マン・レイの「Mind Tree」(2)- 高校時代に機械製図に関心をもち、建築や工学、レタリングの基礎技能をものに。その技能を元手に働き、ニュージャージーの小さな芸術村へ

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Art Bird Books Websiteでも、「Mind Tree」を展開中です。「写真家のMind Tree」のコーナーへ。文章と違って「ツリー状」の紹介になっています。http://artbirdbook.com

高校時代に、機械製図に関心をもち、建築や工学、レタリングの基礎技能をものにした

▶(1)からの続き:ふつうに14歳から通っていた高校でも絵画の授業(機械製図と自由画の授業があった)以外は、とんと気持ちが入らず、とくに歴史の授業はクラスでビリっけつだったといいます。歴史のノートには、古代ローマギリシアの神殿や武具の素描が描かれるばかりでした。しかし絵画の授業ではトップで、とくに機械製図の先生からは授業以外にも製図のノウハウを教わり、建築や工学、レタリングの基礎技能をものにしています。後に家を離れ自分で稼いで自立していこうと決意した時に、この時に身につけた技能が大いに役に立つことになります。またそれ以上に後の「マン・レイ」誕生にはかかせないプロセスでした。歴史以外の勉強も処置なしで、高校卒業時には卒業ぎりぎりラインでなんとかパスしています。
在学中にブルックリン美術館の古典様式やマジソン・スクウェア・ガーデン(スタンフォード・ホワイト設計)の塔、五番街にあって斬新なフラットアイアン・ビル(ダニエル・バーナム設計。1902年建築。当時マンハッタンで最も高層のビルの一つ)の建築に熱をあげ、学校でも建築製図に熱心に取り組んでいたことで、将来を案じた機械製図と自由画の先生が推薦してくれ、大学の建築学科の奨学金が出ることになります。この朗報に両親も大喜びし、エマニュエルも「建築家」になろうと心に決めます。
ところが6月に卒業し9月に大学に登録するまでの3カ月の間に、ブルックリンのはずれまで行き、絵を描いていたエマニュエルの心の中で、「絵画」への気持ちを抑えることができなくなってきます。ヘンリー・デイビッド・ソローのような、社会のあらゆる束縛や義務を断ち切って自由に生きたい、という感覚がそれを後押ししていました。エマニュエルは決断します。家族に大学へ登録しないこと、そして働きに出るとことを告げたのです。両親はショックを受けますが、外で働くという決意に、家族のなかの緊張は次第に緩和されていったそうです。ただ「絵」のことを言い出すと再びもめるので、両親には心の内は露呈させませんでした。

