ルキノ・ヴィスコンティの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- ヴィスコンティ家は、14世紀末の「ミラノ公国」の僭主。ヴィスコンティ家はミラノの文化「サロン」の継承者だった


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はじめに:20世紀貴族のDNAー巧緻華麗と頽廃さ

華麗な舞台演出や美術セット、秀でた文芸性、美しい男優陣が彩る、映画『ルートヴィヒ』『ベニスに死す』『夏の嵐』『地獄に堕ちた勇者ども』『山猫』などの名作で知られる映画監督ルキノ・ヴィスコンティ。その巧緻華麗な作風と、同時に頽廃してゆく貴族やブルジョアジー家族の面影から、崩壊してゆく20世紀貴族のDNAが感じ取られます。R.ロッセリーニらのネオ・リアリズモ映画を先駆けた映画と言われる『郵便配達は二度ベルを鳴らす(映画監督デビュー作。1943年 37歳)や、南イタリアの貧しい漁村『揺れる大地』の存在、そして問題作となる舞台を数多く演出し、ドキュメンタリー映画製作、イタリア19世紀の美術品・骨董品の蒐集家として、また馬の調教師として、そして若き日の繰り返された家出とイタリア共産党への所属、反抗的精神と知的好奇心、ヴィスコンティは、ミラノの名門貴族を越境するアヴァンギャルドな存在になっていったのです。
「見出された時」と「失われた時」を求めたヴィスコンティ映画は、まるで”樹液”のようにヴィスコンティの「マインド・ツリー(心の樹)」から生み出されていきました。それは「記憶の中の光景」であり、「夢見る映像」だったのです。

ヴィスコンティ家は、14世紀末の「ミラノ公国」の僭主だった

ルキノ・ヴィスコンティLuchino Visconti di Modrone)は、1906年11月2日、イタリア・ミラノに生まれています。ミラノのヴィスコンティ家は、遥かルネッサンス期にまで遡ることができ、僭主(せんしゅ;シニューレ)としてフィレンツェメディチ家とともによく引き合いにだされる実力者だったのです(僭主とは政治力に富んだ貴族で勃興しつつあった富裕平民層の支持をとりつけ貴族層の合議制を押さえつけ独裁的権力を握り、”王であるかのような”権力をもった実力者のこと)
ヴィスコンティ家がミラノを首都にイタリア北部に一族の領地を統合し「ミラノ公国」をたてたのは、1395年のこと神聖ローマ皇帝からミラノ公の称号を授かる)。以降15世紀半ばにかけミラノ公国の僭主として君臨したのでした。スタンダールの有名な小説『パルムの僧院』の冒頭近くにヴィスコンティ家のことがあらわされています。その後、ミラノ公国スフォルツァ家、1499年からはフランスに支配され、16世紀にはスペインに、18世紀にはオーストリア支配下になります。
しかし500年余の時を超えてもヴィスコンティ家は貴族として(公爵の爵位世襲ミラノの象徴的名家として存続してきたのでした。イタリア・オペラの極北点ミラノ・スカラ座(新劇場は1778〜)においても、ルキノの祖父グイド・ヴィスコンティが、1898年にスカラ座運営会社を創り自ら社長となっているほどです(当時はアルトウロ・トスカニーニ音楽監督兼常任指揮者)ヴィスコンティ家はオーケストラ・ボックスの真上に特別席をもっていてスカラ座の公演には必ず一家で列席するのが慣例でした。

ヴィスコンティ家は、ミラノの芸術・文化「サロン」の継承者

またヴィスコンティ一族が永年住んでいた「ヴィア・チェルヴァ邸」と呼ばれるミラノ随一の貴族の館は、中世的な華やかなカクテル・パーティが催されるミラノ社交界の中心でした。カクテル・パーティの中心点は、ルキノの母カルラでした。母カルラは音楽家として名を馳せたルイジ・エルバの娘でした(ルイジ・エルバはイタリアの一大製薬会社の創業者カルロ・エルバの弟)。カルラの父ルイジも音楽家で、リコルディ音楽出版会社の経営陣の一人でした。母の家系もミラノの演劇界や音楽界には知れ渡っていた家系だったのです。
ジュゼッペとカルラの2人を結びつけたのは芸術・文化に対する、そしてとくに音楽と演劇に対する共通の関心でした。ジュゼッペ自身、美声のバリトンの持ち主だっただけでなく、劇作家を夢み、理想的な音楽教育を受けてきたカルラもピアノ演奏には人後に落ちるものではありませんでした。
ヴィスコンティ家は、カクテル・パーティだけでなくミラノの芸術・文化「サロン」の継承者でもありました。父が教育に厳しかったのは、ヴィスコンティ家伝来の「サロン」の継承者だという認識があったからで、ヴィスコンティ家の「サロン」の源流は一朝一夕のものではないのです。そのために「価値」あるもの、「価値」あったものを評価することはヴィスコンティ家のモットーのようになっていました。父がルキノら子供たちに教えたのは、音楽、演劇、美術、社交界で、同じく母が教えたのは、舞踏会やパーティ、演劇、とりわけ音楽でした。ルキノ少年にチェロをとらせ教えたのも母でした。

