ロバート・デ・ニーロの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 2歳の時、共に画家だった両親は精神分析医に言われるままに突如、離婚。小学校の学芸会で『オズの魔法使』の臆病者のライオンを演じる 


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はじめに:変幻自在の「外面」と役作り

ロバート・デ・ニーロといえば、「役作り」「演技」を極める役者として映画界でも演技派としての地位を不動のものとし、世界中の多くの役者たちに影響を与える存在になっています。若い頃よりハリウッド映画とは異質の「演技力」、またハリウッド・マネーとはおよそ無縁のその姿勢はいったいどこからやってきたのでしょう。デ・ニーロもアクターズ・スタジオ出身となっていますが、そのじつ同じくアクターズ・スタジオ出の一世代前のジェームズ・ディーンと同様、すでにそれ以前に独自の「演技感」があったのです。内面から役づくりをしてゆくアクターズ・スタジオとは異なり、デ・ニーロは外面からも徹底的に役づくりをしてゆくことを体得していたのです。その変幻自在の「外面」は、逆説的にデ・ニーロのメンタリティ=「心の樹」と深く結びついていたといってもいいものでした。
あの過剰なほどの役者魂の奥底にあるものは何なのか。ロバート・デ・ニーロはどのように「ロバート・デ・ニーロ」に成っていったのか、そこには間違いなく役者としての「能力」や「運命」ではとらえきることができない、彼の魂から芽吹いた「マインド・ツリー(心の樹)」があったのです。

デ・ニーロは、イタリア系アメリカ人でなく、イタリア系アイルランド人の血が濃い

ロバート・デ・ニーロ(Robert De Niro Jr.)は、1943年8月17日に、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジに生まれています。ロバート・デ・ニーロは、映画『ゴッドファーザーPART II』のビトー・コルレオーネ役などから、イタリア系アメリカ人の顔のような存在として知られていますが、じつは父ロバート・デ・ニーロ=シニアは、イタリア系アイルランド人なので、イタリアよりもアイルランド人の遺伝子と血の方が濃いのです。
イタリア系アメリカ人の代表格は、ロバート・デ・ニーロではなく、映画『タクシー・ドライバー』や『レイジング・ブル』などを一緒につくった映画監督マーティン・スコセッシの方なのです。マーティン・スコセッシの祖父母はまさにイタリア・シシリー島からの移民で、後にリトル・イタリーと言われる界隈に住みついたのに対し、ロバート・デ・ニーロの祖父母(父方)は実際にアイルランドからの移民でした。曾祖父ジョヴァンニ・デ・ニーロと曾祖母アンジェリーナは、イタリア南部ナポリに隣接するカンポバッソ県(アドリア海側)のフェラッツァーノ(Ferrazzano)の出身なのでイタリア系なのです。しかし、リトル・イタリーは、移民元のイタリアのどの出身地かによってブロックごと建物ごとに住んでいるので、曾祖父母がいくらイタリアに生まれ育っても、祖父母がアイルランドからの移民だったためリトル・イタリーに居を定めることはなかったというわけです。

幼少期のことを絶対に語らないデ・ニーロ

そしてロバート・デ・ニーロの母となるヴァージニア・アドミラルは、ドイツとフランスとオランダに先祖をもつため、ニューヨークのなかでもまさに最もインターナショナルな地区グリニッチ・ヴィレッジを彷彿とさせる遺伝子がデ・ニーロをかたちづくっているといって過言ではありません。しかも”ジューヨーク(ユダヤ人のニューヨーク”と言われる、そのユダヤの血すら混じっているといわれています。情熱的なイタリア人の血、そしてそれに芝居っ気旺盛なユダヤ人とアイルランド人の遺伝子と気質が入り交じっていれば、それだけで最強の役者ができあがるような気がしてしまいますが、事情はまったくちがうのです。
デ・ニーロの多くの主演映画を監督したマーティン・スコセッシは、一緒に暮らしていた祖父母や両親の暖かな家庭環境で映画に目覚めていきますが、デ・ニーロの場合は真逆で、幼少年時代にかたく口を閉ざすばかりで、どんなに名うてのインタビュアーでも幼少年時代についてデ・ニーロの口を開けさせることはできていないのです。デ・ニーロにとってそれほど辛く孤独な少年時代だったと言われています。
米国映画界でも指折りのアクターになったロバート・デ・ニーロの「心の樹」の根元(根本)には、何があったのか、まずは両親のことからはじめてみましょう。

