ペレの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- ペレの曾祖父と曾祖母は黒人奴隷だった。プロのフットボール・クラブからスカウトされた父。授業中は落ち着きなくおしゃべりばかりの「問題児」。8歳の時の夢は「パイロット」


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はじめに:学校の授業を何度もさぼってまで行った場所は、「サッカー・スタジアム」ではなく、「飛行機の演習場」だった

ペレといえば、「サッカーの王様—The King of Football」です。16歳の時、サンパウロサントスFCに入団、16歳9カ月でブラジル代表としてデビュー、17歳でワールドカップに出場し、当時の史上最年少でのゴールを決めるなど大活躍、ブラジル3度の優勝に導き、公式記録では前人未到の1281ゴールを打ち立てています。ペレのみならずブラジルや南米の多くのプロのサッカー選手が貧しい家庭環境の出身ですが、ペレがサッカーに夢中になっていく過程をみると、幼少期からずっとサーカーに夢中になり、脇目もふらずにサッカーを追い掛け、それに並外れた身体能力が掛け合わさって「ペレ」が一気に誕生した、というようなイージーなイメージでは推し量れないものがあることがみえてきます。
第一に少年期のペレは、落ち着きがない子供で、授業中もすぐにぺちゃぺちゃ喋りだす「問題児」だったのですが、ちょっと変わったところがあったといいます。少年ペレの最初の「夢」は、サッカー選手でなく、「パイロット」でした。パイロットじたい、動く乗り物が大好きな少年たちにとってはありえない話ではないのですが、学校の授業をさぼっては飛行機の演習場に”しつこいくらい”に通う少年だったのです。父は息子に「パイロット」になるために勉強しておかなくてはならないことを教えたといいます。しかしある日起こったことを目撃し、「パイロット」になる夢が突然ペレから離れていってしまいます。
またペレの母もこれもよくいる母親のように危険な遊びをやらないようつねに監視し、宿題をさせ、次の学校に進学し、まっとうな仕事に就いて欲しいと願う人でした。とにかく少年ペレは、マンゴーやブドウ、サトウキビが植わっていた庭(父の関係で引っ越した大きな町バウルでの家)よりも広い場所、家の前の通りよりももっと広い場所、—それが最初のうちは「空」や(「パイロット」への夢)、「川」(溺れて死にそうになった)だったのですが—、単純に言えば教室や部屋の中にじっとして居ることがたまらなく嫌だったのです。誰しも子供の頃は、そうした思いになったりするものですが、その度合いは幼少期の「心の樹」の根のすわり具合によってかなり変わるものです。
それではペレの「マインド・ツリー(心の樹)」を一緒にみてみましょう。その「心の樹」の向こう側には、ペレの先祖たちの「心の樹」が重なってみえてきます。ペレの先祖たちは、「黒人奴隷」として、中央アフリカから”根こそぎ”狩りとられてきた者たちでした。ペレの「心の樹」は、決して彼個人のものなのではく、そうした彼等の「心の樹」と深くつながっているものなのです。ペレ自身もそのことを後に強烈に気づかされることになります。

ペレの曾祖父と曾祖母は、まだ黒人奴隷だった

ペレ(Pelé ; 本名:エジソン・アランチス・ドゥ・ナシメント—Edison Arantes do Nascimento/以下、幼少期も「ペレ」と記す)は、1940年10月23日、ブラジルのミナス・ジェライス州トレス・コラソンエスに生まれています。トレス・コラソンエスは、リオ・デ・ジャネイロサンパウロ(あるいはすぐ南方にあるサントス)とを結ぶ、二等辺三角形のちょうど頂き辺りにあり、ミナス・ジェライス州の最南端の町です。ペレの祖先の出身は、中央アフリカアンゴラかナイジュリアだったであろういわれています(ペレの家系をたどろうと調査したジャーナリストからペレが知った情報)。ペレの姓ナシメントは、黒人奴隷として働かされたプランテーション・オーナーの姓だったようです。
ブラジルでの奴隷貿易の廃止は1850年でしたが、奴隷制が廃止されたのが1888年でしたアメリカ大陸ではブラジルが奴隷制を廃止した最期の国となった)。ペレの曾祖父と曾祖母は実際まだ奴隷で、祖父と祖母の世代が、生まれた時からはじめて自由の身となった世代でした。ペレの「マインド・ツリー(心の樹)」は、アフリカの大地から村ごと”根こそぎ”捕らえられ、見も知らない土地に狩り出された先祖たちの哀しみの心の層から生えています(ペレは『自伝』に奴隷制は過去の遺物ではない、と記している)。ペレがサントスFCに所属していた時、はじめてアフリカ中部の国々を回って試合をした際、ペレはそこが自分の故郷なんだと感じた心と、つめかけた何万人ものアフリカ黒人たちの心と強く響き合い、世界観が一変したと語っています。