子供たちにはプライヴェート・レッスンと課外教育がほどこされた

子供たちの起床は一年を通し、朝5時半で、登校する8時までの間に、順番に音楽のレッスンがありました。ルキノ少年も毎朝1時間半のチェロのレッスンをしてから学校に通っていたといいます。早朝の音楽レッスンだけでなく、ヴィスコンティ家の子供たちには、年間を通して幾つかのプライヴェート・レッスンと課外教育のスケジュールがたてられていました(母の役割)。それはミラノの芸術・文化「サロン」の継承者としての挟持からくる、学校教育とは別の必須の教育だったのです。そのためヴィスコンティ家には、他の貴族の館にみられるような浮薄な空気はまるでなく、つねに知的に張りつめた空気に包まれていたといいます。「サロン」の継承者の格式を維持するために、「芸術」は子供たちに義務づけられたものだったのです。
ただ、そうしたレッスンは詰め込み型の息つまるようなものでなく、子供たちに個性を発揮できる人間になれるよう、利発さや才能、自由な精神や感性をのばすためでもあったのです。体育と精神教育を受けもつ家庭教師にも、ふつうの親ならばすぐにクビにしてしまうほどの変わった先生をそのままつけていました。勇気と機敏さの涵養をヴィスコンティ家からまかされた英国人家庭教師は、ルキノたちを走っている市電に飛び乗り降りさせたり、混雑する市道を自転車で突っ走らせたり、そのせいでヴィスコンティ家の子供たちがまたやってると有名になってしまったほどでした。

イタリアの政治的混乱の中、父と母が心理的に対立。別居状態に

8歳の時(1914年)第一次世界大戦が勃発します。イタリアは当初、中立国でしたが、対オーストリアとの領土問題からじょじょに民族意識が高まりだすと、ミラノの芸術・文化「サロン」も平穏ではありえず、戦後(1919年)ムッソリーニがミラノで「戦闘者ファッショ」を組織し「黒シャツ隊」をつくりあげ、1922年に「ローマ進軍」でクーデターを敢行したのです。この政治的大混乱期は、父ジュゼッペと母カルラの心理的対立を招いてしまうのです。父ジュゼッペは、ファシストは狂信的なならず者集団ととらえ、他の貴族と同様に反ファシストの立場でしたが(イタリアでは貴族やブルジョアの間には、汚い政治だが必要悪と考え、深入りはしない方が懸命だという見方が支配的。父ジュゼッペは衛生兵に志願)、母カルラは一国の非常事態だとみて、先祖伝来の信仰心の影響もあり、戦時には厳しい倫理観が試される時だとみたのです。ムッソリーニを支持する立場をとりつつ、赤十字活動に身を捧げ、ロンバルドの愛国婦人の鑑(かがみ)として知られるようになります。ただ後にルキノは、父とも母とも違う政治的選択をとることになります。
ルキノ17歳の時、父はローマに滞在するようになり、事実上、両親は別居状態になります。「戦闘者ファッショ」が組織されたミラノでの「サロン」は、それでも混乱のなか催されましたが、もはや時代の空気が反映されないわけにはいきません。しかも「サロン」の中心点の2人が分裂してしまっていたのです。少年ルキノにとってまったく思いもよらぬ事態のなか、小学校高学年頃から次第に少年ルキノの関心は、音楽から「演劇」と「文学」に移っていったのです。戦乱で、母が赤十字活動に向えば、日々の早朝のチェロ演奏どころではなくなってしまったわけです。また母は、国の非常事には芸術活動は断念してでも社会奉仕すべきという信念があったといいます。

中学生時代から文学好きに。14歳の時、シェイクスピア全作品を読む

中学校時代の少年ルキノは、優等生では決してありませんでした。友人の間では、音楽の才能はあるものの、文学好きな少年とおもわれていました。実際、ルキノは夜はほとんど読書に費やすようになっていて、14歳の時には、シェイクスピアの全作品を読み終えていたといいます。ピランデルロやダヌンツィオ、そして劇作家のゴルドーニを愛読していて、文学好きな友達たちとともに小説や詩を書いては読みあったり論じ合ったりしていました。時に、ヴィスコンティの家でお互いの家族も出席したなかで小説や戯曲の発表会が開かれたこともあったといいます。この頃、少年ルキノの部屋はフランス語の古典作品で埋まっていました。
ちょうどこの頃(ルキノ14歳頃)、父がマルセル・プルーストの『スワン家の方へ』(1913年刊行のガリマール版/『失われた時を求めて』のうち)をあまりにも熱心に読んでいる姿をみています。後に、ヴィスコンティは、『失われた時を求めて』の映画化の監督に推されますが、製作者サイドの資金難のため製作が延期され、ヴィスコンティが『ルードウッヒ』の撮影に入ったこともあり実現されませんでしヴィスコンティ本人も『失われた時を求めて』の映画化は一生の夢の実現でもあり強い願望があった。この話が持ち上がった頃、ヴィスコンティは映画『地獄に堕ちた勇者ども』の撮影後半で、企画中に映画『ベニスに死す』も撮影している。そしてシナリオを書きロケハンに赴き俳優も決定され撮影寸前までいっていた。ちなみに配役にローレンス・オリヴィエマーロン・ブランドヘルムート・バーガーシルヴァーナ・マンガーノ、ナレーター役にアラン・ドロンが指名されていた。バイセクシャルだったヴィスコンティアラン・ドロンとの関係も噂され、ヘルムート・バーガーはまさに恋人だった)。ルキノは父が虜になったように(父は母のように戦争の虜になるよりも文学の虜になった)、作品に描かれた舞台を幾度も訪れるなど、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の世界を半世紀にもわたって愛しつづけていたのです。
さて、シェイクスピアの全作品を読み終える頃には、ルキノの劇場通いは本格的になっていきます。スカラ座はもちろんのこと、他の劇場にも頻繁に通うようになります。そして友人たちに劇作家をめざしているんだ、と語るようになっていきました。ヴィスコンティ家にある小劇場でも芝居をするようになり、少年ルキノは演出家と俳優を兼ねていました。少年ルキノが好きな役は、ハムレットだったといいます。▶(2)に続く


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