パゾリーニの「Mind Tree」(2)- 14歳、ランボーの詩に衝撃を受ける。シェイクスピア、ドストエフスキー、トルストイに耽溺

人気ブログランキングへ

少年時代に強くノスタルジーを感じ、「生き直そう」としていた

▶(1)からの続き:小学校高学年の10歳からからガルヴァーニ中学校時代の13歳までは都会のクレモナ(当時の人口6万人程、イタリアの中世音楽の中心地で、ヴァイオリンのストラディバリ他、楽器製造のセンターで、高い文化と大聖堂で知られる)に住み、人気もない早朝に家を出てサチーレなど別の町にある学校にいつも独りで汽車通学していました。この孤独な通学はパゾリーニ少年にとって決してマイナスではなかったといいます。このクレモナでパゾリーニ少年はある「トラウマ」的経験をし(おそらく恋のこと)、子供時代が終わったといいます。パゾリーニ少年にとってこの頃が、最も「幸福な時代」で美しく栄光に満ちた日々だったといいます。
パゾリーニは30歳になるまで、その少年時代に他の子供たちよりも強くノスタルジックさを感じ、「生き直そう」とすらしていたといいます。15、6歳頃になると、もう理想に満ちた幸福な時の喪失を嘆きだしていました。30歳過ぎてから、少年時代を美しく振り返ることはよくあることとおもいますが、高校生の頃にいくら少年時代に優等生だったといえ(全教科で一番をとり特に国語は飛び抜けていた)、それほどノルタルジーを感じるパゾリーニにとって、少年時代はおそらく詩的にも、また「理想郷」として黄金の日々だったのです。

14歳、ランボーの詩に衝撃を受ける。シェイクスピアドストエフスキートルストイに耽溺し、<質的飛躍>をとげる

中学で優等生だった少年パゾリーニは、13歳の時、教科とは別にダヌンツィオ(前述したように父が敬愛していたイタリアの詩人)や詩人パスコリ、カルドゥッチらイタリアを代表する詩人や思想家たちに触れだしています。ピエルは劇作家でもあったダヌンツィオのように詩劇を試みているので、この時点では父が惹かれていたイタリアの詩人の作品も関心を寄せ読み込んでいるようです。
ピエルが高等学校に入学した翌年、パゾリーニ一家は、ピエルの生まれた土地ボローニャに再び移り住んでいます。高等学校の1年の時(14歳)、少年パゾリーニは、<質的飛躍>をとげたといいます。<質的飛躍>が生じた少年パゾリーニの内の「マインド・ツリー(心の樹)」でいったい何が起こったというのでしょう。ある日、国語の代理教師が、おそらく授業の準備もできないまま急遽呼ばれたようです。その若き国語教師リナルディが、1冊の本を取り出し皆の前で読みあげはじめたのです。それがランボーの詩集でした。少年パゾリーニにとって、その出来事は少年時代を通じ最も刺激的なものだったといいます。7歳から詩作をかかさずしてきた少年パゾリーニの魂に、ランボーの詩がどれほど鋭利で、挑発的に映りこんだことでしょう。

<質的飛躍>は、それ以前の継続的蓄積と断続的変化があってはじめて生じるとおもわれるので、まさに7歳からのピエルの積み重ねが<質的飛躍>を呼び込んだといえます。少年パゾリーニは、自身でランボーを読みはじめ、「新しい世界」が目前に開けていったといいます。そしてその「新しい世界」には父が属している「ファシズム」は含まれず、いっそう父とも距離が生じ、結果、「ファシズム」に強く反抗する人間になった、と語っています。少年パゾリーニの「心の樹」に巻き起こった<質的飛躍>は、さらにシェイクスピアトルストイドストエフスキーらの世界を知るに及び、さらに充実し、深淵なものになっていきました。なかでもドストエフスキーの小説『白痴』におおいに感銘を受けていますが、おそらくは小学校にあがることから毎年訪れていた母の郷里と何か関係があるかもしれません。少年パゾリーニの「心の樹」は、実物大のピエルの掌や足のサイズの何千倍、何万倍にもなっていきました。

