ルー・サロメの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- ロシア皇帝の宮殿とエルミタージュ美術館近く、ロシア帝国の心臓部に生を受ける。幼少期、親密だった父から刻印された男性像

はじめに:才能ある男性に霊感を与えつづけたルー・サロメ

サロメ」と聞けば、画家ギュスターヴ・モロービアズリーカラヴァッジオの絵画や、オスカー・ワイルドの戯曲、あるいはリヒャルト・シュトラウスのオペラなどが思い浮ぶでしょう。西欧の芸術家たちにインスピレーションを与えたその「サロメ」は、『新約聖書』に登場する祝宴での舞踏の褒美として「ヨハネ」の斬首を求めたとされるサロメです(1世紀の古代パレスチナを統治していたヘロデ大王の息子を義理の父にもつ女性)。今回、「マインド・ツリー」で取りあげるサロメは、ニーチェワーグナーリルケフロイトらにインスピレーションを与えた「ルー・サロメ」です。ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』はこのルー・サロメを霊感にするなど、ルー・サロメは知的好奇心が旺盛だっただけでなく、因襲にとらわれない生き方、またその美貌が、ニーチェだけでなくリルケパウル・レーをはじめ熱く語りあった才能ある男性にロマン的情熱を駆り立ててしまい、スキャンダルがたえない小悪魔女性と噂されてしまうのです。そのため彼女自身が生涯かけて希求していた無類のものが見逃される傾向にあったようです。
作家のアナイス・ニンは、「ルー・サロメ」を「女性の発展史上、測りしれない重要さをもつ一人の女性」とみています(『ルー・サロメー愛と生涯』ちくま文庫 H.F.ペータース著)。じつはルー・サロメ1861年生まれ)と同じ世代には、日本では津田梅子(1864年生まれ)と大山捨松1860年生まれ)がいます。彼女たちは明治4年(1871年)に新政府の岩倉使節団に初の米国留学女学生として渡り、日本の女子教育の先駆者になっていきました。帝国婦人協会」を設立し、実践女子学園を創立した下田歌子1854年生まれ)もまた女子教育の先覚者でした。
映画監督リリアーナ・カヴァーニが、ニーチェパウル・レーとルー・サロメの3人の同棲をえがいた『善悪の彼岸』は、さらにルー・サロメの煽情的なセクシャリティばかりが強調されすぎ、ルー・サロメが内奥への問いとともに、自身の「心の樹」から”樹液”のごとく生み出していった<新しい女性>像は逆にわかりづらくなってしまっています。ルー・サロメは、31歳の時に、『イプセンの女性像』(1892)を著したように、<新しい女性>の到来を感じ取り、自ら実践していきました。しかしルー・サロメが発した<新しい女性>は、じつはサロメ自身、それとは気づかないうちに幼少期と少女期に芽をだしていたのです。それは身体的な解放さ、個人の自由、男性と同等の権利といったものではなく、むしろ内面へのかぎりのない”問い”であり、行く先もみえない”魂の旅”だったのです。
それではルー・サロメに胚胎した<新しい女性>とは何だったのか、なぜルー・サロメはその先覚者の一人といわれるまでの女性になったのか、ともにみてみましょう。

