スティーブン・スピルバーグの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 学校生活に馴染めず、”うすのろ”という渾名だった。アイゼンハワー時代のテレビっ子。映画は”両親公認”のディズニー映画しか見れなかった

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はじめに:S.スピルバーグを取りあげた理由めいたもの

映画監督というより「製作総指揮(プロデューサー)」としての方が目につくようになって久しいスティーブン・スピルバーグ。フィルムメーカーというより企業のCEO最高経営責任者のような存在だともされます。エンターテインメント映画産業の「代名詞」とまでいわれるようになったスピルバーグですが、そのあまりの存在ゆえ、もはやわざわざ彼の映画人になるまでの軌跡など、あらためてみてみようという気も起こらないのではないでしょうか。長ったらしい「伝記」ものなどもっての他と。
ところが「マインド・ツリー(心の樹)」のアプローチをかけると、「スティーブン・スピルバーグ」その人が、俄然、興味深くなってくるのに驚かされます。どのように映画監督になったのかという軌跡や「成功物語」など、私自身、もはやそれほど興味を惹かれるものではなくなっていますが、いったい全体、どんな環境や刺激、影響、また幼少年期に、どんな体験が深く刻印され、何に好奇心が向かい、その散らかった幾つもの好奇心がどのように集約(編集)されていき、それがどんな「行動」と「夢」を生み出していったか。よって「スティーブン・スピルバーグ」の「マインド・ツリー」は、偉大な映画監督になろうとか、どうしたら映画監督になれるのかといった、映画学校や定石の「ハウツー本」が提供する類のものはその目的・志向は自ずと異なりますスピルバーグ以外も同じです)
しかし、そうした人物の「マインド・ツリー」を読むことによって、おおいに「気づいたり」「再発見/再認識」したり、自身をよりよく識る(現在の自分に至るまでの自己の展開と成長と失敗。そして近い将来のために)ための「地図(マップ)」が、頭の中に形成されてくるはずです。できれば「「Mind Tree」の「フォトグラファー」のコーナー(Art Bird Books Website上/ http://artbirdbook.com)にあるように、気になる人や、あるいは自らの心の<ツリー・マップ>を、「絵」に起こすと最も効果があらわれます。
さて、スピルバーグはその特異なキャラクターとメンタリティから自身が監督した『E.T.』のように宇宙人と言われることがあります。とある伝記作家もそのタイトルを「地球に落ちてきた男」と名づけているほどです。その謂いに乗じて見方によっては、スピルバーグを「有機体」とみてみると面白いかもしれません。となれば「ある(時代)環境に実在する有機体が、その生きる環境を探索することによって獲得することができる意味・価値である」と定義されるという「アフォーダンス」という知覚心理学や「生態光学」スピルバーグ映画における「光」への強いオブセッションの概念を想起してしまうほどです。
ともかく小難しいことは脇におき、少年スピルバーグに何が起こったのか、どんな気質の子供だったのか、そしてクラスメートから”うすのろ”と呼ばれた少年が、家ではそら恐ろしいほどの”存在/行動家”になっていった、その契機は。まずはそのあたりから覗いてみましょう。

最も古い記憶は、6カ月の時のユダヤ教会堂でのもの。電気技師の父とピアニストの母

スティーブン・スピルバーグSteven Spielberg;以下、幼少年期は主にスティーブンと記す)は、1946年12月18日、オハイオ州シンシナティの街で生まれています。父アーノルド・スピルバーグは電気エンジニアで、母となるリア・ポスナーはピアニストをめざしていた音楽好きの女性でした。2人ともシンシナティ生まれで、また2人の両親スティーブン・スピルバーグからすれば父方と母方の両親)ともに、20世紀初めに米国に流れこんできた東欧からのユダヤ移民でした。スピルバーグの生後6カ月だったという最初期の記憶は、そうした一家の来歴に結びついたもので、それはシナゴーグユダヤ教会堂)の記憶だったといいます。
父アーノルドは、結婚後すぐに米空軍に入隊し、B25(1942年には、東京・横浜・名古屋・神戸などを初空襲した爆撃機)の通信技師になっています。派遣先はアジアのビルマ、「ビルマ・ブリッジバスターズビルマの橋を破壊するの意味)」という愛称がつけられた中隊に所属しています。終戦後は、技能を活かし事務機器メーカーのバロウズ(作家ウィリアム・バロウズの祖父ウィリアム・シュワード・バロウズの名前を冠した会社。第二次世界大戦後に、世界屈指のコアメモリ搭載型、さらに仮想メモリマルチプロセッサ搭載マシンを次々に開発・製品化している。1986年、スペリー社と合併、現在のユニシスとなる)に就職し、初期のコンピュータを設計しています。後に、RCA、GE、 IBMでもコンピュータの設計を担っているほどの技術的才人でした。ちなみに父アーノルドも子供の頃から機械いじりが大好きだったといいます。
伝記『スピルバーグの秘密』(フランク・サネッロ著。学研 1996年)でも著されているように、スティーブン・スピルバーグは、技術的才人の父と後に記すようにピアニストとしての才能があった母リアからの芸術面の影響が融合したものと容易に結びつけられやすいのですが、「マインド・ツリー(心の樹)」的にみれば、スティーブンの才能の”根っ子”は、遺伝子の2重螺旋の様ではなく、「心の樹」の根元をしっかり覗いてみれば、実際の樹根と同様にあちこちに根先がのび、根先の見えないものが多々あることが想像できるでしょう。

