マルセル・デュシャンの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 誕生後、「女の子」として3歳すぎまで育てられる。芸術に入れこんだ義父のデュシャン家への影響

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はじめに:何か別のものへの「窓」-「大ガラス」

20世紀美術は、マルセル・デュシャンがいなかったら、その展開はおおきく「遅延」したか、コンテンポラリー・アートの展示品の前で観客はあまり悩まなくてすんだことでしょう。すでに20世紀初頭、美術館は巨匠の作品の前に「礼拝」する場所になっていましたが、『泉(便器)』や『自転車の車輪』といったデュシャンのレディ・メイド作品は、そのあまりの革新的、反芸術性、転倒とユーモアで、現代芸術の未来を「啓示」しました。その自由な発想や知性、問題提起は美術界にとどまらず、ジョン・ケージフルクサスアヴァンギャルド・ムーブメントに大きな影響を与えます。
20世紀以降の美術界を揺さぶりつづけたデュシャンは、ある意味、当然ながら美術学校の入学試験では落ちています。マティスの大胆な色使いに驚き、マラルメとラフォルグに入れ込み、「四次元」と「運動」を絵画に持ち込み、また長兄ジャック・ヴィヨンに倣って「漫画」を描いていたデュシャンは、美術界のサークルや運動とは距離を置き、それでも好奇心から何か別のものへひらかれる「窓」を探っていました。しかし、その「窓」が、なんの変哲もなく、窓そのものを生み出している「透明なガラス」だったことは、まさにデュシャンらしいといわざるをえません。ガラスをもちいた大作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁(通称:大ガラス)』は、8年にわたってデュシャンをとらえつづけ、デュシャンはその「窓」から解き放たれてゆきました。
デュシャンの魂はどこからやって来たのか。アーティストを4人も生んだデュシャン家とはどんな家庭であり環境にあったのか。電子の大ガラスの中に、デュシャンの「マインド・ツリー(心の樹)」を描いてみましょう。デュシャンが「発見」した、何か別のものへの「窓」は、わたしたち一人ひとりが「発見」する「窓」に通じているはずです。

誕生後、「女の子」として3歳すぎまで育てられる。母は聴覚障害から独り閉じこもってしまう

マルセル・デュシャン(Henri-Robert-Marcel Duchamp アンリ=ロベール=マルセル・デュシャン;以下、アーティストになるまでマルセルと略)は、1887年7月28日にフランスのブランヴィルの自宅で誕生しました。半年前に3歳になった娘マドレーヌを亡くしていたこともあり、両親は女の子の誕生をのぞんでいて、誕生後すぐマルセルは「女の子」として育てられます。フランスでは19世紀のこの時期、男児であっても幼いうちは女児として育てた文化があったそうです(英国ではオスカー・ワイルドも19世紀半ばに女児として育てらてています。オスカーの場合、文化的土壌ではなく母の願望で、女児が生まれる5歳まで続けられた)。フランスではふつう3歳まで許容されたようですが、マルセルの場合、3歳をこえても髪型や衣装もそのまま女の子として育てられています。
しかもマルセルが生まれた頃には、10歳以上年が離れていた上の兄2人は大きな町ルーアンの学校に行っていて家を離れていたので、妹ができるまでの生後2年間はほぼひとりっ子の女の子のように育てられました。後に兄たちに絵画の面で刺激されるまでは、マルセルは女の子の側の引力に傾いていたにちがいありません。
性格の内の大人しさ、やさしい話し声はそのなかで醸成されたかもしれません。家族の中で最も仲のよかったのは妹シュザンヌで、しかもその下にさらに2人の妹が生まれていたので、少年期は女子の環境にすっかり馴染んでいたはずです。14歳、真剣に「絵」に取り組みはじめた時、最初の題材は、他でもなく妹シュザンヌの姿を中心に下の妹たちの姿だったことはその証の一つでしょう。また25歳にしてデュシャンは<独身者>と言われ、デュシャンは<女嫌い>にちがいないとおもわれていましたが、実際には結婚制度に反対であって、『独身者の機械』や『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)』というタイトルをつけようが、まったく女嫌いなんかではありません。幼少期や妹たちへのつながりを知ればそれはすぐ分かることです。
ところが、幼少期に最も愛情を受け取り、また愛情を感じる母に対しては、まるで事情が異なります。母ルーシーはマルセルが生まれた頃、患っていた聴覚障害は悪化の一途をたどり、ほとんど聾(ろう)状態になっていました。穏やかな性格だった母は、それを酷く苦にして独り閉じこもるようになってしまったといいます。妹たちが生まれても、相変わらず心を開かず閉じこもってばかりの母に対し、マルセルは嫌悪の情すらいだいてしまうほどでした。
兄たちも事情は同じで、情が薄い母に対する甘えの気持ちも何も沸き上がらなかったといいます。見方によっては子供の養育も含め、きわめて無頓着な性格だったようです。こうした事情が、デュシャンのメンタリティに何も影響を与えなかったはずはないはずです。それが陰に陽に、作品のタイトルや志向するものに姿をあらわしたかもしれません。34歳(1921年)の時には、マン・レイとのコラボレーションで「ローズ・セラヴィ/ Rrose Sélavy "Eros, such is life"などの意味」という名のもと、「女装」して作品として写真に写されています。また、40歳の時に一度結婚し(結婚に伴う責任や重荷に耐えかねすぐに離婚)、67歳の時に結婚した女性とは、81歳(1968年)でデュシャンが死去するまで連れ添っています。
さて、そうした母の下、子供たちにとって救いの神だったのは、田舎育ちの気だての良い女中クレマンスがいたことでした。終生(40年以上も)デュシャン家に仕えたクレマンスは、デュシャン夫妻が相次いで亡くなった数ヶ月後(1925年)、悲しみのあまりセーヌ川に身を投じて命を断っています。そうした女性が故郷を離れるまでマルセルの身近にいたのです。