ロシア皇帝の宮殿とエルミタージュ美術館近く、ロシア帝国の心臓部に生まれる

ルー・サロメ(Lou Andreas-Salomé;本名ルイーズ・フォン・サロメ Louise von Salomé)は、1861年2月12日、バルト海に面したロシア帝国の首都サンクトペテルブルグ英語圏表記、Saint Petersberg セントピーターズバーグ;聖ペトロの街)に生まれています。ルー・サロメが生まれ育ったのは、ツァー(皇帝)の宮殿である冬宮の向かいにある参謀幕僚館でした。その向かいにはエルミタージュ美術館、宮殿広場に接し、大蔵省と外務省、西側には海軍省がありました。そこはロシア帝国のまさに心臓部でした。
父グスタフ・フォン・サロメは、帝政ロシア軍人として最高階位にのぼりつめた大将軍だったのです。しかしサロメ一族はもともと生粋のロシア人ではありませんでした。ロシア国境近くのバルト諸国(ドイツ語圏)の出身で、ならばドイツ系のようにおもわれますが、Saloméはドイツ系の姓ではなく、フランスにルーツを辿ることができ、先祖はアヴィニョンにあり、フランスの下級貴族だったといいます。そして本国フランスを離れなくてはならなかったのは、サロメ一族がユグノー(改革派、新教徒ープロテスタント)であり、16世紀のユグノーの宗教迫害「ユグノー戦争」がもたらした亡命だったのです。
ちなみに「サロメーSalomé」は、古くユダヤ人が古典ヘブライ語で使っていた「Shalom シャローム(平和・平安)」に起源しているといわれています。「Shalom シャローム」といえば現在もユダヤ人の日常の挨拶言葉として知られています。サロメ家はユダヤ教の信仰もなく、またユダヤ人ではないと言われています。が、先祖が住んでいたフランス・アヴィニョン以前には、どこかでユダヤ人の血脈と通じていたのかもしれません。
さて、マルティン・ルターに発するよるこの宗教改革(後にカルヴァン主義となったプロテスタンティズム)は、貴族、金融業者、商人から手工業者、農民とフランスの多様な社会階層に及び、とりわけ商業・金融・工業の担い手になっていたため、1598年の「ナントの勅令」(個人の信仰の自由を認めた勅令)までに、イギリス、オランダ、ドイツ、スイスに大量に逃れ、その地で工業・金融の発展に大きく寄与していきました。そのため各国の金融業は、ユダヤ系以外はプロテスタント新教徒が担っています。もっともフランスでは多くの貴族層は、ユグノー戦争後に信仰を離れたためフランス国内に留まっています。ところが1685年にルイ14世が「ナントの勅令」を廃止したため、すでに産業の中核を占めていたプロテスタント新教徒の多くが大量に国外に亡命したため以降、フランスは大なる農業国と化し、財政も緊迫し国が縮小していきました。これは約100年後の「自由・平等・友愛」をうたった市民革命としての「フランス革命」を呼び起こす遠因になったといわれるだけでなく、「ナントの勅令」の廃止がイギリスと比べ、フランスの産業革命を大いに遅らせることになったといいます。

父グスタフは、ポーランド動乱で活躍し、25歳でロシア帝国の陸軍大佐に

サロメ一族はアヴィニョンからドイツとの国境近くにあるストラスブール(ドイツ系の街)に向かい、その後さらに東方へ移り住み、サロメ一族以外のユグノーと同様プロイセン国王に仕えています。19世紀の初めになるとロシア皇帝が自国を西欧化しようと優秀な外国人を民政と軍政の要職に登用するようになります(ドイツ人とフランス人はとくに歓迎され特権的地位も与えられた)。サロメ一族(父グスタフ6歳の時)もその情報を得て、サンクトペテルブルグに移住します。そしてポーランドの動乱が、サロメ一族のターニングポイントになります。ポーランド動乱でのグスタフ・サロメの活躍と献身が、皇帝ニコライ一世の耳に入り、若干25歳の若さでロシア帝国の陸軍大佐にとりたてられたのです。そして皇帝の寵愛を得、世襲貴族となり、参謀幕僚の地位を与えられるのです。アレクサンドル二世の治下では上院議員もつとめています。

己に厳しく、深く考える気質の母の影響

母ルイーズ・フォン・サロメ(旧姓ヴィルム)は、北方ドイツ人とデンマーク人の血を引く青い目をした小柄な女性でした。父とちがいサンクトペテルブルグで生まれています(1823年)。ヴィルム家は製糖業で財を成した裕福な家柄でした。幼少期ルーはずっと甘い父になつき後年も男性との付き合いのなか、父の影響は大きなものがありましたが、その内面性においては母の影響も決して少なくなかったのです。令嬢だった母は、つねに外面的には服装や態度に注意を怠らない性格でしたが、その心の内は考えを深めていく気質で、日々つけていた日記には(ドイツ語とフランス語とロシア語で記していた)、生と死とめぐることから、宗教的な瞑想、アフォリズム(人間の生き方についての箴言や警句)がよく書かれていたといいます。実際に両親を早く亡くしており、その後は祖母とともに暮らし、雇い人の多いヴィルム家を切り回していました。思春期になると強い意志に満ち、己に厳しい少女となっていったといいます。しかし大世帯をきりもりする才がサロメ家でさらに活きることになったのです。21歳の時、ルイーズはサロメ家に嫁ぐのです。
母ルイーズの世代は、娘ルーと異なり、「家庭」こそ女性にふさわしい場所であるというのが信条でした。母ルイーズの場合、早くに実母を亡くしていたので、余計にその思いは強かったにちがいありません。「妻」や「母」というのは女性本来の権利であるという考えからは、女性が外にでて働くことや”女性の自由”という要求や考えは、理解できないものでした。ただその本心を公然と声高に言うタイプではなかったため、強情で反抗的な気性のルーが大きくなっても表立った対立はなかったといいます。ただそれも感情をおもてに出すのを嫌う母の気質からで、母娘の間にはかなり早い時期から緊張関係がずっとあったようです。

