スティーブン・スピルバーグの「Mind Tree」(2)- アウトドア派のスピルバーグ家。8ミリカメラは、当初、母が父の誕生日に贈ったもの。スティーブンが父の撮影に苦言!

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8ミリカメラを手にする前。妹たちをつねに驚かせ、家の中はまるで「劇場」に

▶(1)からの続き:ディズニー映画を恐がっていたスティーブンが8ミリカメラを回しはじめるまでにはまだ2年余の時間があります。しかもその8ミリカメラは、母リアがスティーブンではなく、父の誕生日プレゼントに贈ったもので父が家族を撮るためのものだったのです。
7、8歳頃には(小学校低学年)、まだ子供は映像を見て恐怖を味わうことはあっても映像をつくる側には立つことはありません。(時に誰かに指示し)撮影し、記録し(時に編集し)、映写する一連の行為を遂行させ、その結果を予測するようには子供の脳はまだ準備されていないのです。子供たちは俄然、直接的なのです。
学校で教科書を読むのに耐えれないスティーブンの脳でしたが、家では活性化していました。スティーブン少年はかなりの悪戯好きになっていきます。その犠牲者は妹たちでした。夜、妹がクローゼットを開けると、仕掛けておいたプラスティック製の頭蓋骨に懐中電灯を当て驚かせたり、体にトイレットペーパーをぐるぐる巻きにしてミイラになって襲いかかったりするのです。そんなスティーブン自身、恐怖感を感じやすい体質で、自室の窓の外に立つお化けのようにみえる老樹に震えていました(現在でも怖くてエレベーターに乗らないといいます)。
そうかと思えば、両親からプレゼントされたつがいのインコを鳥籠を開け部屋に放ち、8羽まで繁殖させ、自分の部屋を誰にも手がつけられない「劇場」に仕立ててしまうのです。さらに自分の部屋だけでなくスティーブン少年にとって、家の中すべてが「劇場」と化していったのです。この頃にはまだ8ミリカメラは手にしていません。

母方の祖父は、「イディッシュ劇場」を維持する活動をしてきた人物

スピルバーグ家には母方の祖父フィーベルが一緒に住んでいました。祖父のいでたちは正統派ユダヤ人そのものでいつも部屋の片隅で祈りを捧げていました。スティーブン少年が友達を家に呼ぶ時には、友達が祖父と出くわさないように必ず夜にしていました。じつはロシア移民として米国に来てネクタイピンやベルトなどの衣料品の行商をしていたフィーベル爺さんは、ボードヴィル一座のメンバーであり、海を渡っても民族の魂が込められた「イディッシュ劇場」が絶えることのないよう活動をしてきたのです。その祖父フィーベルの妻は、20世紀初頭に大学で学んだ才女だっといい、後に演説を頼まれたりラジオ出演も依頼されていました。またスティーブンの叔父の一人は、イディッシュ語によるシェイクスピア芝居を得意とする役者だったといいます。
ジューイッシュ(ユダヤ人)は、イタリア人に似て芝居好向きの熱いタイプの人が多くいます。有名な『屋根の上のバイオリン弾き』は、祖父フィーベルのように、帝政ロシアウクライナで暮らすユダヤ人の国外追放を描いたブロードウェイ・ミュージカルです(日本では森繁久彌が主役を長年務めた)。スティーブンは少年時代、正統派ユダヤ人である祖父にはかなりアンビバレントな気持ちをもっていたようです。自分の鼻もワスプ(WASP-アングロサクソン系白人プロテスタント)友達と比べるとあまりに大きく、祖父の鼻のように「まるで顔が鼻に吸い込まれそう」で大嫌いでした。毎晩寝る前には、ガムテープの端を鼻先と額に貼り付け、鼻が上向くように願って寝ていたといいます。
ティーブンが自らのジューイッシュ性をさらに強く意識したのは、祖母の家でのことでした。そのころ祖母は家で移民たちに英語を教えていました。腕に何かの番号のような入れ墨がほどこされた人たちがいたのです。それはユダヤ人収容所の「囚人番号」だったのです。祖母の家に集ってきたいた人は、ホロコーストで生き残ってアメリカに移住してきた人たちだったのです(これが後の映画『シンドラーのリスト』の原点に)。この時の記憶が強烈で自室で飼っていたインコの名前を「数字」にしてしまったようですが、インコを自室で放し飼いにしたのは、おそらく鳥籠の中のインコは「囚人」だと感じたからにちがいありません。