母の郷里の辺境の土地と「口承」されていた言語に関心を寄せる

少年パゾリーニの<質的飛躍>には、ランボーの「詩」やドストエフスキーらの「小説」が決定的な契機になったのですが、ある「場所」に触れていたことが触媒になっていたとおもわれます。ある「場所」とは、ピエルが6歳から毎年夏休みになると母が弟と一緒に連れて行ってくれた母の郷里で農村のカザルサのことです(イタリアの最北東部で当時のユーゴスラビアに近接)。カザルサには母の祖父母や叔母、いとこが暮らしていました。ピエルはカザルサの土地に住む人たちの素朴な喋り方や武骨な顔だちの農民たち、そして自然な宗教的感情が好きになっていました。イタリア北部の辺境ともいわれるフリウリ地方に属しているカザルサでは、口承で伝えられているだけの言葉の西部フリウリ語が、時を越えて継承されてきたことを知ります。

ピエルは毎年訪れるうちに、言語研究者のようになって、古代ギリシア語にきわめて近いというフリウリ語に少しづつ精通するようになります。ピエルは文字のないこの言葉に、なんと初めて書き言葉を与えてみようと奮闘し、熱中しだすのです。それはかなりの時間をかけた後に、詩というかたちをとって実践されてゆきました。ピエルはプロヴァンスの詩人たちのフェリブリスム(中世南仏の吟遊詩人たちがプロヴァンス方言で詩作した)の方法を倣(なら)い、20歳の時(1942年)、詩集を自費で出版します。それが『カザルサ詩集』で、専門家からも注目を浴びることになります。

ボローニャ大学で「美術史」を学び、決定的な衝撃を受ける。「視覚的」な世界への熱狂

それだけ詩作や文学にのめりこんでいても、高等学校の2年生頃まで(16歳)は、少年パゾリーニの目標は、海軍に入って士官になることだったといいます。少年時代の愛読書サルガーリの冒険小説や、20代半ばにはアフリカに向ったランボー、そのランボーの父と同じようにアフリカに向うことになるパゾリーニの父カルロの影響が綾なしていたことでしょう。パゾリーニが20歳の時、父カルロは、ランボーが暮らしていたエチオピアで捕虜になっているのです。
これまた不思議なのは、17歳の時、(1939年)、パゾリーニボローニャ大学に入学しますが、「文学」と同時に「美術史」を専攻していることです。少年の頃、幾らかは絵も描いていたようですが、「芸術」を勉強しなくてはならないぞ、と言ったのは父だったのです。家では大酒をくらい暴君のように振る舞う父に対し(士官としては大勢の兵士たちに尊敬されていたといいます。写真で見てもなかなかに立派なのです)、内向的だった少年パゾリーニはつねに母の側についていましたが、意外にも父の一言一言が少年パゾリーニに突き刺さっていたようなのです。
そしてボローニャ大学で、「美術史」を学ぼうと志向したことが、パゾリーニランボー以来の衝撃を与えることになるのです。後年パゾリーニは、「わたしが今日あるのは彼との出会いで、雷に打たれたような衝撃があった」と語っています。彼とはイタリアで著名な美術史家のロベルト・ロンギです。そして、その衝撃も「形にあらわれた=形象化された」ものだったといい、パゾリーニが、時を超越した言語的で聴覚的な詩の世界に加え、同じく時を超越した「視覚的」な世界に強く誘われ、パゾリーニの「マインド・イメージ」のなかでその二つが融合し、組織化されていったのです。
パゾリーニはよくやるように、文学から映画への鞍替えは新しいことを言いたいがために”テクニック”を変えただけなんだ、とさらりとかわしたりしますが、実際には彼自身の「心の樹」の内で、「文学・詩」と「美術」の、「聴覚」と「視覚」の複雑な融合反応が急速に生じていたのです。パゾリーニの目の前にあらわれたのは「映画」でした。「映画」の中で、「文学・詩」と「美術」が反応し合う光景がパゾリーニの心を捉えたはずです。パゾリーニは大学のシネ・クラブに参加し、その映画熱はさらに高まっていったのです。▶(3)に続く