マン・レイの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 3歳の時に「男」の絵を描いた(母の記憶)。10歳位まで、手当たり次第に版画を「模写」していた

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はじめに:「自伝」と「セルフ・ポートレイト」

油彩、版画、デッサン、オブジェ制作、彫刻を手がけたアーティストであると同時に、「肖像写真家」であり、実験精神旺盛な写真も撮っていたマン・レイ。レイヨグラフやソラリゼーション、ポール・ポワレなどのファッション写真、女装したマルセル・デュシャン「ローズ・セラヴィ」やデュシャンの問題作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』の撮影、そして自身のセルフ・ポートレイトなど、当初は実利的な面からはじめた「写真」は、マン・レイの感性や芸術に対する考え方、世界観と深く絡んだものでした。まさにマン・レイが語ったように「絵画から我が身を自由にする」方法でもあったのです。
芸術を解体したデュシャンに対し、芸術を無化し自由にしたマン・レイ。その発想と行為は、20世紀初頭の芸術をめぐるさまざまな冒険と知的刺激、アーティスト・写真家のみならず作家、詩人、音楽家、モデル(モンパルナソスのキキ)や女優、映画作家舞台芸術関係など幅広い交遊関係からもたらされていましたが(交遊や人間関係こそマン・レイの「作品」という者もいるほどだ)、なぜ芸術を志した数多くの若者のなかでも、マン・レイがその奇妙な役割を担うようになったのでしょうか。デュシャンに対しあまりにも人間的な。しかしその関係をとりもつ間には、「カメラ」という<オートマチック>なメカニズムが置かれることになったのです。そして自身の「セルフ・ポートレイト」。
ではマン・レイの「マインド・ツリー(心の樹)」をみてみましょう。芸術と写真を通じて人生を自由に愉快に遊びつくした男は、どんな少年期を過ごし成長していったのでしょう。そこに後の「マン・レイ」となっていった謎もヒントも数多くあるはずです。なぜならマン・レイ自身が著した自伝に『セルフ・ポートレイト』というのタイトルを付しているからです。つまり「写真」の「セルフ・ポートレイト」のようにその人物のすべてをとらえることができないように、自伝『セルフ・ポートレイト』も書く<シャッターチャンス>で綴られています。しかし、それこそが「マン・レイ」なのですから。

ロシア系ユダヤ人の父は、縫製工場で働き、マン・レイも手伝いをしていた

マン・レイ(May Ray:本名Emmanuel Radnitzky;以下、幼少、少年期は、エマニュエルと表記)は、1890年8月27日、米国ペンシルバニア州サウス・フィラデルフィアに生まれています。ロシアから移住してきたロシア系ユダヤ人の長男でした。後に1人の弟と2人の妹が生まれます。当時まだ18歳の母は、ずっと言い寄って来る父を追い返し関係もそれまでとなった一年後、偶然にフィラデルフィアの路上で出会ってしまいます。2人ともその間の一年間は、苦労の耐えない生活をおくっていたようで、今度の再会で、母は一緒になることに同意したといいます。
米国に移民して来たロシア系ユダヤ人の多くの者が就いたようにマン・レイの父もまた、縫製工場で働いていました。一方で父は小さいながら仕立てや縫製の仕事もしていました。そこでエマニュエルら子供たちも幼い時から手伝いをしていたようです。母も衣料に関心があり、破棄された布切れでパッチワークをつくり、自分でデザインをおこしたりして、家族の衣服をつくっていました。後にマン・レイ自身、家族環境と自分自身とを切り離していますが、両親のそれぞれの仕事から幼少時に無意識のうちに体験したものや、家庭環境は間違いなく「マン・レイ」のアートワークに影響を及ぼしているようです。というのも、「マン・レイ」の作品に多くみられる、アイロンに釘を取り付けた作品や(「贈り物」1921年)や「赤いアイロン」1966年など)、針やピン(「ピンナップ」1970年)、ハンガー(「障害物」1920年)マネキン、布切れといったものは、衣料や縫製にかかわるものだからです。
マン・レイが最初に絵を描いたのは3歳の時でした。それは「男」の絵だったといいます(母の記憶)。男の子でなく「男」なので、父だったのでしょうか。ともかく後に「肖像写真家」として著名になるマン・レイなだけに気になるところではあります。動物や動く乗り物でなく、「人間」だったことはあまりに興味深いものがあります。「三つ子の魂、百まで」の謂(い)いが思いだされます。が、これは自身が著した自伝『セルフ・ポートレイト』の冒頭の第一行目にある記述です。
正確には、「わたしは3歳の時にはじめて紙に男の絵を描いた、と母は言った」マン・レイ自伝『セルフ・ポートレイト』千葉成夫訳)。
自伝はまさに「写真」のように<真>を映しだしていると錯覚させますが、マン・レイの数多の「肖像写真」をもとに推測すれば、そこには目の前の人物から滲(にじ)み出て来るもの、見逃せえないものへの<シャッターチャンス>があったようです。マン・レイはその方法で、自身にもカメラを向けています。そしてそこに定着された自身の痕跡(それは真実なのか? しかし完全に虚でもない)。その意味で、「自伝 - Autobiography」(「伝記- Biography」とは異なる。伝記は他者によって著されるもので広範囲の資料をもとに多様な視点、独自の視点が導入される)とは元来なかなかに「セルフ・ポートレイト」なのです。
マン・レイ自身、最後には「物書き」になるにいたった、と書いていますが、「自伝」は「セルフ・ポートレイト」のもう一つの変換方法にちがいありません。自伝であるにもかかわらず、その冒頭からもはや自分の記憶にはないことーそれは母の記憶からしか知り得ないことーから始まるのですから。
その意味で「写真」も、幼い頃のものは、まるで自分の記憶にはないものです。しかも胎児や幼児の頃には自分の存在や、自分自身という認識すらない状況下、自分以外の者(多くは両親や写真館の主)によって撮影されるのです。よって「ファミリー・アルバム」の最初の写真の多くは、自身の記憶のない一枚の「写真」からスタートします。それはマン・レイ自伝『セルフ・ポートレイト』の冒頭の母の記憶の一文と相似します。