「文学」がごっそりと欠けていたスピルバーグ

面白いのは、スピルバーグ家では、他の領域と比べると「文学」がごっそりと欠いていたことです。
日本では2010年は、「読書年」とされ活字本を読むことが奨励されますが、「マインド・ツリー」をすでに幾らか読まれている方にはおよそ見当がついておられることと思いますが、幼年・少年期に活字本に接した経験のない人が、そうしたキャッチコピーだけで突然に読みだし、読書を心底楽しむようになることはまずおこらないということです。日頃読まない父や母が、子供に言い聞かせても効果はまずないはずです。よって「読書年」という大号令は、誰にも何にも感動を与えることのないまま過ぎ去っていくしかありません。また、「マインド・ツリー」じしん、単に「読書」を奨励するものでもありません。「読書」がその人の知性を磨き、言葉や知識を増やし、生き方に深みや厚みをもたらすでしょうが、別の方法においてその人なりの独自の人生をつくりだしている人はざらにいます(そういう人たちが人知れず本読みの達人だという場合もしばしばあるでしょうが)。つまり濃厚な活字文化以外の文化や社会経済で生き抜く人たちも、一人ひとりかけがえのない独自の「心の樹」をもっています。濃い「読書」という行為も、それぞれ継がれてきた「心の樹」の”根っ子”の一つにしかすぎないともいえます。
しかしそれは小さくか細い好奇心を発した”根っ子”が、まだ見ぬ”世界”にのりだし、志を同じくする先達の達成を知り、物事をさらに考え、みずからの魂を発露させる契機ともなりうるものとして決してないがしろにされてはなりません。が、同時にわたしたちはもはやお題目だけで動くような時代に生きてはいないということです。

父の愛読書は、トイレに積んであった「SF雑誌」

今回取りあげたスティーブン・スピルバーグがまさにそうだったのです。スティーブンもよく語っているように、読書は大嫌い、本を読むのがまったく遅く、学校の授業で席を立って本を読まされるのは大汗と恥をかくだけで大の苦手、その結果、「文学」作品や活字ものはほとんど読むことがなかったといいます。時代は完全にテレビ時代と化し、スピルバーグ家では、スティーブンが両親の外出中にテレビを見ないように毛布をかぶせ、さらに毛布を動かしたかチェックするために1本の髪の毛をのせて行ったのです。スティーブンは髪の毛作戦を見破っては、ずっとテレビに見入っていたといいます。ただスティーブンには変わったところがあり、テレビに映像が映っていないザーザー音を出すだけの「砂嵐」や、遠方の放送局から発信されている乱れた映像を見ているだけでなぜか心地よさを感じていたといいます。とにかく外部からの電気的な刺激がないと、スティーブンはコンセントが抜けたような感じになってしまうのです。これは同時代の他の子供たちのように単にテレビっ子だったのではなく、父が電気エンジニアだったことがどこかで影響している可能性があります。
この息子スティーブンのあまりのテレビ浸け(大の漫画好きでもあった)に焦った父は、スティーブンに「文学」に目を向けさせようと仕向けました。ナサニエル・ホーソーンホーソンの小説『緋文字』を読むように与えましたが、スティーブンは本の頁の隅っこにパラパラ漫画を描くことしかしませんでした(ボーリングのストライク・シーンの絵で、ページをめくるとピンが次々に倒れストライクになった。この時の『緋文字』の隅に描いたパラパラ漫画が、ある意味スティーブンの”最初の映画”となったのは、なにやら象徴的です)。およそ父アーノルドにしても息子に文学を読むよう諭すような口ではなく、「SF雑誌」こそが父の愛読書だったのです。いつでも読めるようにトイレに積んであったのは、ジョン・W・キャンベルが創刊した『アスタウンディング・サイエンス・フィクション(1960年に『アナログ・サイエンス・フィクション/サイエンス・ファクト』と改名)でした。
映画『アバター』の監督ジェイムズ・キャメロンの場合も、父は電気技師でしたが皆を一糸乱れず統率するリーダー的な人物で(まさに映画製作時のジェイムズ・キャメロンその人)スピルバーグの父のように「SF雑誌」を読むタイプではありませんでした。子供はおよそ親がいつも手にしたり隠し読みするような書物が気になってくるものです。スティーブンも家の同じトイレの中で積まれた「SF雑誌」を手にとらないわけがありません。そしてトイレの中には、決してホーソーンの小説『緋文字』は積まれていなかったのです。