幼少期、親密だった父から刻印された男性像

逆に、将軍の父とルーとの心の交流は深くおおきなものがありました。他人からみれば父は権威ある将軍でしたが、ルーといる時だけは、威厳の衣を脱ぎすてるのでした。しかし、その濃密な親密さは、母や兄たちに気づかれることなくひそやかになされていたといいます。家庭内のどんな諍いにも父はルーの肩をもたないではいられなかったといいます(57歳の時の可愛い初娘だったこともある)。たとえばロシア語は難しく学校でのロシア語の勉強はしたくないと言い出したら(サロメ家ではドイツ語かフランス語が日常語)、父はそれを許し、その教科は落としてもいいと告げただけでなく、ルーは無理して学校に行っているのではないか、行く必要はないと慰めるのでした。
優しい父のイメージは、ルーの「マインド・ツリー(心の樹)」の”樹根”に刻印されていったのです。このことは後のルーの男性像と対異性意識にはかり知れない影響を与えていったようです。ただルーの異性意識を独特なものにしたのは、父とともに3人の兄たちの存在を無視することはできません(5人の兄の内、2人は夭逝)。ルーはかよわい小さい女の子扱いされるのが我慢ならず、いつも兄たちの遊びに入り込んでいくのです。兄妹全員が将軍家の子供として気位が高かかったのはまだしも、皆が皆、気が短く、自信家で、自分の考えが絶対に正しいとして譲り合おうとはしませんでした。すぐ上の兄オイゲンが、ルーに女の子らしくないと忠告しようとおもうならば、ルーの逆鱗に触れるのでした。兄妹たちの一番のお気に入りの遊びは、寄木細工の床上での橇ごっこで、馬役のルーが広い部屋を這いずりまわるのでした。ルーにとって男性とは、幼少期からつねに一緒にいる遊び仲間だったのです。

少女時代にいつも感じていた「神」。「神は存在しない」という思いに取り憑かれる

ヨーロッパの貴族社会がじょじょに崩れだそうとしているこの時期、ロシアでは依然、封建制は盤石でした。サロメ家にはとりまきの士官、従僕、園丁、料理人や下女、召使いたちが数多くいました。ルーにとっては実母のようにルーを可愛がるロシア女の乳母が一番身近で、ロシア(民衆)に対するルーの愛は、この乳母からを受け継いだといいます(ルー・サロメには『祖国ーロシアの思い出』という著書がある)。フランス語の女家庭教師は好きになれませんでした。
召使いたちも各々ギリシア正教会やロシア正教会イスラム教に属していたように、神はちがえどロシアは信仰に生き人たちに満ちていました。サロメ家も信仰篤く、ルーの少女時代は「神」はすぐ傍らに存在していたのです。夜、ルーが語りかけると「神」はいつも、暗闇の中で黙って頷いてくれているようにルーには感じたのです(話をした時もあったといいます)。兄たちがいじめたと訴えた時も、いろんな物語をルーがつくった時も、「神」は聴いてくれたといいます。ところがある時から(ある召使いが「雪だるま夫婦」の話をルーにした時)、「神」が何も返事をしてくれなくなり、ルーの心の裡に恐ろしい考えが浮かんできたといいます。「神は存在しないのではないか」と。それ以降、神を信じる両親にも内緒に、ルーはずっと神なき世界にひとり取り残されてしまったといいます。ルー・サロメが生涯を通じて思考し自身につきつけたのは、あの<幼年期の神>の神秘であり、”再発見”だったのです。ルー・サロメが、ニーチェリルケフロイトをはじめとす多くの知性と出会い、話し合い、著したのは、ルー自身の「マインド・ツリー」の根源に産み落とされたおおいなる”問い”への接近だったのです。▶(2)に続く-未

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