父・母ともに、秀でた画才があり、画家ハンス・ホフマンのもとで学ぶ

デ・ニーロ=シニアは、ニューヨーク州シラキュースに生まれています。このシラキュースは、イタリア・シシリー島にある街シラクサの名を由来にした街なのです(五大湖の水上交通の要所ーエリー運河ーとして、また製塩業での発展は、海に囲まれたシシリーの社会経済と何か関係があるかもしれない)。そのためデ・ニーロが『ゴッドファーザーPART II』で演じたシシリー・マフィアの大ボス、ビトー・コルレオーネと縁もゆかりもまったく無いわけではなさそうです。
父デ・ニーロ=シニアは、少年時代からロマンチストで絵画に関心をもち、またその才があると周囲も両親も感じとっていたといいます。シラキュースからニューヨークに出たのも、グリニッチ・ヴィレッジでアートスクールを開いていた画家ハンス・ホフマン(マティスキュビズムに影響を受けた)のもとで絵の勉強をつづけるためだったようです(H.ホフマンは、ドイツ生まれの画家でパリで活動をつづけニューヨークに移住)。ホフマンに影響され抽象画家になることを決意したデ・ニーロ=シニアは、そのアートスクールでオレゴン州から来たヴァージニア・アドミラルと出会います。ロバート・デ・ニーロの母となる人物です。ヴァージニアは、知的で自立心旺盛な女性でした。

アートスクールでは、デ・ニーロ=シニアとヴァージニアの才能が傑出していて、周囲もそれを認め、当の2人もお互いに惹かれ合っていきます。2人は一年たたないうちに結婚し、ブリーカー・ストリート(リトル・イタリーの少し外れ)のアパートメントの2階に住み始めます。このアパートメントと場所が、後に息子ロバートの「マインド・ツリー(心の樹)」が成長していく地となるのです。

母は、若きロレンス・ダレルや作家ヘンリー・ミラーらとともに評論雑誌を編集

デ・ニーロ=シニアとヴァージニアの作品は、グッゲンハイム美術館にも展示されるようになります。ともにニューヨークのアート・スチューデント・リーグ出のジャクソン・ポロックワイオミング州出身。ポロックが「ドリッピング技法」を始めたのは、ロバート・デ・ニーロが誕生した1943年、美術界で注目されだしたのはその4年後)やマーク・ロスコ(ロシア出身のユダヤ人。米国に移住)や、ウィレム・デ・クーニングら後にアメリカのモダンアートを代表するアーティストらの作品と並んで展示されていました。ニューヨーク近代美術館MoMA)がヴァージニアの作品を購入したこともありました。
才能があるデ・ニーロ夫妻のもとには仲間たちが頻繁に訪れるようになり、要望されるかたちでアパートメントをサロンにして開放しています。同じ理念をもつアーティストや知識人たちが集ったサロンは夜中まで会話が交わされたといいます(アーティストや知識人の集まりは、当局から共産主義者の温床と考えられていたため、後にマッカーシー旋風に巻き込まれる)。父デ・ニーロ=シニアはすべてを芸術活動へ捧げてしました。そうした姿勢こそが芸術家のあるべき姿だと考えていたのです。
また好奇心旺盛なヴァージニアは絵画以外の知的活動にも精力的でした。後に小説家であり劇作家として有名になるロレンス・ダレルや70年代のフェミニズム運動の象徴となるアナイス・ニンら数人の仲間と評論雑誌の立ち上げにも参加し、その編集にも携わっていたのです。少しばかり知名度が出始めていた作家ヘンリー・ミラーも参加していた雑誌でした(ヘンリー・ミラーは1934年に自伝的小説『北回帰線』をパリで出版したが、米国では発禁処分になっていた。1939年に『南回帰線』を出版)。

