オノ・ヨーコの「Mind Tree」(2)- サラ・ローレンス大学でも「はみだし者」に。リンゴの樹の上で、独り俳句を詠みだす


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『イマジン』の演奏中、ヨーコが「扉」を開けてゆく。このさりげない行為は重要な意味をもつ。建物の入口上に掲げられた「This is not here」とあるサインにも注意。

学習院大学哲学科に入学。ドストエフスキートルストイ、マルロー、マルクスらを読む

▶(1)からの続き:19歳(1952年)、ヨーコは学習院大学に入学します。大学も初等科、中等科と同じく由緒正しき学習院でした。この年、偶然にも学習院大に哲学科が創設されました。この頃には、ヨーコの心の中で、さまざまなものが折り重なり、引き裂かれ、ヨーコは学習院大学哲学科に入学した最初の女生徒となります。学習院大でもマルキシズム実存主義の知的空気が支配し、多くの左翼系ジャーナルが登場し、平和主義がナショナリズムを駆逐していました。ヨーコはこの頃、ドストエフスキートルストイ、ゴーリキ、チェーホフソビエトの小説家を中心に、『人間の条件』や『空想美術館』を著していたアンドレ・マルロー、さらにはマルクスヘーゲルの著作にも手をのばしていきました。朝鮮半島では、1950年からはじまった朝鮮戦争が戦争特需を日本にもたらし、「急速な変化」の気運が日本を包み込みはじめていました。あと数年ではじまる高度経済成長への助走に入っていた頃です。ヨーコ自身は、心の何処かですべての過去を寸断し、完全に縁を切ることなどできないと感じていたといいます。

太宰治の『人間失格』や阿部公房の『砂の女』など戦後日本文学を読み漁る

そんな時にヨーコは、太宰治の『人間失格』や阿部公房の『砂の女』などの戦後日本文学を貪るように読んでいます。そして自身を生んだブルジョアを客観的にみつめ、距離をとることを強烈に意識します。それは「自立の道」を指し示すものでした。しかしどんな方法が、どのような道があるのかはまだまったく想像しえません。暗中模索していたがゆえに、哲学科を専攻したといえます。自立志向は、大学時代よりももっと早く、少女の頃から芽生えていたからです。嘘にあふれ虚飾に満ちたブルジョア家系からいかに自分を分離し、知的な自立の道をいかにつくりだせるか、そうした鬱積した思いが中学、高校時代を通して蓄積していたのです。興味深いのは『グレープフルーツ』(1964年初版)など、後のヨーコの作品には、閉ざされた心の窓が開かれてゆくような感覚を生み出すものが多いことです。


「叫びなさい。
 一、風にむかって
 二、壁にむかって
 三、空にむかって」(『グレープフルーツ』より)


「空に ドリルで穴をあけなさい。
 穴と同じ大きさに 紙を切りなさい。
 その紙を燃やしなさい。空はピュアなブルーでなければならない。
 想像しなさい。
 あなたの身体が薄いティッシューのようになって
 急速に 世界中にひろがっていくところを。
 想像しなさい。
 そのティシューからちぎりとった一片を。
 同じサイズのゴムを 切りなさい。
 そしてそれを、あなたのベッドの横の
 壁につるしなさい」(『グレープフルーツ』より)


哲学科でのアカデミックな勉強は、ヨーコにとどきませんでした。幻滅すら覚えたようです。もっぱら心の栄養になったのは読書でした。ヨーコが希求していたのは、知的な「自立への道」だったので、大学の哲学科にそれを求めてももともと無理だったのです。しかも、何か”クリエイティブ”な方法で、となればなおさらです。ヨーコは勉強そのものではなく、「方法」と「アイデア」が欲しかったのです。
結局、哲学の勉強に幻滅したヨーコは入学したその年の末に、母・弟とともに再び父が住むニューヨークに行きます(13年前の1940年から1年間、ヨーコはロング・アイランドのパブリック・スクールに通っていた)。新たな住居はニューヨークのすぐ北方の郊外のスカーズディルでした(スカーズディルはその成り立ちから全米でも珍しい独自の自治法がある。ジェイムズ・フェニモア・クーパーの小説『ザ・スパイ』の舞台にもなっている)。ヨーコは前述したようにブロンクスヴィルのサラ・ローレンス大学に入学します。そして哲学もある人文科学(Humanities)を専攻するのではなく、作曲と現代詩を学ぶのです(大学のすべてのカリキュラムでは”ライティング”=書くこと、が重視されている。ちなみに現在、全米の大学の中で人文系としては最も高額な年間授業料ー寮費込みで500万円程かかる)。

サラ・ローレンス大学でも「はみだし者」に。リンゴの樹の上で、独り俳句を詠みだす

ところがキャンパスではヨーコはいつも憂いをたたえた表情が和むことはありませんでした。周りのみながヨーコに「違和感」を覚え、ヨーコの方からも皆の中に入って交わることができず、ここでも「はみだし者」になってしまうのです。ヨーコはよく大学のキャンパスにある大きなリンゴの樹にのぼり枝に座って俳句を詠むようになっていました。さすがにその姿は校内でも有名になり、今でも当時のクラスメイトはそのことをよく覚えています。殻の閉じこもってしまっているようだけれども、樹の上で詠うその姿は、後のヨーコのパフォーマンス・スプリットを予感すらさせます。青空を遮る天上のある校舎内に居るよりも、「空」に向っていくらでも「想像力」を放てるからだったにちがいありません。しかも、俳句を<詠む>とは、英語でいえば<writing> a Haikuであり、サラ・ローレンス大学が力を入れていた<”ライティング”=書く>ことを、ヨーコなりに表現し実践していたことにもなります。そかもしれは戸外で青空に向ってです。ヨーコにとってやむにやまれずの行為が、後の『グレープフルーツ』の源泉となり未来につながっていくことになるとはまだ神のみぞ知るの領域です。そしてヨーコの「マインド・ツリー(心の樹)」が、風の中、光の中、青空の下、何ものかへ向って枝を伸ばしはじめていくのです。最も当時のヨーコにとっては、その行為は、魂の「サバイバル」そのものだったようです。
一方で、こちらでも両親との関係が好転することはありませんでした。ヨーコは家族との関係を断つしか息苦しさから解放されることはない、と判断します。どこまでも青空を志向する(「Sky People」(1985)という曲も書いている/「Above us only Sky」イマジン)ヨーコの魂は、土地にへばりついた体(てい)の良い<ブルジョア人間>であることは堪え難いものがったようです。そしてヨーコはついに安田家と小野家に反抗しはじめるのです。「もし反抗しなければ、私はサバイブできなかったでしょう」と後に語っています。1955年にヨーコは、安田家と小野家に反抗する証をみせるため、サラ・ローレンス大学を敢然とドロップアウトし、ニューヨークに向かったのです。▶(3)に続く-未