◉ブラジルの黒人奴隷について◉
ブラジル黒人奴隷史には、つぎの3つの時代があります。「砂糖の時代」(1601〜1700年)に65万人、「金の時代」(1701〜1800年)に189万人、「コーヒーの時代」(1801〜1870年)に115万人が、それぞれアフリカから連れてこられました。ペレのルーツも中央アフリカ出身だったように、実際ブラジルへの黒人奴隷は、中央アフリカギニア湾のアエウギン、ラゴスなどの湾で船積みされ(過酷な航海途中での死亡率は20%だったという)、二カ月間かけリオ・デ・ジャネイロサルヴァドールなどで降ろされ奴隷市場に送られています。ちなみに内陸進出には、高価になっていた黒人奴隷の代わりにインディオが捕獲され労働力として使用されています(「インディオ奴隷」といわれる)。
「金の時代」への移行の背景には、ブラジル北東部から追い出されたオランダが、カリブ海地域ではじめたサトウキビ栽培が成功し、ブラジルの砂糖生産事業に深刻な打撃を与えたため、砂糖に代わる新たな「富」としての金鉱が探索されていました。ペレの両親が出会ったのはまさに「宝石の鉱山」が州名になったミナス・ジェライス州です。まさに探検隊が金脈を発見(1693年)した土地で、すさまじいゴールドラッシュになったといいます(金の後に、ダイアモンド、トパーズ、紅水晶などが次々と産出された)。北東部の砂糖生産地から零落した農園主たちが奴隷を引き連れてやって来ただけでなく、あらゆる階層の人たちが雪崩をうって押し寄せ、無法地帯と化したといわれます。ペレの姓ナシメントは、プランテーション・オーナーの姓であり、祖先の出身もおおまかに辿れたということなので、「コーヒーの時代」に入ってから奴隷として連れてこられた可能性もありますが、ペレが生まれた「トレス・コラソンエス」は、金を中心に採れる鉱山が多いので、「砂糖の時代」の奴隷からこの地へと連れてこられた可能性も否定できません。


ペレは、誕生した地「トレス・コラソンエス」に、幼少期の2、3年間しか過ごしていませんが、『自伝』のなかでも書かれているように、誕生の地は、深く意識の裡で生きつづけているといいます。「トレス・コラソンエス」というこの土地の名は、この地に働いていたひとりの農夫の発案で建てられた教会の名「ホーリー・ハーツ・オブ・ジーザス・メアリー&ヨセフ」からきています。「ジーザス、メアリー、ヨセフ」の”3人の心(あるいは3つの心)”、つまり「トレス・コラソンエス」がこの土地の名となったといわれています(説はブラジルらしく複数ある)
ほとんど記憶のないこの町がどうしてペレにとって重要なのか。それには理由があります。ペレがこの土地に生まれるべくして生まれたという強い実感は、命を落としてもおかしくなかった「3度」の体験からきていたのです。同時に、その危険な体験は、少年ペレの腕白ぶりを裏書きするものでもあり、その危機はあわやのところで両親や大人たちに救われていたのです。「3度」も命が助かった程の腕白ぶりがが、ペレをサッカー界の「キング」にしたともいえるかもしれません。

