部門の監査役でした。第二次大戦中は、英国空軍の将校となり、レーダーや電波探知法の開発もおこない、戦後(28歳頃)にようやくロンドン大学キングス・カレッジ校に入学し物理学と数学を学んでいます。
では奔放な「想像力」はどこで鍛えられたか、またその「想像力」と科学的知識はどこでどの段階で、クラーク少年の「マインド・ツリー(心の樹)」のうちで連結されたのでしょう。またどんな”軌道”を描いて、「アーサー・C・クラーク」が誕生したのか。まずはクラーク少年の生まれ育ったイギリス南西部の入り江に面した小さな町をのぞいてみましょう。なんにせよそこが「アーサー・C・クラーク」の「マインド・ツリー」がまぎれもなく育った”土壌”であり、未来の「楽園の泉」を幻視した場所なのですから。

中世の面影を残した英国サマセット州の美しい海岸線のある町に生まれる

アーサー・C・クラーク(Sir Arthur Charles Clarke)は、1917年12月16日、イギリスの南西部に位置し、ブリストル海峡の南側につながる海岸線をもつサマセット(Somerset)州のマインヘッドに生まれています。マインヘッドは14世紀に小さな港をその嚆矢とし、中世に地域の交易センターとして発展した古い歴史のある町です。現在も人口1万人程のマインヘッド(Minehead)は、エドワード朝時代の古い建築物が残る、なんら未来的なものが存在しない海岸線に沿った静かで小さな町です。1世紀程前に隣町に暮らしていたロマン派詩人サミュエル・テイラー・コールリッジが、親友となった詩人ウィリアム・ワーズワースとよく散策したマインヘッドに連なるブリストル海峡を見晴らせるなだらかな丘陵がありますが、彼らが詠ったのも中世の面影を残す景色でした(2人で英国ロマン主義運動の画期となる『抒情詩集』を著した。また「湖水詩人」とも呼ばれる2人が一緒に滞在していただけあって見事な入り江がある。アーサー・C・クラークが後にスリランカに暮らすようになった理由の一つが、美しい海や湖水の存在であったにちがいない)。
イギリスの他の地域と比べても、その中世的風景をのぞけばなんのとりえもなさそうな小さな町の環境から、どのように20世紀を代表するSF作家であり、今日の衛星通信の基幹となる「衛星通信」の科学的方法をすら”発見(『Wireless World』誌に論文発表)”した人物が生まれえたのでしょうか(ちなみにアーサー・C・クラークは、11歳の時からグラマースクールに通い、卒業すると公務員になっています。「衛星通信」ともなれば当然すすんだ理科系のある大学にすすんだとおもうでしょうが、アーサー・C・クラークは当時大学に行くことはできませんでした)。
海に囲まれた日本の多くの地域でも、歴史は少なからずあるけれども先進的な産業や科学文化がほとんどないマインヘッドのような村や町はいたるところにあるとおもいます。ある意味、大都会にふつうにあるものが欠如しているぶん、「想像力」を鳥のように羽搏かせるにはうってつけの土地といっていいかもしれません。大都会のロンドンやマンチェスターと比べ、日々満天の星を眺めることができ、大海に通じる海峡と海風、自転する「地球」の呼吸を肌で感じうるような場所だったとおもわれます。なんといっても「海」は、宇宙の<鏡像>なのです。アーサー・C・クラーク自身、30歳を越えた頃に潜水をはじめたのも、「宇宙探査」への興味からだったのです。