デュシャン家がノルマンディー地方とつながるまで。町の公証人となった父

芸術家(作品の内容ではなく)としてあるマルセルを知るにはマルセルの生育環境を省くことは100%不可能です。そしてマルセルの芸術家としての”根っ子”は、その生育環境からしか生まれでなかったものでした。
父ジュスタン=イジドール・デュシャン(通称ウジェーヌ)は、革命の年1848年、フランスのほぼ中央に位置するオーヴェルニュに誕生しています。4人の子供の末っ子でした。神学校を卒業後、フォンテーヌブローの戸籍登記(徴税)所に就職しています。普仏戦争中には陸軍に入隊し中尉となりますが、ドイツ軍の捕虜となり収容所暮らしも経験します。終戦後は文官になり、26歳の時(1874年)ノルマンディー地方ウール渓谷の町ダンヴィルの税務署に派遣されます。こうしてデュシャン家とノルマンディー地方がはじめてつながることになります。ウジェーヌはその年に父を亡くしますが、新たな人を人生に迎えます。マリー=キャロリーヌ=ルーシー・ニコル(通称ルーシー)です。2人は結婚します。ルーシーはルーアンの裕福な廻漕業者の娘でした。そしてウジェーヌ30歳の時、長男ガストン、翌年に次男レーモンが生まれます。
ノルマンディーに暮らしはじめて5年後、デュシャン一家は同じくノルマンディー地方の小さな町キャニー=バルヴィルに移り住み、そこで娘のマドレーヌ生まれ、数ヶ月後に小さな村ブランヴィルに引っ越します。ブランヴィル村がデュシャン家(父ウジェーヌにとって)の安住の地となり、以降22年間暮らすことになります。ニコル家(妻ルーシー)からの持参金のおかげで父ウジェーヌは公証人の権利を譲り受け、生活基盤も安定します。