生家は今にも崩れ落ちそうな古いレンガづくりの家

ジョアン・ラモス・ナシメント(通称ドンデーニョ)と母セレステが出会ったのは、このトレス・コラソンエスでした。父ジョアンは100キロ程離れた小さな町の出身だったのですが、トレス・コラソンエスで軍隊に所属していました。トレス・コラソンエスに生まれ育ったのは母セレステの方で笑顔が可愛らしい小柄な女性でした(父ドンデーニョは180センチ以上あるが、小柄な母の遺伝のせいかペレの伸長はサッカー選手としては小柄な171センチだった)
父ドンデーニョが夢中になっていたのは、「フットボール=サッカー」で、トレス・コラソンエスアトレチコセンターフォワードをしていました。そのクラブは地元のフットボールクラブで、プロのクラブではなく、いくら勝っても勝利給が出ることなどなく母の待つナシメント家にお金が入ることは一切ありません。そのためか当時フットボールをやっていると聞くと、ほとんどの場合あまりいい話にはならなかったといいます。そして2人の家も、古いレンガづくりで今にも崩れ落ちそうな家でした(現在は、家の前の通りがペレの名にちなんで名づけられ、家にはペレの生家だと記した額が飾られてある)。2人はセレステが15歳の時に結婚。翌年すぐにペレが生まれています。
生まれる時、お腹をあちこちキックするかのように、全身で暴れんばかりにして生まれたそうです。父は男の子だと喜び、生まれたばかりの足を撫でながら、素晴らしいフットボール選手になるぞと言ったそうです(ところがペレの最初になりたかったのは、フットボール選手ではなかった)

ペレの本名「エジソン」は、発明王トーマス・エジソンにちなんで付けられた

ペレの本名のエジソン・アランチス・ドゥ・ナシメントの「エジソン」は、ペレがちょうど生まれた頃に、トレス・コラソンエスのペレの一家(ナシメント家)にやってきたあることを記念して付けられた名前でした。それは「電気」でした。父ドンデーニョは、その電気を”表現”してくれる「電球」を「発明」したトーマス・エジソンに敬意をあらわして付けたといいます。両親は、トーマス・エジソンの実際の名前「Edison」から「i」を取って「Edson—エドソン」としましたが、出生証明証で担当者が間違って、「Edison」と記入したため、「パスポート」も含めその後のすべての公式書類には、両親が付けた名前「Edson」が記載されることはありませんでした(ちなみに本当の誕生日は、10月23日で、10月21日となっているのは同じく公式書類上の間違い)
人の名前はよく体をあらわすといいますが、面白いのはトーマス・エジソンにちなんで付けられたペレの本名はダテではなかったということです。つまり電気を”表現”してくれる—明るく、見えるようにする—「電球」を発明したエジソンに対して、ペレは身体の電気シナプスを伝わる全<エネルギー>を「サッカー」として(あるいはサッカーを通じて)見事なまでに”表現”したのですから。



◉ブラジル・サッカーの起源と最初の黒人選手の誕生◉
サッカーがブラジルに伝わったのは、黒人奴隷が解放された数年後の1894年だとされます。英国に留学していたサンパウロ生まれの英国系ブラジル人チャールズ・ウィリアム・ミラーが、サッカーのルールブックとボール、ユニフォームなど用具一式を持ち込み、サンパウロ在住の英国人のクリケットクラブ「サンパウロ・アスレチック・クラブ」内にサッカークラブを創設しています。ブラジル在住のヨーロッパ人やヨーロッパ系ブラジル人—どちらにせよ上流階級の白人—の間で人気を集め、1901年にサンパウロに国内初のサッカーリーグが創設され、翌年5クラブによるリーグ戦が行なわれています。
リーグ戦といっても上流階級の白人エリートたちにかぎってのこと。黒人奴隷解放後も、社会的ダーウィン主義や進化論の影響で人種的偏見は根強く、競技場やグラウンドで英国式サッカーを楽しむ白人エリートが、道や空き地で古着や靴下を丸めたボールを裸足で蹴る黒人たちと、サッカーにおいても交わることはなかったのです。
黒人が初めてブラジルのサッカークラブに入団したのは、ボートクラブとしてリオ・デ・ジャネイロに設立(1898年)された「バスコ・ダ・ガマ」が1916年に設けたサッカーチームで、翌17年のことでした。驚くべき身体能力をもった黒人や黒人と白人のハーフのムラットも入った人種交合チームがリーグ優秀したことで、状況が一変していきます。ブラジル・サッカー界の黒人選手の社会的立場の向上を決定づけたのは、オーバーヘッドキックの生みの親で、1930〜40年代のワールドカップで大活躍したレオニダス・ダ・シルバでした。ドイツ人とのハーフのムラットで、1919年の南米選手権の英雄アルトゥール・フリーデンライヒも、英国式サッカーから「人種混成型」のファンタジックなブラジル式サッカー誕生に大きな影響を与えた初期のプレイヤーでした。
このようにフィールドで白人に混じって黒人がプレーするようになったのはペレの父ドンデーニョが生まれるほんの数年前のことだったのです。ドンデーニョの世代は、幼少年期に白人に混じってサッカーをしている黒人を見た最初の世代ということになります。それはリオ・デ・ジャネイロだけの現象でなく、それに遡ること7年(1910)年には、人種や階級に関係なく誰でもプレーできるクラブが、5人の労働者によってサンパウロにも創設されています。それが後にサンパウロで人気ナンバーワンのクラブになる「コリンチャス」でした。リオやサンパウロだけでなく、父ドンデーニョが住んでいたミナス・ジェライス州でもクルゼイロアトレチコ・ミネイロを中心に、1915年にリーグ戦が始まり、その動きはブラジル全土にひろまっていったのです。