父はかつて郵便局に務める「電気通信」技師だった

さて、先進的な産業や科学文化がまったく乏しい小さな町マインヘッドでしたが、そこには存在したのはアーサー・C・クラークの「父」となり「母」となる、第一次大戦中に懸命に生き抜いている悩み大き”ひと”でした(アーサー・C・クラークは、第一次大戦中に生まれている)。アーサー・C・クラークといえど、後に著した『幼年期の終わり』に登場する全能の神の如き存在のオーバーロードや、地球人を超えた知能をもつオーバーマインドから、命や知性を頂いたわけもありません。
小さな海辺の町の小さな家に暮らしていた「父」は、郵便局に務める「電気通信」技師でした。第一次世界大戦終結後に(戦中は「電気通信」技師としての技能を提供させられたにちがいありません)、復員士官となった父は、他の復員士官たちと同様にどうやら一方的に農場をあてがわれ農業をやらされていたようです。その場所がマインヘッドでした(クラーク家の先祖がどこの出身かは分かりませんが、まだ戦時中のマインヘッドで誕生しているので少なくともこの地に縁もゆかりもあるはずです)。郵便局勤めの、いち技師が素質も経験もない農業をたやすくおこせるわけがありませんでした。商売感覚もまるでない父は他に手に職をもつこともないまま、鬱屈しながらもせっせと農場を営んでいたといいます。そしてクラークが14歳の時(1931年)に若くして亡くなります。
クラークは大戦が終焉する1年前に生まれているので、「電気通信」技師をしていた頃の父の姿から直接的に影響を受けることはなかったようです。けれども自伝の『楽園の日々ーAstounding Days』(1990年 早川書房)には、「電気通信という父親の経歴が、わたしの将来の進路に影響したのではないかと、ときに思ったものである」と語っているところをみると、少年時代にクラークは父がかつて電気通信技師だったことをちゃんと知っていたに違いありません。
この第一次世界大戦ではじめて人類は、戦車やマシンガン、戦闘機といったお馴染みのハードウエアだけでなく、電話や無線電信(Wireless Communication)を戦場で用いはじめています。しかし志願して陸軍飛行連隊に所属したサン=テグジュペリ第一次大戦後、非戦争時になると目指していた軍用機操縦士としての当てあてがなくなり、民間機によるアフリカやアルゼンチンへの危険極まりなり郵便配達が仕事となったように、「電気通信」技師だった父も、そのまま能力を活かせる職場に復帰できませんでした。疲弊した経済社会が回復し、戦場で活躍していたテクノロジーが民生化されるまでには相当の時間がかかったのです。

第一次大戦中、母も「モールス信号」を解読する「電信技手」だった

クラーク家では、父だけでなく、母もまた第一次大戦中は、電気通信の世界に通じていました。母は大戦中、高速で発せられるモールス信号を解読する「電信技手」(技師でなく、”技手”)だったのです。晩年に亡くなるまで、その技術を忘れることはなかったので、クラーク少年は、母から「モールス信号」の技術や実利的な側面も知らず知らずのうちに体得していたことでしょう。つまりは、後の衛星通信のアイデアマン「アーサー・C・クラーク」を誕生させたクラーク家の両親はともに、「電気通信の世界」に通じていた人物だったのです。
父か母の一方でも、家庭内においては、その幼少期に父や母の資質や能力、メンタリティにおいて、遺伝因子は別としても、おおいに影響を受けるものですが、父・母ともに同じ特殊世界に通じていたとなるとその影響は甚大なものがあるはずです。後にアーサー・C・クラーク自身、「電気通信の世界は母の方からも影響があったとおもう」と語っていることからもあきらかです。