絵画と銅版画に入れこんだ母方の祖父のデュシャン一家への大きな影響

小柄だった父ウジェーヌの性格についてフランスの作家ミシェル・サヌイエが次のように記しています。「地に足のついた良識、思慮深さ、分別、誠意、能率の重視、情熱の抑制と論理の尊重、厳格な判断、抜け目のないほどよいユーモア、これみよがしの行き過ぎに対する嫌悪、やりくり上手、暇つぶしを好む、筋道立てて疑問を呈する」と。なんともマルセル・デュシャンの性格に似ているではありませんか。マルセル・デュシャンの芸術もこうしたパーソナリティとメンタリティの心理的空間が準備しますが、それだけではそこから芸術が生まれるのか、パンが焼かれるのか、公証人になるのかは分かりません。まだどんなかたちもとりうるその心理的空間を刺激したのは、母ルーシーの父ニコル(義父)でした。
義父は、廻漕業者として一財産を築くと(ルーアンがフランス第五の港町に発展する運にも恵まれた)、自身は商売から身を引き、なによりも好きだった絵画と版画の途に向ったのです。彫版師として銅版画も数多く制作しています(義父が彫版師であったことは後にマルセルが印刷技術に通じる契機となり、初期作品の要となる)。ルーアンの風景画は高く評価され、版画もパリ万博美術部門(1878年)に展示されています。マルセルの生まれる10余年前には母ルーシーも絵を描いていましたが、結婚後は手近な陶器類(ストラスブール陶器)に絵を描いたり図案をほどこしたりしていたといいます。
父ウジェーヌは子供たちには寛容でした。長兄ガストン(マルセルより12歳年上)と次兄レーモン(11歳年上)には、神学か医学、法学のどれかの途にすすみ上流社会をめざして欲しかったようですが(実際に、ガストンはソルボンヌ大学法学部に、レーモンはソルボンヌ大学医学部に入学)、芸術への思い醒めやらず、美術学校に通いだしています。長兄と次兄ともその少年期に、義父ニコルからの大きな影響を拭い去ることはできなかったのです。
デュシャン一家の芸術好きは、父からではなく、母方の祖父(義父)からきたものでした。デュシャン家には祖父の彫ったルーアンの風景の銅版画が何点か飾られていました。長兄、次兄、さらにマルセル、妹のシュザンヌと、芸術に感染させるとは、義父の「マインド・ツリー(心の樹)」は、よほど大きく魅力的なものだったにちがいありません。もちろん子供たちに受け継がれた性格や資質があってのことですが。6人の子供の内、4人までもが芸術の道にすすんでいることを考えれば(父にとっては不運)、義父の影響力の大きさがわかります。

10歳の頃、一番の得意科目は数学だった。幼少期から家でチェスをしていた

8歳の時、マルセルは長兄ガストン(20歳)の絵を見た時、そのスケッチ力に感動したといいます。この頃、ルーアンのリセ・コルネイユで学び終えソルボンヌ大学法学部で勉強していた頃でした。10歳の時(1897年)、マルセルは兄たちの先例にならうように実家を離れリセ・コルネイユに進学し、まかないつきの下宿に住むようになります。リセ・コルネイユでは、ラテン語からギリシア語にはじまって、ドイツ語、修辞学、哲学、歴史、数学、科学を徹底的に詰め込まれ(ドイツのギムナジウムのようである。ちなみに日本では1872年-明治5年、日本で最初の学校制度「学制」は、フランスの「学制」にならったものだったが明治12年初代文部大臣・森有礼が公布した「教育例」にとって代わられる)、とりわけ「権威」を尊重するように厳しく仕込まれます。
このリセ・コルネイユは17世紀にイエズス会の神学校として開校していて、フロベールモーパッサン、コロー、コルネイユも学んだよく知られた学校です。マルセルの一番の得意科目は数学でした。15歳の時には1等賞をとっています。デュシャン家は「チェス」も皆でよくしていたので論理的思考に向いていたのでしょう(そして後に公には芸術活動をしなくなったマルセルはチェスに没頭しますが、それは少年期の延長であり拡張のようなものです)。それ以外マルセルは全般的には飛び抜けて優秀な生徒というわけではありませんでした。どうやら勉強する努力は進級ができる程度にとめおき、興味の向くもの、たとえば油絵などに、意識を振り向けていたようです。この時分から、行動はひっそりとしていて素行は落ち着いたものだったようです。▶(2)に続く