ピエル・パオロ・パゾリーニの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- ファシスト軍人だった父と理想主義者だった母の間に。最初の詩作は7歳の時

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はじめに

サディズムファシズムの病的極限状態で「権力」と「肉体」をえがいた『ソドムの市』(1975)を撮り終えた直後、謎の死をとげたパゾリーニ。そして公開された最後の映画から、「パゾリーニ」という名前は、つねに”スキャンダラス”に結びつけられてしまいましたが、青年時代の辺境な言葉への関心や、7歳にして詩作をはじめた詩人としてのたゆまぬ感性、そして民族学的・考古学的な研究、「冒険」志向は、パゾリーニを、魔術的で豊穣な映像表現者へと向わせたのです。
パゾリーニの「マインド・ツリー(心の樹)」の”根”は、あのチェ・ゲバラのごとく、大地の奥深く滔々と流れる地下水にまで達し、その深く生い茂った葉は、歴史に埋もれゆく部族や言葉、滅びゆく身体を守ります。映画『奇跡の丘』『アポロンの地獄』『デカメロン』『カンタベリー物語』『豚小屋』『テオレマ』『アラビアン・ナイト』など、パゾリーニの映画的核心には、異境・辺境、野生と始源、肉体的生命感が、地下水を吸収し変換した<樹液>のごとく溢れています。では一緒にパゾリーニの「心の樹」の<樹液>の来歴をみてみましょう。きっとおもわぬ「発見」があるとおもいます。

父は古い貴族の末裔でしたが、若い頃に散財し無一文に

ピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini 以下、”ピエル”と略)は、1922年3月5日、イタリア北部の「赤い都市」(景観的にも、政治的にも)、ボローニャで誕生しています。パゾリーニ家は、ボローニャがあるエミリア=ロマーニャ州アドリア海側に面した町ラヴェンナの古い貴族の末裔だったといいますが、祖父の代にはボローニャに土地を持ち、不動産やビルも所有していました。祖父は早くに亡くなったため、まだ少年だった父カルロ・アルベルト・パゾリーニは財産を相続することになりますが、14歳の時にダンサーと駆け落ちしたり、なんとたった数年で散財してしまったといいます。無一文同然になった父カルロは、周りの忠告を受け入れ軍人ファシストの道に入ることになります。そしてムッソリーニの命を救った軍人として知られるようになったといわれています。
両親は不仲で、夫婦喧嘩がいつはじまってもおかしくないような重苦しい空気のなかでピエルは食事をしていたようです。父は頑で烈しい性格のファシストの軍人だったので、内気で多感だったパゾリーニ少年とはうまくいかず、パゾリーニは慈愛に満ち詩作の手ほどきをしてくれる母べったりになり、母が抱いている、まるでソクラテスのごとき理想主義的な世界観を、病的なくらいに吸収し、早熟さをみせ7歳前後の時に最初期の詩の習作を書いた、と一般的に語られていますが(『パゾリーニ-あるいは野蛮の神話』(ファビアン・ジェラール著、青弓社 1986)、実際にはパゾリーニの「マインド・ツリー(心の樹)」の”根っ子”はそれだけ一方的に単純化させることはできません(片親で育っても、DNAや気質だけでなく、存在しないもう一人の親は「影」となって子供の心をとらえるでしょう)。
母スザンナはカルロと出会った時、小学校の先生をしていました。フリウーリの小地主階級のコルッシ家の長子で、繊細そうな美しい女性でした。カルロ(当時28歳)は可憐なスザンナに恋に落ち、持ち前の強情さで一方的に恋を成就させてしまい、翌年にピエル・パオロが生まれます。