ロバート2歳の時、両親は精神分析医に言われるままに突如、離婚

こうした芸術的環境のなかにロバートは生まれました。しかし誰もが知るように少年ロバートは、これほどの環境にありながら両親のように画家への道をすすもうとはしなかったのです。少年ロバートの眼にはいつも絵画が映しだされていたはずです。それにもかかわらず、ロバートの「マインド・ツリー(心の樹)」は、画家への芽を出そうとはしませんでした。
息子ロバートが誕生した時、夫妻ともに若手のなかでは高い評価を得てはいましたが、経済状況は厳しいものがありました。それでも家庭生活は幸せな空気に包まれていました。ところがロバートがまだ2歳の時、2人の間に大事件が起こります。当時、ジグムンド・フロイトの打ち立てた精神分析への関心がヒートアップしていてサロンにも自称精神分析医と称する者が出入りしていました。2人とも自ら曝(さら)け出して分析医に話したのが、予想つかない結局をもたらしてしまったのです(当時、人気俳優だったモンゴメリー・クリフトも同じように怪しい精神分析医にとりこまれ破滅していった。その一方、シュールレアリズム・ムーブメントにかかわった画家たちはフロイトが掘り下げた「無意識」や精神分析の方法を美術理論に持ち込んでいた。フロイト自身は、1939年に末期癌に冒されモルヒネ安楽死。晩年は「愛」について思考していたという)。
2人は離婚します。仲間たちは皆驚くばかりでしたが、ヴァージニアは息子ロバートとともに、西14丁目の小さなアパートに引っ越してしまったのです。そして親子2人の日々の暮らしを成り立たせるため不安定なアーティストとしてのキャリアを中断させ、作家や出版社で秘書となってタイプを打ったり、校正者として働きだしたのです。
一方、デ・ニーロ・シニアは自宅のそばに仕事場をもうけ、さらに芸術活動に身を捧げていきます。離婚後も2人は仲もよく、父はロバートに会いに来たり、少し大きくなると近所の映画館に連れて行っています。ただ父子の良好な関係は長続きせず、父が顔を見せることもなくなっていきます。少年時代には父との交流はほとんど途絶えてしまったようです。

母は男が家に来ると、ロバートに「本」をもたせ、家から追い出した

父と母の関係が完全に終わった理由の一つが、離婚から数年後、若手の脚本家の家への出入りだったようです。少年ロバートは彼の存在が嫌でたまらなかったようです。母ヴァージニアは、脚本家が来るといつもロバートに「本」をもたせ家から追い出そうとしたようです。虚弱な体質だったにもかかわらず、母はロバートに家の中にいるのではなくて、「遊びは自分で見つけなさい」といつも言っていたといいます。ロバートはいつも家の近所のヴィレッジ界隈をひとりでぶらついていました。小学校にあがるまでは友達もいなく、かなり孤独な幼年期でした。後年、デ・ニーロが、幼い頃の事を絶対にインタビューに応えない理由はこうした事情によるようです(無論、単純化させることはできませんが)。
そうした孤独感が癒されたのはヴィレッジの公立小学校に通いだしてからだったようです。シャイで無口なロバートでしたが、学校でできた友達とヴィレッジの路上で遊ぶようになります。ロバートは友達をとても大切にしたといいます。また父にしばしば連れられて観た「映画」が少年ロバートを惹きつけるようになり、映画好きな友達と映画館に出入りしていました。グリニッジ・ヴィレッジを越えてリトル・イタリーやロウアー・イースト・サイドにまで遊びの範囲は拡大していきました。後にロバートが主演する作品(『タクシー・ドライバー』『ミーン・ストリート』『キング・オブ・コメディ』など)を数多く手がけるようになる後の映画監督マーティン・スコセッシとストリートで出会ったのもこの頃でした。実際リトル・イタリーにあるマーティンの家はそれほど離れていませんでした(2人が俳優と映画監督として再び顔を合わせることになるのは、それから20年余後のことです)。

小学校の学芸会で『オズの魔法使』の臆病者のライオンを演じ、「演技」に何かを感じる

小学校での学芸会は少年ロバートにとっておもわぬ出来事となります(学芸会は予想もつかない刺激を子供たちにあたえるようです。子供たちにとっても人前で演じ披露することの好き嫌いがはっきり感じとれます)。皆で『オズの魔法使』のお芝居をつくることになり、ロバートは臆病者のライオンを演じました。臆病者のライオンは、まさにシャイで無口なロバートそのものでした(おそらく皆の目にそう映っていたからその役が当てがわれたにちがいありません)。でもライオンになりきることで、ちゃんとした役割となって拍手すらもらえるのです。その時、ロバートは自分でありつつも、自分とは異なる役柄になり、役を「演じ」ることで体の芯から高揚するような不思議な気分を味わったようです。ロバートが「演技」に興味をもった最初の出来事でした。
勉強に身が入らない息子ロバートが、「演技」には興味をもっていることを感じ取った母は、ロバートをドラマのワークショップに通わせるのです。ちょうどその時、母がタイピストとして働いていたマリー・レイ=ピスカーターが、ドラマのワークショップを開いていたのです。抽象芸術に関心を寄せていたマリーとその夫(ともにドイツ出身)が設けたドラマのワークショップは、現代的な手法を取り入れたもので、アクターズ・スタジオに属するようになる以前の若きマーロン・ブランドロッド・スタイガーたちも参加していたワークショップだったのです。▶(2)に続く