プロのフットボール・クラブからスカウトされた父。トライアウトで大怪我

やがて一家に弟ジャイール(通称ゾカ)が誕生しますが、母セレステは兄弟ともに父のようにフットボールに夢中にならないように祈っていたようです。母はフットボールにいくら夢中になっても暮らしはいっこうに楽にはならないことが骨身に滲みていたのです。しかしドンデーニョのサッカーへの取り組みは真剣で、伸長180センチを越えていた父は、誰よりも高い打点を活かし、強烈なヘディングが得意なストライカーになっていきます。ブラジル代表のヘディングが得意なバルタザールを彷彿とさせ、「田舎のバルタザール」と呼ばれるようになっていました(一試合でヘディングシュートを5本を決めたことがあった)
ペレによれば、ペレの家系にはフットボーラーの血が流れていた、と語っています。父の弟(叔父)も父にまさるとも劣らずサッカー好きで、名ストライカーだったといいます(若くして亡くなったためペレが会うことはなかった)。サッカーに関しては他の誰よりも知悉していた父ドンデーニョは、ゴールと家計が直結するプロサッカー選手を目標にしはじめていたのです。
ペレ2歳の時(1942年)、ついに父ドンデーニョは州都ベロ・オリゾンテに拠点を置く、全国にその名を轟かせる州一番のビッグクラブ「アトレチコ・ミネイロ」にスカウトされたのです。ところが、その前のトライアウトの試合で悲劇が起こってしまいます。対戦相手のディフェンダーのアウグスト(1950年ワールドカップの主将)と試合中に激突。靭帯をやられてしまいます。次の試合にも出場できず、ドンデーニョの夢はついえます。
父ドンデーニョはトレス・コラソンエスに戻ると、地元のフットボール選手としてキャリアを再開します。サン・ローレンソや山の山腹にある温泉地ロレーナという近郊の町に父の仕事の関係で移り住んだ時にも、ドンデーニョはそれぞれの地元のクラブでフットボールをつづけていくのです。家計はいっこうに代わり映えしません。
4歳の時のことです。父がサンパウロの北西の町バウルのフットボール・クラブからオファーが掛り、役所の職員としての仕事も提供してくれることになり一家と叔父さん、父方の祖母ともども移り住むことになります。が、新しく就任した会長がその提示を再考し、役所の職員の話がふっとんでしまったのです。父はサンパウロ州の大会最優秀選手に選ばれる程大活躍しますが、膝の状態が悪化していきました(間接間軟骨だったが当時は手術することはなかった)。この頃、一家の食事はパンとバナナ一切れの状況が続き、衣類は捨てられてあったものを着、屋根は雨漏りしていたといいます。叔父さんはその土地で20年近く配達の仕事を続け、そのお陰で一家がやっていけたといいます。
ペレはバウルへの列車の旅で、一度命を落としそうになっています。窓から体を乗り出し過ぎ落ちそうになったところを父に捕まえられ引っぱり上げられたといいます。「トレス・コラソンエス」の「3つの心」の最初の一つがこれで、ペレはその時のことをよく覚えているといいます。

7歳の時、近所やスタジアム、駅で「靴磨き」をする

ペレ7歳の時、少しでも家計に貢献しようと思い、「靴磨き」をしようと考えます。叔父さんに手を回してお金を掻き集めるのを手伝ってもらい、靴磨きセットを購入しました。近所では2人に1人は裸足なので仕事になりません。比較的近くの通りに並ぶ家々を回ったものの磨かせてくれたのは一軒だけ。しかしペレ少年は、このことで学びます。自分が提供するサービスの値段のこと、お客を見込める場所のことです。父がフットボールの試合がある日、スアジアムで靴磨きをし幾らか稼ぐことができ、続いて少し遠い駅まで行って試すことに。ところが駅は別世界でした。同じように考える少年たちが大勢いて熾烈な競争があることを知ったのです。
ドンデーニョは診療所での仕事(洗い物などの雑務だったが地方政府からの助成金があった)を手にし、家計ははじめて好転しはじめます。少年ペレも子供なりにそれを感じとり、家に日が射したように感じたといいます。

