ブライアン・ジョーンズの「Mind Tree」(2)- 10代のはじめ「変化」が生じる。学校設立以来、初めての「知的な反抗児」といわれる

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どんな管楽器でも「耳」と「勘」だけでものにすることができるようになる

▶(1)からの続き:母からピアノを習いはじめた6歳の時、今度は学校の音楽教師のもとでもピアノのレッスンを受けるようになります。すでに母から楽譜の読み方を習っていたので、音楽教師のレッスンはすぐに飽き足らなくなり、ブライアンは「直感」で自分なりのバリエーションで演奏していったといいます。音楽教師はそうしたブライアンの感性は一方向的に教えるレッスンには向かないとおもったようです。教師の方からブライアンにはついていけないと匙を投げています。「耳」ができあがりつつあったブライアンはピアノからリコーダー、そしてクラリネットへと「西洋音楽の管楽器」ならば、好奇心のおもむくまま、手にして試すようになっていきます。しばらくするとどんな管楽器でも、「耳」と「勘」だけでたちまちのうちにものにすることができるようになったといいます。その才能に父は、ブライアンはクラシックの音楽家になるのかもしれないとおもったそうです。
9歳の時、突然、「自分の容姿」が嫌いになり、なぜか大きな丸い眼鏡をかけるようになります。学校の先生が、ブライアンのことをちょっと小生意気だとおもうほどには、強烈な自我といっぱしの独立心が育ってきていました。あしらうのが巧い女の先生には人気があったようです。行儀はまだよく、作文に秀でて才能のきらめきがあり、しっかり勉強する模範的な生徒だったので、小生意気さやちょっとした反抗心は、逆にチャーミングポイントに思われるほど皆から気にいられていました。

10代のはじめ「変化」が生じる。中学校では「制服」に異常に反応し、「反抗」するようになる

10代のはじめに誰にも分かるほどブライアンに「変化」が起きたといいます。「年上の言うことだからといってどうして命令どおりにしなくてはいけないのか」と先生たちの指示の一つ一つに盲目的に従うことを拒みだしたのです。その反抗は、これから生じるもっと大きな権威に対する「理由なき反抗」の兆候でした。
ディーン・クロース中等学校に入学すると、ブライアンは”あること”に異様に反抗するようになります。それは学校の「制服」でした。制服の着用はディーン・クロース中等学校の校則だったので、母は叱っても着せようとするのですがブライアンは制服を隠してしまうのです。教師たちにもその反抗心は強烈な印象を与えています。「制服」への不満や反抗は、均質性やシステムへの反抗の入口になります。それは頭の良さ悪さとはイコールではありません。溢れ出てしまうものが、均質なコップのような制服に押しとどめられないのは不良であろうがIQが高かろうが同じです(不良は着崩す知恵をもっていますが、高IQ人間はしばしば着用していないことにするか全否定にはしる。ちなみにブライアンのIQ=知能指数は135もあった)。「制服」を別とすれば、ブライアンの音楽と国語の成績は抜きん出ていました。第1学年の時、国語のクラスで毎週作文の時間にあてられていて、ブライアンはジミ・ヘンドリックス少年のように、宇宙ものの話をシリーズ化して書いて先生を驚かせたといいます。
中等学校を卒業すると、ブライアンは高度な教育で知られるチェルトナム中等学校に進みます。この頃もまだ隣近所には良い生徒としてみられていましたが、家の中では、もっぱら勉強よりも「レコード」や「ラジオ」を聴いてばかりいました。初期のジャズ・ナンバーの「聖者の行進」や「マスクラット・ランブル」などのリズムに合わせて”即興”で「口笛」を吹きはじめたのもこの頃です。「口笛」はブライアンの手軽な「楽器」でした。それでもブライアン学校では依然患っていた喘息をおして首席になっています。