母からだけでなく、父からも詩への影響。最初の詩作は7歳の時

父カルロ(そして父方の家系)の影響は、とくに幼少時にあらわれ、3歳以降に母の大きな影響下にある時でも、潜在的に父の存在はパゾリーニ少年に影響を与えていました。後年パゾリーニが深く影響される詩人アルチュール・ランボーの場合、同じく軍人だった父は家には数度しか帰らなかったためランボーの中では父の記憶はまったくなかったにもかかわらず、父が残していったもののなかにランボーは父の存在を深く意識するようになっていきます。パゾリーニの場合、3歳までどころか溝はできてしまったものの父はずっと存在しているので影響は直接的なものだったのです。
3歳までは、逆に母の記憶はわずかしかなく、ピエルにとって愛情深く守ってくれる父は心強い存在だったのです。その頃までは両親に諍(いさか)いもなく父はとても幸福そうにしていました。ピエル・パオロという名前じたい父の亡くなった実の弟(20歳で海で溺れ死ぬ)の名前で、弟はずっと詩を書き愛していたため、弟の魂をまるで移植するかのように、名前だけでなく、詩作までも幼い頃に教え込まれたといいます。最も最初に詩作したのは7歳の時(小学校3年)なので、すでに母の影響圏に入っていた頃ではありましたが。ピエル・パオロは、母からも詩作の手ほどきを受けています。父からはどうやら詩人で劇作家のダヌンツィオ(ダヌンツィオの政治活動は、イタリア・ファシズムの先駆者と言われ、ムッソリーニはこのダヌンツィオからローマ式敬礼や「黒シャツ隊」による暴力的弾圧、独裁政治の手法を模倣している。ファシストになった父カルロが敬愛するのは当然である。ダヌンツィオの『聖セバスチァンの殉教』を翻訳したのが三島由紀夫で、「楯の会」の制服や自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーでのアジ演説はこのダヌンツィオからの影響である)のような強烈なイメージの詩を、母からは恋愛叙情詩で知られる中世の桂冠詩人ペトラルカのようなリリカルな詩を。ピエルが書いたのはペトラルカのようなスタイル、つまり母からの影響の詩だったようですが、父と母からそれぞれに詩作の影響を受けたことは、ピエルの「マインド・ツリー(心の樹)」に決定的な影響がありました。事実、ピエルは最初の詩作以来、ずっと続けているのです。

転々とした「引っ越し」。冒険物語をよく読んだ幸福な読書体験

パゾリーニの少年時代の記憶の中で、転々とした「引っ越し」は深く刻まれているといいます。父がまだ歩兵隊士官だったため転勤は1年おきくらいに繰り返されたのです。パゾリーニが生まれたボローニャも、わずか1年半で(14歳頃、中学時代に再びボローニャに帰郷)、それ以降、パルマ、コネリアーノ、ベルーノ(1925年に弟グイド誕生)、さらにサチレ、イドリア、クレモナ、スカンディアーノなどなど。それらの場所は、北イタリア一円の軍の駐留地でした。小学校にあがって数年もたつと士官の息子たちは、軍楽隊に参加しなくてはならずそれがパゾリーニ少年の悩みの種だったといいますが、子供たちとの遊びでは石投げ合戦で金属製の盾をこしらえて先頭を切って突進しているほどで、母の慈愛に満ちた世界観だけに住んでいたわけではありませんでした。パゾリーニ少年の身体は大きくて強さがあったのです。リリカルな詩作もはじめていましたが、もう一方で、パゾリーニ少年は冒険物語やカウボーイの物語も好んで読んでいたのです。パゾリーニが生涯にわたって最も幸福な読書だったというのが、”イタリアの「ジュール・ヴェルヌ」”、”イタリアのSF小説の先駆者”としてあまりにも著名なエミリオ・サルガーリ(Emilio Salgari 1862年生まれ)の冒険小説でした。
といってもエミリオ・サルガーリの名前が知られているのは、イタリアと、スペイン語ポルトガル語を話す国々(ということはイベリア半島とラテン・アメリカ諸国=中南米の多く)に限られ、イベリア半島とイタリアを除く欧米圏では、独特なシーン展開、戦闘・決闘シーンが多いためか(ユーモアもあるが)、無視を決め込まれるか、評価の対象にしないことになっていたため小説どころか名前すら知られていません。日本の翻訳文化もその延長上にあり、存在しないに等しい状況です。しかし、フェデリコ・フェリーニや『薔薇の名前』のウンベルト・エーコだけでなく、ガルシア・マルケスパブロ・ネルーダ、そしてあのチェ・ゲバラ(60冊以上も読破)も、それぞれの少年期にサルガーリに入れこんでいます(Wikipedia参照)。
少し脱線しますが、チェ・ゲバラの少年期の本棚は「冒険」と「旅」の本で埋まっていたことを思い出します。しかもゲバラの反・帝国主義の精神的源流はこのサルガーリの冒険物語にあるとなれば(ゲバラの伝記作家パコ・イグナシオ・タイボ所見)、ただ事ではなくなってきます。後のパゾリーニのよき理解者が作家モラヴィアで、そのモラヴィアボリビアチェ・ゲバラとともにゲリラ戦をして投獄され死刑判決を受けたフランスの知識人レジス・ドブレを救う活動をしています。パゾリーニチェ・ゲバラは共に独自の共産主義者であり、反・帝国主義者ですが、2人とも少年時代にエミリオ・サルガーリの熱烈な読書体験をもっていた。共通する”根っ子”をもっていたわけです。パゾリーニ自身、少年時代にサルガーリのほぼ全作品(長・短篇併せて200以上)を読み、「比類なき読み物」だったと語っているので、エミリオ・サルガーリの名前も知らない国の住人からすれば、この地球上でまさに「パラレル・ワールド(並行世界)」に住んでいるような感覚にとらわれます。▶(2)に続く-