5歳の時の絵。手と顔に塗りたてペンキをつけ母を驚かした

マン・レイ自身の記憶では、5歳の頃に絵を描いたのが最も古い記憶だといいます。ところがその「絵」はすでに、ふつうの絵とはいえない代物(しろもの)で、後の「マン・レイ」を予告するものだったようです。ある日、家でペンキ塗り立ての雨戸が壁に立てかけてあったのを見つけたエマニュエル少年は、両手をその上にのせ、さらに顔までもくっつけます。ペンキがベチャリと手と顔につきます。それを近所の仲間にも同じようにさせ、母と近所のおなさんが戻って来た時を見計らって、その格好で飛び出し驚かせたのだ。この時、衣類にもペンキが着いたことを記憶しています(後にマン・レイは、絵の素材として絵具の染み込んだボロぎれを使うことがあった)。これは描くというより、まったくダダ的な反芸術的パフォーマンスであり、かつ印刷塗料を白い肌につけた作品群「印刷機のそばのメレット」(1933年)などに通じるものといえます。もっともこの記憶も、ニューヨーク・ダダ(中心メンバーは、デュシャンマン・レイ、ピカビア)的な既成概念を皮肉ろうとしたものにちがいなく(マン・レイはこの行為を最も古い絵の記憶だとしている)、それであってもそうした人をくった行為にいたるエネルギーと悪戯好きが、自身の少年期に確かに存在していた証として記したにちがいありません。
マン・レイは自身の家族や幼少期のことを自伝『セルフ・ポートレイト』以外ではほとんど語っていません。自伝においても他のマン・レイ関連の書籍やカタログにおいても、1987年(マン・レイ7歳の時)へとこれ以降は一気に記述が飛んでいきます。

7歳、ブルックリンのウィリアムズバーグに引っ越す。色鉛筆で軍艦を「模写」

7歳の時(1897年)、フィラデルフィアからニューヨークのブルックリンのウィリアムズバーグに引っ越します。引っ越して間もなく一番下の妹が生まれています。誕生日に従兄弟がプレンゼントしてくれた色鉛筆を使って、エマニュエルは、軍艦を描いています。軍艦を直接見て描いたのではなく、その軍艦は新聞に載っていた「写真」でした。エマニュエルは「写真」から軍艦を「模写」したのです。この軍艦はキューバでスペイン人によって破壊された軍艦メーン号で、幾つか載っていた「写真」のうちの一つで、エマニュエルは大砲が映ったものを選んでいます。エマニュエルは軍艦の細部までをきっちりと描き込みます。もし、「カメラ」があれば、「撮影」すらしたかもしれません。
もっとも、「描く」という行為は、人間が視覚で得たものを知り、あらわすもので、この「行為」を飛ばして、人間は一足飛びに「カメラ」や「撮影」に向うことはふつうありません。小さな子供がまずやってみることは、エマニュエルが5歳の時にやった塗料に「手」をべったりつけ、それを何処かに塗りたくるようなことです。それは自身の存在を確認する行為の一貫ともいえます。
また小さな子供にとって、白黒(モノクロ)は世界の埒外(らちがい)です。子供たちは色のついた世界に住んでいますし、感覚はその色を感じとります。エマニュエルは軍艦に色がついていなかったため(白黒写真だった)、色は想像しながら自由気侭に塗っていったのでかなり変わった色合いの軍艦になったといいます。