「ショート・レッグ」とか「ミスター・シャンプー」とあだ名されからかわれた

輝くばかりのブロンドの髪と整った顔立ちで、ブライアンは甘やかされ、学校でも女の子に人気がありちやほやされるのがつねでした(ブライアンはキース・リチャーズの少年時代と違い独りでいることがほとんどなかったこともあり、ストーンズ結成後分かったことは仲間はずれにされるとブライアンは精神的に弱かった)。そんな人気者のブライアンを好まな男連中は、「ショート・レッグ」(実際、足が短かかった)とか「ミスター・シャンプー」(髪が綺麗すぎる嫉妬から)というあだ名をつけてからかったといいます。
スポーツに関してはブライアンは、たいした理由もなく走り回ることは時間の無駄に思えたようで、それを越えると退屈になってしまったらしい。ただバドミントンは退屈しない範囲でやっていたようです。ある伝記ではブライアンはスポーツが大好きだったとありますが、チェルトナムクリケットの英国最大の選手権がおこなわれる町だったこともあり、チェルトナムの住人が皆そうであるようにクリケットは好きだったようです。それに柔道も幾らかやったようですが、とりわけダイビングが好きでした。ブライアンは泳ぎそのものに関心があったのではなく(とくにスリルのある海での泳ぎは滅法得意だった)、落下するスリルや空中での宙吊り状態に惹かれるものがあったようです。ブライアンが命を落としたあのコッチフィールドの邸宅(『クマのプーさん』の作者A.A.ミルンが所有していた)には温室プールに突き出た飛び込み板があって、そこからよく飛び込んでいたといいます。
なによりも「退屈」さを嫌ったブライアンの人生は、つねに何かに「飛び込んで」いくような感覚だったのでしょう。そのスリルを希求する魂は、しばしば予想もつかないところへと人を呼び込んで行くことになります。まもなくブライアン自身も予想のつかなかった事態に陥ることになります。家族とは完全に引き裂かれ、近隣や学校では噂でもちきりとなり、良識に満ちたチェルトナムに居ずらくなるほどの事態に。その人生への「ダイブ」は、”根っ子”のところで、ストーンズを結成するにいたる未知へ「ダイブ」する大胆さや好奇心につながっています。

学校設立以来、初めての「知的な反抗児」といわれる

まだその事態になる数年前の11歳の時、子供の能力を見極め差別化する試験でブライアンは優れた生徒に振り分けられ、由緒正しい伝統のあるペイツ・グラマースクールに入学しています。両親は大喜びしましたが、学校側はすぐに別の反応をします。校長はブライアンのことを学校設立以来初めての「知的な反抗児」と呼ぶに相応しい少年だったと回想しています。
勉学面では知識の吸収も早く、記憶力も驚異的だったといいます。それを見込んでブライアンを本気で勉強させようとした教師は反逆にあうだけでした。早熟な才能と感受性と衝動と欲求と苛立ちと無邪気さと気紛(きまぐ)れと攻撃性がまるでミキサーのように掻き混ぜられ、ブライアンは自分を押さえることができず挑発的になり、あらゆる機会をとらえて権威やシステムに抵抗しはじめました。当時の友人もブライアンを「理由なき反抗児」だったといいます。挑発し反抗はしても試験となると驚くほどの成績をとっていたといいます。ブライアンの反抗はたんにワルな連中のそれとは違い、「表現力」と「攻撃性」がミックスされたようなもので一瞬に狂気にまで達すると、時限爆弾の信管を抜いたようにさっと冷めてしまうものだったようです。
ブライアンはローリング・ストーンズの中で、最もエリート教育を受けさせられ将来を嘱望されていました。母の望みは歯医者(ブライアンも当初それに異をとなえていません)、父は物理学か化学をすすめていました。名門のグラマースクールで勉強し、すべてが順調のようにみえていました(そういう時には必ず何かが起こるものです)。ブライアンは両親の自慢の子でした。ところが学校ではちょっと事情がちがっていました。ブライアンは帽子をブーメランのように飛ばして破ったり、校則に違反する運動をおこなったり何度も警告をくらっていました。グラマースクールは「規律」第一です。無秩序をうむ反乱分子には罰が与えられるしかありません。ブライアンは級長たちに反乱を企てたとして1週間の停学させられます。が、ブライアンは逆にこれ見よがしで鼻高々です。学校から家に通達され両親は当惑します。ブライアンに詰問しても言葉が通じ合わなくなっています。両親との間に溝ができはじめるのも時間の問題でした。「理想」の息子を演じれば演じる程、自分のうちなる欲求や声を押し殺しているとブライアンは感じていたのです。

