エゴン・シーレの「Mind Tree」(3)- 19歳の時、ゴッホの芸術観から”啓示”をもたらされる。少年シーレ「自画像」に目覚める。シーレが「樹木」の絵を多く描いた理由

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19歳の時、ゴッホの芸術観から”啓示”をもたらされる。少年シーレ、「自画像」に向う

▶(2)からの続き:ココシュカがゴッホに魂を貫かれてから3年後。シーレも19歳の時、ウィーンで開かれた大規模な「国際美術展、ウィーン1909年」で、シーレもゴッホの作品を生で見ます(11点展示)。ゴッホの外観を突き抜け(魂の)深みに達しようとする個性的な表現力と芸術観はシーレに衝撃をもたらし、”啓示”となります。ゴッホのざっくりとした光と闇を含み込んだうねるような筆触は、シーレの居間や花畑の筆致に幾らか反映されていきますが、それ以上にゴッホの「自画像」はシーレに深く訴えたにちがいありません。この年、すでにゴッホはこの世にはいません。シーレがこの世に誕生したちょうど1890年に37歳で世を去っているのです。
シーレが本格的に「自画像」を描きはじめたのは、ゴッホに衝撃を受けた19歳の時なのです。そして19歳の半ば過ぎからシーレは次第にクリムトの影響下から脱っしはじめます。自分自身にまったく関心がなかったクリムトは自画像を描かなかったことを考えれば、方向舵を切ったその時期に、シーレが「自画像」に向ったのも頷けます。
興味深いのは「鏡」です。全身を映し出す扉ほどもある木枠の「鏡」は、シーレがウィーン2区クルツバウアー通り6番地にアトリエを構えた時に、母に頼み込んで与えられたものでした。つまり、シーレが「自画像」に取り憑かれはじめる2年余り前には、すでにその大きな「鏡」はアトリエに置かれてあったのです。にも拘らず、少年シーレは「自画像」を描き出してはいなかったです。15、16歳の時に、丁寧な筆致でそれぞれ何枚か描いていますが、それはアトリエもまだない頃で、静物画や風景画、肖像画と同じように学校での課題で描いたもののようです。大きな「鏡」をアトリエに持ち込んだ17歳の時にも「自画像」を描いてはいますが、数も少なく胸から上部だけで、裸の自我が剥き出しになるような「自画像」ではありません。

18歳から19歳にかけ、少年シーレのなかで<統合>されたものとは

ウィーン美術アカデミーの権威と因習に辟易しクリムトを訪れ、「ウィーン工房」で仕事をしはじめた18歳の時から19歳までの2年間をとってみただけでも、様々な表現スタイルの模倣や影響、探求や冒険が、時を空けずに同時多発的に生じていきます。これはマルセル・デュシャンが『階段を降りる裸体』を生み出す前の2年間にデュシャンの「マインド・イメージ」に、内側からまるで「鏡」のようにゆらぎながら次々に映しだされていった様子とよく似ています。体験され、記憶され、イメージされていたものが「鏡」と化した「マインド・イメージ」で<統合>されるのです。まさに発生的認識論を説いたジャン・ピアジェが、「創造的な偉大な人のもっとも重要な方略というのは、幾つかのことを同時進行させるということです.....ある程度類似した仕事が、それぞれが独自の特徴をもってある方向に進んでおり、時おり、統合を試みようとするのです」(『ジャン・ピアジェ-21世紀への知』西田書店 白井桂一編著)と言ったことに当たる時期だったといえます。
少年シーレの内で<統合>されたものとは何か。

クリムトの大きな影響。見る者の注意を引き、一瞬にして衝撃を与えるポスターでもちいられた大胆さを凝縮した描法。カリカチュア(風刺画や漫画、戯画の類)からの影響(自画像で、身振りの大袈裟で、コミカルにして戯画的な要素がこれにあたる)。ココシュカの壊れそうな裸像やねじれたフォルム。また自身が履いていた人目を引く靴や長いマントなどの風変わりな衣装への意識。ココシュカとともにウィーンの新たなトレンドとなる表現主義(Expressionism)を生み出していたマックス・オッペンハイマーの描出力。美術アカデミーで一緒に学びゴッホを見てから激烈な反クリムト者になり自画像に向かったゲルストルの自殺。さらにはゴッホからの啓示とベルギーの彫刻家ジュルジュ・ミンネが彫りだしていた”骨張った四肢を持つ痩せた人物”が問いかけていたもの。そして世紀末ウィーンから続いたままの時代の極度の不安感と貧困の根深さ(多くの病める存在の徴候に気づきフロイト精神分析を打ち立てたのもここウィーンでした)。

そしてもう一つ重要なことはシーレの人間観にかかわることで、シーレは人間とは「魂」と「性器」(身体全体でなく)を併せ持つ<性的存在>と考えていたのです。それが芸術から遠い他者からは、”ポルノグラフィー”とみられる状況を生んでしまうのですが、シーレが描こうとしたのは、<nude=エロティシズム>でなく、<naked=セクシャリティ>だったのです。(『エゴン・シーレ坂崎乙郎著 平凡社)。しかも赤裸々な裸の魂があらわれでる<naked=セクシャリティ>だったのです。アトリエの「鏡」に映し出された、自身の<naked>な姿に、少年シーレは全身で感じ取ったものを<統合>していったのでした。

衣類は叔父の使い古しだった。シーレが「樹木」の絵を多く描いた理由

アトリエを構えた頃、少年シーレは、まったく犬のように惨めだったといいます。後見人の叔父の意見に反対したものの、その時着ていたものといえば、その叔父が着古した洋服に、これまた叔父の靴と帽子で、全部がサイズが合わずだぶだぶだったといいます。歩く度に裂けた靴は音をたて、靴下には大きな穴があき、唯一、父の遺品だったワイシャツのカラーもサイズが合わず、自分で白い紙を切ってカラーをつくっていたほどでした。つまり、<naked>の自分の身体だけが、自分自身であり、他人に晒されている身体を覆う衣装は、そのほとんどが叔父が着古したものだったのです。
これは少年シーレが自身の裸の身体に強いこだわりがあった一つの理由にちがいありません。真逆に、クリムトがレースやひだ飾りや流行のドレスを着た華麗な婦人像を多く描いていたことをおもえば、クリムトから脱出した少年シーレが、身体の描出において独自のスタイルを生み出したのも当然ともいえます。しかしそれにしても、まるで血液が抜かれたように木の枝や節のように鋭角的なごつごつした裸の身体はいったいどうしたことか。シーレは、外に出た折りには、樹木や水の物理的な動きを観察しながら、「そこに人体に似たような動きや、また植物の喜びと苦悩に似た衝動を思い起こさせられる」と語っています。シーレの魂の容器である<naked>の身体の手足や胴体、関節、踝(くるぶし)などに、「樹幹や枝」の様相を感受したのです。シーレの描く<naked>の身体が「生きたまま死んでいる」かのように見えるのは、「死」を年輪として樹皮に堆積させ中心部に「生」を貫かせる「樹木」に<naked>の身体を見立てたからでした。シーレは1909−1910年にかけ、乾涸びた<naked>な身体のように見える「ひまわり」を描きだし、その後も「動く大気の中、秋の樹木」「冬の樹」など、1911年から3年間にわたってシーレは樹木(のある風景)をさかんに描いていきました。▶(4)に続く-(未)