授業中は落ち着きなく、おしゃべりばかり。「問題児」に

8歳の時、「靴磨き」に熱中するペレの教育のことが一家のなかで問題になってきました。ペレは8歳の時(おそらく少し遅く。貧困層ではよくあることだったが)、バウルにあるアーネスト・モンテ小学校に入学します。この小学校はペレ家のような貧困層に近い家の子がいくことはまずありえなかった小学校だったのですが、4年間勉強し、つづいて中学に進んで4年間勉強、そして幸運ならば次の高等学校へ進学し(そして大学をめざし)、真っ当な仕事に就くべきだと主張する母の希望で入った小学校でした。
母と祖母は麦輸送で用いられる純綿の袋を生地にしたシャツを縫い上げペレに着させたといいます(ズボンは破れたものを縫えば問題なし)。父がついてきてくれた初日から何日かは行儀のよい模範的な生徒だったといいますが、それ以上は我慢できなくなってしまいます。落ち着きがなく授業に身が入ることもなく、おしゃべりが止まらなくなってしまうのです。勉強をしなくてはという気持ちとは裏腹に、ついつい悪戯らに走ってしまう少年ペレ。その扱いづらさ腕白ぶりは、先生の内であっという間に「問題児」扱いされるようになってしまいます。とにかく学校は少年ペレの気質や性にまるで合わなかったことは確かです。

パイロット」になる夢をもった8歳のペレ。飛行場に通いつめる

8歳の時、少年ペレは学校そっちのけで、気になっていた飛行場に頻繁に通いつめるようになります。そこは「エアロ・クラブ」の演習場がある飛行場で、飛行機やグライダーの演習風景を見ることがお気に入りだったのです。引っ越して来たバウルは、サンパウロ州の中程に位置する中心都市(当時人口8万程。ちなみにパウロ州は明治以降の日本人移民が最も多い土地で、現在もその子孫の日系ブラジル人が最も多く住む)だったので、飛行場があったのです。
ペレは「パイロット」になろうと夢見はじめていました。興味深いことは、7、8歳頃の年齢だと、多くの場合、将来の「夢」はまだ薄ぼんやりしたもので、その想いだけが「夢」の周囲をぐるぐる回るだけで満足し、「夢」に近づくためになかなか踏み込んでいかないのではないでしょうか。「学校」をさぼってまでも、何度も何度も通いつめる、見に行きたいという気持ちをどうしても押さえられない、この他人には理解できない熱い思い、向う見ずで一途な行動力こそ、後の困難な人生に立ち向かう時に重要になってくるのです。失敗ももたらしはしますが、他の人には得られない<幸運>をももたらすのです。パイロットたちの仕事ぶりは、ペレを興奮させつづけました。空を飛ぶ仕事をして暮らしていけたら。ペレはパイロットに夢中になります。子供たちは自動車や電車、飛行機など、動く乗り物の虜になるものですが、ペレの場合、「エジソン」という世界の発明家の名前が、無意識のうちにはたらいていたかもしれません。しかも母は父のようにサッカーにかまけることには賛成しない空気を体中から出している。
ある日、少年ペレはパイロットになりたい「夢」を父に話します。心の中ではそんな夢は父に相手にしてもらえないだろうとおもっていたので、「立派な夢じゃないか」と父に言われたことは少年ペレにとってうれしい驚きでした。父はパイロットになる「夢」を実現するために何が必要か、身につけなくてはならない資格や技術、読み書きの必要性についての助言から、学校の授業が意味をもちだし、有益なものにおもえてきたといいます。この時から、サッカーの世界しか知らないとおもっていた父の人間的な器の大きさに触れ、父の言葉に重みを感じるようになったといいます。ところが勉強の大切さが頭では分かっても、少年ペレの授業をさぼる習性は変わらないままでした。
▶(2)に続く-未

・参照書籍『ペレ自伝』(伊達淳訳 白水社 2008年刊)/『ブラジル史』(金七紀男著 東洋書店) /『サッカー「王国」ブラジル』(矢持善和著 東洋書店)/『情熱のブラジルサッカー』沢田啓明著 平凡社新書

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