幼い頃に刻印された「音(楽)」と「流星雨(流れ星)」「(神々しい)光」

ティーブンが4、5歳の時のことです。父が鉱石受信機をつくってスティーブンに玩具として与えました。夜にはスティーブンはこの鉱石受信機をあれこれいじくっていたといい、あるとき「音(楽)」が流れだしたことに感激しています。また、6歳の時には、真夜中に、父が寝ていたスティーブンを起こして30分ほど車を走らせ、大勢の人が地面に仰向けになっている場所に連れていったといいます。スティーブンに「流星雨」を見せるためでした。そして幼い時からスティーブンには、神々しい「光」に対するオブセッションがあったといいます。それは父にユダヤ教寺院に連れて行かれた時、至聖所(契約の箱の複製物とトーラーの巻物が保管されている)に神々しい光が溢れ返っていたのです。スティーブンはその「光」をその後も自分で「神の光」と名づけてずっと慈しんできたといいます。
このように夢中になったテレビや漫画、映画以外に、スティーブン少年の「マインド・イメージ」にずっと刻印されたもの、それは何処からか聴こえてきた「音(楽)」と「流星雨(流れ星)」、そして「(神々しい)光」でした。なんとこの3つとも映画『未知との遭遇』に重要な場面で登場するのです。最も有名なシーンの一つが、6歳の少年が台所の扉を開けた時に、溢れかえる「(神々しい)光」に包まれるシーンでしょう。そして天空から降り注ぐような「音(楽)」も忘れられません。またスピルバーグの多くの映画には必ず夜空が映しだされ「流れ星」が降るシーンがあるといいます。どれもが幼い頃に、自身の「心の樹」に深く刻まれたものが、後にフィルムに、そしてスクリーン上に「映し(移し)」込まれたのです。

度重なる引っ越しで学校生活に馴染めず、”うすのろ”という渾名がつけられた

スピルバーグ一家の度重なる引っ越し(父の転勤や新たな職場への)もスティーブン少年の心に大きな影響を与えています。最初の引っ越しは4歳の時(1950年)バロウズ社からRCAに鞍替えしたためにオハイオ州からニュージャージー州ハドンフィールドへ、その3年後には、今度は出世を求めGE(ジェネラル・エレクトリック)に転職したため一家で遥か遠い西部アリゾナ州フェニックス郊外(スコッツデール)ベッドタウンに移り住んでいます。こうした引っ越しには、自分の能力を高く買ってもらえる会社で働く父本人は別として、母や子供たちにとって大きな精神的負担となって襲いかかってきました。スティーブンは学校ではつねに転校生として迎えられ、他にユダヤ人の生徒がいない新しい学校生活や環境になかなか融け込めなかったといいます。
しかもクラスメイトから”うすのろ”という渾名(あだな)がつけられてしまいます。スティーブンの下唇がやや突き出し、いつも半開きのようにみえた口許(くちもと)がそうした勝手なイメージを与えてしまっただけでなく、徒競走では実際に知的障害の同級生と最終ランナーとなって競い合ったエピソードは有名で、バスケットボールやベースボールでチームのメンバーに選ばれることは金輪際ありませんでした。生物の授業のカエルの解剖の時、気分が悪くなり外に飛び出したのは女子生徒たちとスティーブンだけでした。しかも先述したように本を読むのが大の苦手で、授業中に席を立って本を読むことに耐えられません。これでは学校が大嫌いになるのは目に見えています。

アイゼンハワー時代のテレビっ子。見れたのは両親公認のディズニー映画だけ

1950年代初頭に幼少年期を過ごした子供たちはスティーブンにかぎらず、漫画に夢中になり、同時に「アイゼンハワー(大統領)時代のテレビっ子」世代でした。もぞもぞ本を読まなくても、面白い漫画がつぎつぎに登場し、テレビに釘付けになる子供たちが大量発生しました。父アーノルドも家でとっていた地元新聞の漫画欄を面白可笑しくスティーブンに読んで聞かせていたほどでした。そしてスティーブン7歳の時(1953年)、最初の映画との”遭遇”がやって来ました。
ティーブンが初めて見た映画は、『地上最大のショウ』(セシル・B.デミル監督)でした。父がフィラデルフィアの映画館に連れて行ってくれたのです。映画館という建物の中に入っても、カーテンが上がるとステージ上でサーカスが見れると思っていたといいます。それが真っ白い布があるばかり。テレビ体験があっても、そこで何が起こっているのか最初はわけがわからなかったといいます。

それ以降、スティーブンは”両親公認”の映画を継続的に見ることになりますが、そのほとんどがディズニー映画でした。「ウォルト・ディズニーこそ僕の生みの親で、テレビは育ての親だ」と後にスピルバーグはよく語っていますが、”生みの親”だというディズニー映画(『バンビ』と『ファンタジア』)でさえ、スティーブンは幾つかのシーンに怖がって座席の下に潜ってしまうほどだったといいます。8歳の時に見た『白雪姫』ではバラバラになる骸骨のシーンを恐がり、3晩続けて両親のベッドにもぐりこんでしまったといいます。そんな女々しいスティーブンが、8ミリ映画を撮るようになっていくのです。▶(2)に続く

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