セルジュ・ゲンズブールの「Mind Tree」(2)- 19歳、巨匠フェルナン・レジェのもとで学び、22歳の時ユダヤ人教育センターで美術教師の職を得るも、「画家」になる夢消え去る

父は将来を心配し、ルシアンにギターを習わせた。いざという時、大道芸人として食べていけうように

▶(1)からの続き:父ジョセフは、息子ルシアンの行く末が心配でなりませんでした。戦争に経済の悪化、ユダヤ人であること。食べていけなくなる悪材料は揃っていました。父ジョセフは、ルシアンにギターを習わせようと思いつきます。もしにっちもさっちもいかなくなったら大道芸人として食べていけるいうにという親心でした。父ジョセフは、スペイン系のジプシーをギター教師として雇いました。その頃、まだギターはロックンロールの魔法の杖になる前のことで、スペインのフラメンコか、ロマニ(ジプシー)のキャンプで聴かれる楽器とみられていました。そして当のルシアンにとっては、ギターは父の思惑とは異なるものとして受け取ったのです。ギター1本さえあれば、持ち運びも移動も容易で、夢想家のルシアンにとっては魔法の杖のように思えたのです。ギターを抱えればいくらでも伝説のジプシー気分に浸れたのです。

19歳、巨匠フェルナン・レジェのもとで学ぶ

もっとも父の思いとは裏腹に、少年ルシアンの画家への思いはつのる一方でした。画家への思いとギターを抱えたジプシー気取りは分離することなく補完していたようです。19歳(1947年)のルシアンは、大戦終結後に米国から帰国していたキュビズムの巨匠フェルナン・レジェ(当時66歳)と、マルセル・デュシャンやその兄ジャック・ヴィヨン、そしてレジェも名を連ねていたピュトー・グループの一人アンドレ・ロート(日本人画家の黒田重太郎が師事)に師事していました。ちなみにセルジュ・ゲンズブールとまったく同年同月(1928年4月)生まれの写真家ウィリアム・クラインは、ゲンズブールが学んだ2年後に、フェルナン・レジェのもとに学び、その際に、アトリエやギャラリーに閉じこもって描いてばかりいるのではなく外に、ストリートに出て現実世界を見なさいと言われています。それが後にあの写真界の名作『New York』(1956年)につながっていきます。
10代後半、ルシアンは無職の、一画学生でした。モンマルトルの丘とつながった”根”は容易には切れることはなかったのです。そんなルシアンが美術教師の職を探し応募したのです。無職の画学生が美術教師の職に。じつは知り合った自身と同じくロシア系のルヴィッキー(貴族階級の末裔)といい関係になり、結婚しようとおもったからでした。突如、ルシアンに定期収入が必要になったのです。当時ルヴィッキーはジョルジュ・ユグネというシュールレアリズム詩人の秘書をしていましたが、その詩人の実兄は、なんとサルバドール・ダリだったのです。ルヴィッキーはダリのアパルトマンへの出入りを許されていたので、2人は時々ダリのアパルトマンでデートを重ねたといいます。

22歳、ユダヤ人たちの教育センターで美術教師の職を得る

そんな頃(20歳)、ルシアンに召集令状(1年間の兵役通達)が届き、フランス陸軍第93歩兵連隊に配属されます。植民地アルジェリアで発生した反乱を阻止するための召集でした(1948年)。文字が読める者は当時はみな士官候補生となったのですがルシアンは士官学校行きを断り、結果除隊させられます。すぐにルヴィッキーと同棲生活がはじめ、安ホテルを泊まり歩きます。ランボーヴェルレーヌがかつて住んでいたことのあるロワイエ・コラール・ホテルにも泊まったこともあったようです。
22歳の時、ルシアンは美術教師の職を得ます。ユダヤ人の子供とナチスの収容所から生還した人たちをサポートする施設でもあるメゾン・ラフィット教育センターでの職でした。つい俗語が口許から飛び出すようなその語り口は、生徒たちに受けたようです。ルシアンは自宅でも、ギターとピアノを教え幾らかの収入を補い、時間があけば近所の生涯学習センターで「リズムと即興演奏」のワークショップを催したりしています。
翌年2人は籍を入れ、イスラエル人移住者寮で一緒に暮らしはじめました。それでもルシアンは明日のことはまったくみえない状況だったようです。そしてこの頃、ルシアンの「心の樹」の裡のもう一つの枝葉が勢いよく伸びはじめたのです。それは「音楽」でした。日頃、ギターとピアノを教え、演奏していたので、レコードの蒐集もかなりの数になり、音楽への理解も高まっていました(ライナーノーツを読んでは新たな発見をしていたといいます)。クラシックも敬意を感じよく聴くようになっていたルシアンにとって、最高の音楽は「ジャズ」でした。父が好きだったディキシーランド・ジャズではなく、「モダン・ジャズ」でした。ブルー・ノートやホット・クラブに通い、ヘンリ・ジェンやアンドレ・クラヴォといったフランス人のジャズマンが好きになっています。セロニアス・モンクやディージーガレスピーバド・パウエルマイルス・デイビスは熱心に聴いてはいましたが。アメリカへの劣等感が見え隠れするでした。