駅の新聞売場の売子をし、エッチングの見習い、小さな広告会社に勤める

最初のうちは行き当たりばったりの職探しでした。最初は高架鉄道の新聞売場の売子で、1週間だけ働いています(給料を受け取ってから翌週は戻らなかった)。ついでブルックリンの橋のたもとにあったエッチング(食刻法)を仕事にする小さな会社に機械製図と自由画を持参して出向きました。傘や杖に、エッチング用の針で植物の絵を描く単調な仕事でしたが、巨匠のレンブラントゴヤらも用いていたこの技術を習得するのも手だと考えたのです。エマニュエルは即興で変化のある図案を次々に仕上げ社長に認められますが、仕事に見切りをつけてしまいます。今度は、ユニオン広場近くの小さな広告会社で仕事をしはじめています。ポスターのレイアウトやレタリングの下準備が主な仕事でした。
一方で、思春期のエマニュエルの身体の内の”樹液”は、仕事が順調であろうがなかろうが、どくどくとエマニュエルを突き上げてきていました。若い頃に、キャンディー1本でつった「お医者さんごっこ」の成功体験と、その後の異性体験の蹉跌(さてつ)から、もはや仕事以上の悩みになっていました。美術書を開いては、アングルの裸婦やギリシャ彫像の複製にひとり悦に入っていたエマニュエルは、生身の女性の身体を見たいがために、美術研究所に登録しますがそこではヌードモデルのデッサンがなかったため、気持ちが乗らずすぐにやめてしまっています。新たに応募した夜学の人体写生クラスで、ようやく念願を叶えています。最もそこで解剖学の重要性を学び、知り合った生徒に死体公示所の解剖室に連れていかれたり、女体の表面だけでなく、身体のメカニズムへの好奇心も培っています。建築や機械製図など、メカニカルなものに対する厳密な訓練が、解剖学への関心を起こしたにちがいありません。カーネギー・ホールで聴いたバッハに夢中になったのも、メカニカルなものへの知的訓練と無関係ではなかったはず、と自身語っています。
間もなくして広告事務所が倒産しいったん失職しますが、レタリングや機械製図の基礎技能があったため、すぐに新たな仕事に就いています。そこは工学と機械が専門の技術系出版社で、レタリングとレイアウトが仕事でした。給料が2倍になったため、メトロポリタン歌劇場やマンハッタン・オペラ・ハウスにも出かけ、イサドラ・ダンカンの舞踏から、『サロメ』『エレクトラ』『アリアドネ青髭』などを次々に観ています。バーナード・ショウの戯曲が好きで、新しい作品が出れば読むだけでなく、舞台にも足を運んでいます。
エマニュエルの好奇心は、「絵画」を最も太い”樹幹”としながらも(週末には、もっぱら絵画を見、美術書を捲っていた)、高校時代に機械製図から建築や工学の基礎技能を体得してからも、身体の解剖学も絡め「メカニカルなもの」への興味は大きく膨らみ、「絵画」の幹と2分するほどの樹勢をもちはじめています。さらに歌劇や舞踏、音楽などが、それらを取り巻くように、色彩やドラマ、動きやかたちをたっぷりと付与していました。エマニュエルの「マインド・ツリー(心の樹)」に、いよいよ「写真」がくわわります。午前中の仕事を終え、昼食の時間に足を向けていた五番街にあるあるギャラリーが決定的な契機になったのです。

A.ティーグリッツが開いていたギャラリーは「291」で、「写真」の重要性を知る

そのギャラリーは「291」、アルフレッド・スティーグリッツが開いていた画廊でした(1905年、Little Galleries of Photo-Secessionの名の下に開廊。経営面での問題でいったん閉じるが同じ場所で、名称を1908年に「291」に変更し再オープンしている。エマニュエルが通いだしたのは、「291」ギャラリーになってからのようで高校を卒業後の18、9歳の頃だった)。スティーグリッツはギャラリーに足を運んでくれる人には誰にでも新しい近代芸術について熱弁していて、エマニュエルも何度か来ているうちにすっかり常連になって聞いていました。スティーグリッツは昼食にも招いてくれたり、作品を持ってくるように促したりしています。ある日には、スティーグリッツは、ギャラリーに来客がいない時に、エマニュエルの「ポートレイト」を撮っています。この頃、スティーグリッツは、「写真」への問題意識をさらに高めていた頃で、「291」の展示に「絵画」や「彫刻」と「写真」との境界をとっぱらって、議論が巻き起こるような前衛的アートと写真を果敢に展示しはじめていた時期でした。
エマニュエルは、ロダンセザンヌブランクーシやアフリカの彫刻、そして新聞紙が貼り付けてあるピカソの作品を見て、ヨーロッパで起こっている前衛的芸術に目を開かれています。それらは「写真」の再現性によって、従来の近代画家が目的の一つにしていた絵による「再現性」の問題に結着がつき、絵画が新たな次元に入り込みはじめていたことを知る絶好の機会になったのでした。
ティーグリッツと親しくなってもエマニュエルにはまだ発表するほどの作品を何も制作していず、油絵具の混合の割合などを美術館で知り合った若い画家(巨匠の作品の模写をしていた)からせっせと吸収している最中でした。この頃まだブルックリンの実家から会社に通っていて、幾らかは家計に貢献していたことを口実に、家の一部屋をアトリエに仕立てます。つまりこれから颯爽と新しい絵画をめざそうという頃合いでした。