ユダヤ人はひとっこ一人いないアリゾナ州フェニックス近郊への引っ越し

父がコンピュータ開発をさらにすすめるためGE社に転職し、一家で引っ越したアリゾナ州フェニックス近郊(スコッツデイル)での生活は、スティーブンにとって辛いものとなります(スティーブン9歳の時)。ニュージャージー時代に家を囲んでいたのは恐ろしいかたちをした老樹でしたが、土地が乾いたアリゾナ州スピルバーグ家を取り囲んでいたのは樹々ではなく、人間のワスプ(WASP)たちだったのです。米国に移民してきたユダヤ人は、都会から離れて暮らすことはほとんどありません。ユダヤ人は「都会の民」なのです。カリフォルニアならまだしもアリゾナ州に住もうというユダヤ人はこの時代まずいなかったようです。
父の仕事の事情だけでなく、母リアも、自身は祖父フィーベルのもと正統派ユダヤ教の家で成長したのですが、子供たちはあえて非ユダヤ人の居住区で育てようと考えていました(映画『未知との遭遇』や『ET』などスピルバーグ映画の舞台はほとんどがワスプの中流階級家庭になっている)。母は祖父母のように信仰は深くなく子供にもユダヤ教を強要することはなかったのですが、ただそのことが子供たちにどんな影響を及ぼし、近隣の反応はどうなのか、その判断があまかったと後に述懐しています。子供たちは信仰もないのにユダヤ人としてだけで後ろ指をさされるのです。クリスマス・シーズンも家に電飾を灯さないのも地域ではスピルバーグ家だけで、ワスプの子供たちから汚いユダヤ人が来たと罵声を浴びせられることもありました。

好きな画家は、ずっとノーマン・ロックウェルだった。平和な中流家庭への憧れ

それでもスティーブンは子供ながらに隣近所の台所がみえる郊外の平和な中流家庭に憧れていたのです(莫大な金額を稼ぐようになってからもスピルバーグは、隣近所も見えず隔離されたような要塞のような一軒家ではなく、ロサンジェルス郊外にある高級”住宅地”に邸を構えている)。だいたいスピルバーグが大好きな画家は、少年時代も現在もノーマン・ロックウェルなのです! ノーマン・ロックウェルといえば、ユーモアに満ち温かくほのぼのとした家庭を描いた米国の画家として知られます(ロックウェルはアメリカの理想郷として描いたようだ)。稼ぎだす映画監督になるとスピルバーグはロックウェルの絵を蒐集しだし、最終的に資金援助をし「ノーマン・ロックウェルミュージアム」の理事にもなっているほどです。フランシス・ベイコンを好むデビッド・リンチと比べたら、映画に描かれる「家庭像」(リンチ映画には家庭が描かれてもそこに存在するのは孤立した「男」と「女」でしかない)がいかに異なるか、好きなアーティストを知っても一目瞭然です。

母が父の誕生日に贈った8ミリカメラ。スティーブンが父の撮影に苦言を呈し、8ミリカメラはスティーブンのもとへ

スピルバーグ家は、休日になると家族でグランドキャニオンやアリゾナの砂漠地帯、ロッキー山脈にキャンプを張りに行っていました。父よりも母リアが本格的なハイキングやバック・パッキングなどユダヤ人には珍しくアウトドア派だったのです。母はそのキャンプ旅行を記録してもらおうと、父アーノルドに8ミリカメラ(コダック製1眼カメラ)をプレゼントしたのでした。コンピューターの専門家の父でしたが8ミリカメラをまわす腕は、息子のスティーブンに適いませんでした。
この頃までにはスティーブンはテレビでかなりの数の映画を見てきていたので、父のカメラアングルや露出に不満噴出で、それなら自分でやってみろ、と父はスティーブンに8ミリカメラを渡したのでした。スティーブンが最初に撮影したのはキャンピングカーで、ホイールのアップ映像からカメラを引いてキャンピングカー全体が映し込まれるものだったといいます。つづいて「木を切る父」や「便所用の穴を掘る母」とタイトルづけした作品がつぎつぎと生まれていきました。「インディー・ジョーンズ」のようにスピルバーグは、家族キャンプの影響からもともとアウトドア派だったのです。

10歳、家中の部屋が撮影備品置場とスタジオに成りはてる

同世代の子供たちはリトルリーグの野球や音楽に熱狂していましたが、スティーブンはテレビを見るか8ミリカメラをまわしているばかりでした。スピルバーグ家は「勉強」よりも「趣味」重視の一家だったので、スティーブンが趣味にのめり込むことに非難はでませんでした。スティーブンが3眼の上位機種をせがんだ時も父はすぐに買い与えています。
新カメラで撮影したのは、「森の中の散歩」で見えない恐怖を映像化しようとしたものだったといいます。次の映像はボーイスカウトの写真賞を狙い(本当は写真による作品応募だったがスティーブンは8ミリ映像を提出)、入植者とその土地の主との争いをストーリー仕立てにしたものでした。ボーイスカウトの仲間たちに登場してもらった3分程の映像は賞を獲得し、ボーイスカウトでも「のろま」だったスティーブンはこの時にはじめて皆から賞讃され、「映像」をつくることで自分自身の居場所をみつけることができたのでした。
翌年(スティーブン10歳)には、スピルバーグ家の部屋中が、撮影備品と小道具や、スティーブンが手づくりするおかしな美術セットですっかり埋め尽くされます。スタジオと化したリヴィングに閉じこめられた3人の妹たちは、そっくりそのまま作品「燃えるドール・ハウスの恐怖」に出演することになるといった具合に。けれども母も妹たちもスティーブンの性格を知っていたので、「明日、撮影!」という声がかかるともう止めようがありませんでした。撮影日に逃げようものならスティーブンは容赦しなかったのです。この頃、「イディッシュ劇場」を守ってきた祖父がどうしていたかは、伝記にはえがかれていません。▶(3)に続く-未