ジャズ・クラブに行きだす。15歳でステージでクラリネットを奏する

12歳からはじめていて人前で披露するほどになっていたクラリネットが、ブライアンを思わぬ方向に向わせる「道具」になりました(ギターはすでに12歳の時にかなり弾けるようになっていたようだ)。それはジャズ・クラブに行く方がコンセルヴァトワールの試験よりも価値が上になった時に起こりました。ブライアンは「ジャズ」の自在で甘美なサウンドと、ステージの前にでて激しくソロをとるジャズ・ミュージシャンのステージングに衝撃を受けていました。ブライアンは「忘我の境地」に浸ります。やんやの喝采をおくる観客の反応といったら、これまでに体験したことのないものでした。何もかもが驚きでした。この衝撃を受けた後では、6歳からやっていたピアノはどうにも古くさくみえてしまったのです。クラシカルな音楽がブライアンの嫌いな「制度」や「規則」におもわれてしまったにちがいありません。「ブライアン・ジョーンズ」という、音楽好きで「理由なき反抗心」をもった少年が、ジャズに没頭することを制止することはもはや誰にもできません。
15歳の時、ブライアンはジャズ・クラブにジャズを聴きに行くのではなく、なんとステージの上に立っていました。全身全霊を込めて吹いたブライアンのクラリネットは観客に受け入れられ拍手喝采されるのです。それはブライアンにとって目眩(めま)いがするほどの体験でした。ところがクラリネットを奏していたブライアンの心の内で、この使い慣れた楽器が突如としてまたもや冴えないものにみえはじめてしまったのです。霊感に満ちた「楽器の王様」、ぞくぞくする黄金の煌めき、エロチックなカーブ、そう「サクソフォン」の前ではクラリネットは可愛らしい小鳥でした。

クラリネットを売りさばき、中古のアルトサックスを購入し数ヶ月でものにする

ブライアンは学校ではなんの問題もなく、両親は音楽家だったので、ブライアンがアルト・サックスを欲しがったことに両親にためらいはなかった、とどこかの自伝に記されていますが、決してそんなことはありません。ブライアンは「サクソフォン」に入れ込みはじめると、両親におおっぴらに背き、ピアノとクラリネットの練習をやめてしまいます。そしてついにブライアンは、両親から与えられたクラリネットを売りさばき、中古のアルトサックスを購入してしまいます。両親は猛反対しましたが、ブライアンは部屋に閉じこもってチャーリー・パーカーのレコードを流しっぱなしにし、ソルフェージュと和声でできあがった「耳」で音をコピーしはじめていきました。瞬く間に上達していきました。
数ヶ月後に(16歳)、ブライアンはジャズ・クラブのステージにアルト・サックスをひっさげて立っていました。ソロの演奏になると、舞台の前にすすみでて奏するとそこにはブロンドの”チャーリー・パーカー”がいるのでした。ブライアンの再現力に皆、度肝を抜かれました。周りの皆からすればブライアンは、まるで魔法を使っているように、何をするにつけても3、4年は先にいっていました。
それは父親になることも同様でした。チェルトナムの一流女子校の14歳の女の子が身ごもってしまったのです。ブライアン、16歳のことでした。この年、キース・リチャーズは将来の方向性もはっきりせず美術学校に入学し、音楽の好みがあう生徒と学校のトイレでギターを弾いていた頃です。それ以外はほとんど独りでいる時が多く、テディ・ボーイのようにピチピチのズボンは履いていたものの、女の子に声をかけることなどまったくありえませんでした(が、後にブライアンの彼女だったアニタ・バレンバーグをめぐって、ブライアンとキースは決裂する。アニタはキースの彼女になり、その後、死へ「ダイブ」までの2年間、ブライアンは自分を追い込んでいくことになる)。▶(3)に続く