数件隣に住む家の家族から刺激を受けた「空想力」、あやしげな本を借りて帰った

しかしアーサー・C・クラークのもう一方のずば抜けた才能、「SF(サイエンス・フィクション)」を物語る「イマジネーション」源はどこからやってきたのでしょう。クラーク本人は、両親のどちらかがSFファンだったとか、密かに得体の知れない文章を書きあらわす隠れた趣味(作家スティーブン・キングの疾走した父のように)があったとかは語っていません。またよくあるように叔父さんや伯母さん、あるいは親戚や従兄弟からの強い影響があったとも語っていません(様々な小さな影響は幼少期に触れた多くの人からあったようですが、そうした記憶はほとんど薄れていて、ある強烈な契機と影響だけが残ったとクラークは語っている)。
アーサー・C・クラーク」のずば抜けた想像する能力は、生得のものだったのでしょうか。彼は幼少期から<天才>だったのでしょうか。自由奔放な「想像力」はどこからやってきたのでしょうか。いくら両親ともども電気通信の世界に通じた人物であったとしても、むしろそうであったならば長男(弟が2人、妹が1人いる)は、将来大人になったら電気通信の仕事か、それに類することを仕事にしようと薄ぼんやりとおもったりする可能性が高いからです。ところがクラーク少年は、後に「地球はまだ幼年期」にあると大胆に想像してみるようになるのです。そして、まるで無線通信を夜空に向って放ち、「過去」や「未来」の人々と”交信”し、「現在」に生きる世界中の人々を熱狂させる物語を生み出していくのです。
じつはその無限の「空想力」の入口(”発射台”)もまた、生まれ故郷の小さな町マインヘッドにあったのです。それも数件隣の家に。そこにはエンジニアタイプの両親とはまったくちがうタイプー脇に逸れたインテリタイプの一家が住んでいました。両親も顔見知りだった(だろう)キリーさんの家に、クラーク少年はちょくちょく遊びに行っていたのです。少年時代には、近所の家は、時にまるで別の”惑星”のように感じることもあったでしょう。そして”周回軌道”のような小径を辿って遊びに行っていた時、その年1928年の11月に創刊されたばかりだった『アメージング・ストーリーズ』誌と”遭遇”したのです。ラリー・キリー氏は(当時30歳位で独身。なんの仕事に就いていたのか、就いていなかったのか、クラーク少年はそのSF雑誌の鮮明な印象しか覚えていないが、当時は年配の紳士という印象だったという)、クラーク少年がこの世で出会った”最初のSFファン”となったのです。
もし近所の一家が、変人とまでいかなくとも風変わりだからということで、子供に接触を禁じた時、あなたは、そして私たちは子供たちから”可能性”を奪うことになりかねません。子供たちはたんに最新テクノロジーが与える”情報”だけでなく、肌で接触し、身体ごとまるごと感得した”体験”を「心の樹」として内面化していくからです。近隣のお兄さん、お姉さん、お婆さん、お爺さん、叔父さん、伯母さんたちは、子供たちにとって家庭内や学校だけでは成長がいびつになったり疎外される「心の樹」の思わぬ芽吹きを後押ししてくれたり契機となったりしてくれる可能性が大いにあるのです。なぜなら学校では皆と同じ教科書を与えられ、その暗記力をテストするような方法は、可能性を摘み取ってしまいがちになることです。賢い子供たちのなかには、全課目のテストの点数にもはや重きを置かず、適当なラインで切り上げ、自分の興味の向くことに集中するようになりはじめているようです。
隣近所の人たちとの触れ合いがかつてのようでなくなった昨今、学校と塾だけに子供たちを放り込んでいる家庭は、後に子供たちから大きなしっぺ返しがくるはずです。なぜなら身体だけ大きくなっても、「心の樹」がまったく育っていないからです。

最初の「科学」への関心は、編物機械からやってきた

さて、クラーク少年が、SFファンのラリー・キリー氏以上に多大な影響を受けたのが、彼の”祖母(母ではない)でした。それは「科学」への興味でした。クラーク少年がいつも”オールド”・ミセス・キリーと呼んでいた祖母は、編物機械(ミシン)という1920年代初頭としては小さな家の中に置かれる最高レベルのハイテクマシンでした(日本ではトヨタ自動車の原点である豊田紡績が、自動織機の開発に懸命になったいたのも1920年代初頭でした)。クラーク少年はその驚きの手動式の編物機械に魅せられ、セーターやストッキングを編み出す”オールド”・ミセス・キリーの横からしこしこ”動力”を供給していたといいます。クラーク少年は彼女にありったけの質問を投げかけました。歯車や針の音におどるようにクラーク少年の「科学」に対する好奇心が膨らんでいったのです。
その一方、SFファンの息子ラリーにも影響を与えたであろう”オールド”・ミセス・キリーだけあって、未知の世界、失われた世界のことに興味をもっていた女性でした。たとえばアトラティス大陸の存在などをずっと真じていたのも彼女の影響でした(『アトランティスー大洪水以前の世界』(1882 イグナチウス・ドネリー著)といった類の本をクラーク少年に貸し与えていた)。そしてちょうどこの頃(11歳頃)のことです。クラーク少年はあがったばかりのグラマースクールの地下の溜まり場で、未知なるもの、そして「未来」や「科学」への関心を、さらに決定的なものにするものを見つけるのです。それはクラーク少年の「マインド・ツリー(心の樹)」の”樹根”の芯につながり、さらに頑丈な芯を形成するものとなっていくものでした。▶(2)に続く