10歳くらいまで、手当たり次第に「版画」を「模写」した

その後数年の間、エマニュエルは時間があれば気侭にデッサンしたり絵を描くようになります。ここでも再び、エマニュエル少年の関心を引いたのは、目の前にひろがる風景などではありませんでした。それはヴェネチアの日没の着色石版画や、日本の版画だったといいます。エマニュエル少年は、ここでも好きな版画をそっくりそのまま手当たり次第に「模写」していたのです。
エマニュエルは学校でも家でも勉強をすることはあまり好きではありませんでした。ただ英作文に限っては、努力をしなくてもいつもよい成績を取っていました。語彙の量が他の生徒に比べ圧倒的に多かったのです。エマニュエルはこの頃までには、「本」をたくさん読むようになっていたのです。その多くは「詩」の本でした。弟はエマニュエルに影響され、10歳頃から「詩」をたくさん書きだしています。エマニュエル本人は、詩作ではなく、相変わらず「絵」に熱中していました。
家族の中で、兄エマニュエルの絵への没頭が、悩みの種になっていきます。不安になったのはむろん両親です。絵が巧(うま)いことじたいは誇りでしたが、それに一途になることとそれは別物でした。絵を描くことは将来的な保証はあるのか。生きていけるのか。両親はエマニュエルとそのことでいろいろ話し合ったようです。ちゃんとした職業とは、働くことについて。それ以降、エマニュエルは、絵を家族に内緒で描かなくてはならなくなり、描いた絵を両親に見せなくなります。

油絵に挑戦する気持ちが高まる。画材屋で油絵具をくすねる

そしてこの頃、外では美術館に通いはじめるようになります。美術館で見た油絵は、とても自分にはできそうもない、かなわないと感じますが、マニュエル少年には、困難なことならやってみよう、というスピリットがそなわっていました。何度も美術館に通い何度も油絵を見ているうちに、じょじょに油絵こそ自分がトライし、挑戦すべきものだ、という思いにとらわれるようになっていったといいます。
いつも文房具を買っていた近所の画材屋には油絵具が売られていました。エマニュエルはあらぬ行動にでます。わずかな小遣いでは油絵具のチューブ1本分にしかなりません。エマニュエルはチューブ1本を購入しましたが、その時には2、3本のチューブがポケットに収まっていました。その方法を何度かやって(また近所の友達にもそそのかせ)、エマニュエルはとうとう油絵具を一式揃えてしまうのです。この時のエマニュエルの感情は、良心の痛みをさしおいても、絵を描くことこそが人間が達成することのできる最高地点であり、その目的を叶えるための行為だと考えていたといいます。
またエマニュエルの機関車の模型づくりは友達には真似できないレベルだったようです。さまざまな木板や石鹸箱、車輪、小さな樽とストーブの煙突を巧みに組み立て、黒く塗装し、真に迫った機関車をつくったことがありました。それで近所を周れば皆が感心するほどの出来でした。しかしある日、この機関車は破壊されてしまいました。犯人は母でした。道路は危険だからというのが母の言い分でしたが、エマニュエルは泣きながら抗議し、後も長い間、母のこの無慈悲な仕打ちを忘れることはありませでした。ただ母は芸術やエマニュエルの趣味、センスを父よりずっと尊重してくれていました。母が帽子や家具を選ぶ時、壁紙を新調する時は、必ずエマニュエルに意見を聞いたのです。

自身で独創的なものをつくりだそうという意識と悪戯好き

エマニュエルは、ランプ笠が壊れた時には、自分で新たなデザインとスタイルの笠をつくったことがありました。ランプの笠をつくるのはそう容易なことではありませんし、つい手頃なものを購入してしまいがちです。エマニュエルは金物屋で真鍮の板を見つけ形をとって、東洋的な渦巻きと花の複雑な模様を描き込んで、光がうまくこぼれるように母のミシンで穴を穿(うが)ってつくりあげています。
エマニュエルの「マインド・ツリー(心の樹)」には、自分のアイデアで独創的なものをつくりだそうという意識と、写真や版画をひっきりなしに「模写」したように、気にいったものを「映し」とろうという意識が強烈に芽生えていたようです。くわえて相当の悪戯好きの精神も相変わらずで、小さな鉄の砲を手に入れた時には、スポーツ用品店が扱っていた火薬を調達して砲に詰め、導火線に火をつけ大音響で爆発させたりしています。鼠(ねずみ)をつかまえ紙にくるんで砲に詰め空に向けて発射させているほどです。砲は「模写」していた軍艦の大砲を真似たもので、エマニュエル少年は、好きで「模写」するだけでなく、自分なりの「軌道」をえがくことが好きでたまらないようです。その軌道はエマニュエルの実験精神、好奇心から放たれているようです。
それはエマニュエル自身、小さな頃から馴染んでいた縫製工場にある機具や工具・道具類、マシンに対する独特な感性が絡んでいたはずです。その延長線上に、「光」の作用で「模写」する「写真機」という光学的装置が迎えられたにちがいありません。▶(2)に続く

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