バーやクラブ、ダンスホールでのセミプロの伴奏者になる

そしてデューク・エリントンとも共演経験のあるプロのミュージシャンでベース奏者ミッシェル・ゴードリーとの出会いがルシアンをさらに「音楽」へと向わせました。ゴードリーはルシアンをクラブでのジャム・セッションに参加させました。ルシアンの演奏は慎重すぎ弾むことができず、じしん「モダン・ジャズ」のアヴァンギャルドな即興演奏に向かないタイプだということにその時気づいたようです。しかし楽器の演奏、音楽への関心はとどまることはありませんでした。
ルシアンはバーやクラブ、ダンスホールでのセミプロの伴奏者としてならなんとかやれるのではないかと考え、行動にうつしていきます。それはまさしく父の仕事そのものでした。父の姿を見て知っているからこそ、ルシアンは自身の姿もイメージできたにちがいありません。日々の教育センターの仕事を終えると、セミプロの伴奏者としてバーやクラブに潜りこんで演奏するようになります。イスラエル人移住者寮の界隈でもセミプロの伴奏者を雇ってくれるところがいくつかありました。とくにモンマルトルのクリシー通り近くの映画館を改装したテアトル・デ・トロア・ボーデでよく演奏をしています。そこは大学生やビートニクを気取った連中の溜まり場になっていました。それ以外にも成人祝いの宴にも呼ばれ演奏しています。長い夏のヴァケーションに入ると、海辺のリゾート地トゥーケのクラブで住み込んで演奏の仕事をしています(数年間、夏はそこで仕事をしつづけた)。

「画家」になるという夢がいつしか消え、現実生活から「夢」を再創造する

この頃になると、「画家」になるという夢もほとんど消え去っていました。ゲンズブールのケースのように少年期からずっと続いていた「夢」が、青年期にいつしか消え去り、厳しい現実生活の中で身体に染み付いている「記憶」が溶け出し、リアルな生活を成り立たせているものが単なる「仕事」や「趣味」の域を超え、なにか可能性と希望を託すことができるものとなるケースは、かなりあるとおもいます。実家が大工や和菓子といった自営業だった場合、しばしば見受けられるのではないでしょうか。ゲンスブールの場合も、そうした例と同様、父はピアニストという「自営業」だったわけです。少年時の「夢」がそのまま大人になっての職業になって成功する場合はそれ以上の幸せはないでしょうが、そうした例は現実的には相当に稀なケースで、今日のような低成長時代が長く続く場合は、さらに少年時代の「夢」を実現させることなど「夢」のまた「夢」に近いものになってきています。
そしてゲンズブールのケースで気づくことは、新たなる「夢」とは、すでに今の自分が長い間かけて積み上げ、経験してきた「仕事」に、自分自身の「マインド・ツリー(心の樹)」から伸びている枝に繋げるてみることから、”(再)発見”できるかもしれないということです。いわゆるしばしば”足元”を見よ、というのは、自身の「心の樹」の”根っ子”、そこに立つ場所を今いちど認識することなのです。そして現実生活から「夢」を再創造する、という方法をもたらすのです。

教育センターを辞めた途端、生活が一気に厳しくなり、副業を幾つもすることに

セルジュ・ゲンズブールはどのように現実生活から「夢」を再創造したのでしょうか。教育センターの仕事(主に美術教師だった)と夜の音楽の仕事との2重生活は、さすがに20代の身体であっても消耗度はかなりのものになります。ルシアンは音楽でだけに集中した方が多く稼げるのではと考えました。実際、夜の音楽演奏の実入りがよくなっていて、美術教師の仕事で得る稼ぎよりも多くなりかけていたのです。そしてルシアンは思い切って教育センターを辞めました。ところが教育センターでの仕事がなくなると、昼間にそうはバーやダンスホールでの仕事があるわけもなく想像以上に生活が厳しくなってしまったのです。副業を幾つかこなさなくては食べていけなくなります。家具の塗装や、当時映画館で販売されていた白黒フィルムを彩色する仕事などを請け負っていたといいます。
この頃、ジャック・ブレルやミス・エジプトだったダリダ、アルメニア人のシャルル・アズナヴールがクラブで発掘され、音楽シーンは賑わいをみせていました。ルシアンはなんでもこなせるミュージシャンのサイドマンの位置から、歌手(シンガー)や「ソングライター」へとじょじょに<夢の再創造>をイメージしはじめます。

26歳、音楽著作権協会に入会するも、デモテープの売り込みが苦手で成果がでず

一方、結婚し生活がかかっていたルシアンは、少しでも稼ぎを増やそうとミュージシャン組合に加入し、26歳(1954年)の時には、音楽著作権協会へ入会を申し込んでいます。そのための資格試験にも合格しています。後のあのゲンズブールからは想像もできないような堅実さです。ところがそこにはルシアンならではの読みがあったのです。それは「ソングライター」という存在への予感でした。1950年代半ば以前、「ソングライター」は、歌手(シンガー)のための臨時雇い的存在だったようです。けれども優れた歌手にとって、優秀な「ソングライター」は必要不可欠で、自分がつくった曲を一流の歌手(シンガー)に歌ってもらえれば著作権料が入ることになるわけです。
早速ルシアンは自作の6曲を著作権協会に初登録し、録音したデモテープを歌手(シンガー)に売り込みはじめました。「ジュリアン・グリス」というペンネームもつくりました。ところが曲の売り込みには、曲の善し悪しだけでなく、かなりの営業センスが必要だったのです。ルシアンの根っからの内気さが禍いして、売り込む前に、相手をもちあげながら自身を売り込むことができなかったのです。結果3年間、ほとんど成果がないまま、ルシアンは作詞家としての自分の才能に見切りをつけてしまうのです。実際、27歳から作詞は別の人に依頼するようになりました。それでも曲をつくりつづけたのは、新曲やレコードの「ヒットチャート」がこの頃には発表されるようになっていて、「曲」が大ヒットすれば莫大な著作権収入を得ることができると認識していたからでした。ルシアンは自作の曲の売り込みに何度も失敗しても、「ヒットチャート」の動きは必ずチェックしていたのです。▶(3)に続く-未

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