社会センターの人体写生クラスに通ったことが新たな出会いを生む。ニュージャージーの小さな芸術村へ

アップタウンの住宅街にある社会センター(ニューヨークの裕福な作家が設立。文学や哲学のクラスなどもあり、著名な作家や画家たちが無料奉仕で講師をしていた)で人体写生のクラスがあることを聞きつけて参加するようになったのは、地図出版社の下図制作室に入って仕事をするようになってからのことでした。そこでは地図制作だけでなく下図の装飾やレタリングも巧みに仕上げれたので、その能力が買われより芸術的な仕事をまかされるようになります。そのため夜の時間帯も自由に使えるようになり、社会センターに通う時間がとれるようになったのです。ここでもエマニュエルの魂胆は、ヌードモデルを見、描くことでした。職業モデルが都合つかない日には、女の生徒たちが自主的に裸のモデルとしてポーズをとるほど自由主義的な環境に、エマニュエルの通う回数も増えていきます。
ここで彫刻家のルーポフやパリから戻って来たというハルパートという数歳年上の画家と出会っていきます。そしてハルパートはニュージャージーにある小さな芸術村にエマニュエルを誘います。そこはほとんど果樹園の中にある質素な家でした(画家たちに貸し出されていた家だった)。再びソーローの生き方が頭を過っています。昼間の仕事や経済(文明の軛(くびき))から自由になりたいという思いは底流のようにエマニュエルの心の底に流れていました。近くの町で開業医をしていた詩人のウィリアム・カルロス・ウィリアムもやって来ていました。芸術村をすっかり気に入ったエマニュエルは実家から引っ越します。こうした行動が、同じような思いを抱いている異性との出会いにつながったりするものです。エマニュエルの場合もまたそうでした。ルーポフが社会センターの仲間たちと連れ立って来た時に、以前連れ合いだった女性ドンナを伴ってきたのです。
エマニュエルは、ランボーマラルメの詩やボードレールやポー、ロートレアモンの作品が好きなドンナと親密になり、この地でともに暮らすようになるのです(雇い主と話し合い、給料は減るが週に3日だけ地図出版社で働いた)。この芸術村の土壌が、エマニュエルの”樹根”の沃土となり、根城となって、じっくり読書をしたり作品を制作したり、時にエマニュエルが提案し、ドンナの詩に絵をつけ限定版の書籍を制作したりしています。

「写生」はもうやらない。”成長する植物”のように感じ取り描いてみたい

次第にエマニュエルの描く絵に変化があらわれるようになります。描きだす人間のかたちが”分解”され、”平面的”に、また”パターン化”された形体になっていったのです。それは試みていた構成的観念をすべて捨て去った代わりに、あたかも「成長する植物にみられるような、凝集と統一と動的性質という観念」に至った結果だったといいます。その新たな観念も分析的であるよりは、感覚的なもののあらわれだったといいます。そうした感覚を覚えたことは、自身の内で、著しく成長しはじめた「心の樹」を感じ取った結果にほかならないでしょう。自身の根源(芯)から突き上げるような感情的な衝動に、構成的観念ではもはや対応できなくなっていたはずです。
いったい何がエマニュエルのなかで起こっていたのでしょう。その最初の変化は、皆とハドソン河上流に数泊のキャンプ旅行にでかけた折りに起こっていました。エマニュエルはもう「写生」はやりたくないと友の者に語っています。真に創造的な制作にとって、目の前にある主題はむしろ障害になる、と。スティーグリッツの「291」ギャラリーで吸収していた「写真」の「再現性」の話が、ハドソン河上流の森の中を散策している時に木霊(こだま)していたにちがいありません。従来の「写生」画のように自然の中に霊感を探し求めるのではなく、人間自身も自然の一部であるならば、そもそも人間自身のなかに”霊感”があり(ひらめきや想像力)、その人間がつくったものに眼を向けてゆくことこそ重要な作業ではないか、という考えが生まれてきたのです。デュシャンの作品『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』を撮影するようになった背景(肖像写真と違い実利的なものを求めた撮影ではなかった)には、こうした感覚があったのです。
つまりはハドソン河上流の森や樹木に霊感を感じるのではなく、自身の内なる「心の樹」にこそ”霊感”のはたらきを感じる(これはまさにユダヤ人的な発想、感覚であります。「マン・レイ」の父はロシア系ユダヤ人だった)。これは重要な”シフト”です。そして興味深いことに、「291」ギャラリーでエマニュエルに影響を与えたスティーグリッツその人も、ドイツ系アメリカ人ですが、ユダヤ民族にルーツをもっていたのです。▶(3)に続く

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