エゴン・シーレの「Mind Tree」(2)- 美術アカデミーへの不満と深まる鬱屈、17歳の時、クリムトに素描を見せる
美術アカデミーへの不満と深まる鬱屈、17歳の時、クリムトに素描を見せる
▶(1)からの続き:念願のウィーン美術アカデミーに入学したシーレでしたが、シーレはキャンバスに向うのではなく、ここでも旧弊な壁に向うことになります。シュトラッホ先生の師であって美術アカデミーの担当指導教授グリーペンケルルの指導理念はあくまで伝統墨守、少年シーレは神経が逆立つばかりでした。対する教授グリーペンケルルも「お前は悪魔が私の教室に送ってよこした学生だ!」と罵声を浴びせます。シュトラッホが南アフリカからマダガスカル、インドのボンベイに旅する放浪の画家となったのと何か関係しているのかもしれません。ともあれ学校教育に抑圧されてきた少年シーレが、好きな絵だけに熱中できるとおもっていた夢は、見事に粉砕されました。自分を解放してくれるはずの美術の世界も、学校の頑迷な教育体制のように権威と保守で成り立っていることがわかったのです。ギリシア彫刻の美こそ至上のもので、自然の美や個々の表現方法が教えられる場所ではなかったのです。ウィーン美術アカデミーは、世界の新しい動向にはまるで無関心をきめこむウィーン美術界の”古城”だったのです。革新的テーマや表現スタイルが内部から生まれでることはまず不可能でした。それほどアカデミーの壁は厚かったのです。
入学翌年の17歳の時、不満と鬱屈が深刻になっていた少年シーレは、クリムトを訪ね、素描を差し出し、批評と助言を求めました。クリムトは45歳で、ウィーン美術界の名士的存在になっていました。ただクリムトは美術アカデミーの保守の画壇に君臨する存在ではなく、遡る10年前(1897年)、クリムトは自身が代表となってウィーン分離派を誕生させていたのです。分離派(セセッション)とは、アカデミズムからの分離・脱退を意味します。このウィーン分離派は、1890年代、パリで巻き起こったアール・ヌーヴォー(ユーゲントシュティール)の動きに呼応し、ミュンヘンやベルリンで結成された分離派に連動してもので、常設展示館に観衆を呼べるほどの勢いをもちはじめていました。
少年シーレの素描を見たクリムトは、「君は私よりよく知っているではないか」と返したといいます。異常な才能に対する率直な感想だったのでしょうか。激励をもらった少年シーレは、ますますアカデミーに反感を覚えるようになり、ウィーン2区クルツバウアー通り6番地に自身のアトリエを構えました。汚れた壁を連日、「白」で塗りつぶしなんとかかたちにした少年シーレは、クリムトの連作「水蛇」(1904〜1907)に感応した作品「水の精 I」(1907)を描きはじめます(「水の精 П」1908)。クリムトの艶やかな官能性に対するシーレのごつごつとした輪郭をもつ不安に駆り立てられたエロティシズム、その鮮やかな対称性(相似性と異質性の両者を含む)がよく顕れた例としてつねに引き合いに出される両作品です。
クリムトが「ウィーン工房」に紹介する。美術アカデミーを去り「新芸術家集団」を結成
「水の精 П」を描きあげた18歳の時、少年シーレはクロスターノイブルグ尼僧院で開催されたグループ展にはじめて参加します。この時、美術蒐集家ハインリッヒ・ベネシュが目をつけています。そして同年、クリムトは少年シーレを革新的な時代の動きを感じ取ることのできる「ウィーン工房」に紹介しています(工業デザインの前衛的ワークショップがおこなわれていた。シーレはデザインの仕事に参加)。「ウィーン工房」は、ウィーン分離派の重要な活動拠点になっていてウィーン美術界で影響力を発揮しはじめていた頃でした。もともと英国グラスゴーのマッキントッシュ、ロンドンのアシュビーなど英国のデザイン・ムーブメントに刺激されて、ウィーン美術工芸学校で教えるヨーゼフ・ホフマンがリーダーとなって1903年に設立されたのですが、国際美術展の会場になるなど英国の元々の工房よりも広がりのある目的と展望のなかで運営されていました。
翌年(1909年)、少年シーレは旗ふり役となってグリーペンケルル教授のクラスの学生たちと反乱をおこし、「芸術作品の質は美術アカデミーのみによってしか判定され得ないのか」など、13項目のラディカルなアカデミー改革案を起草し美術アカデミー側に提出します。が、堅牢なアカデミー側はこれを頑として突っぱね、シーレたちは自主退学か、もしくは放校処分となるのは避けられない状態になります。シーレたち反乱者はアカデミーに見切りをつけ門を去り、独自に「新芸術家集団」を結成します。
人間の”根っ子”にあるものを独自の”フォルム”で表現すること。先駆けたココシュカの作品
じつは20世紀初頭、ウィーンでの反乱者は少年シーレたちや分離派のクリムトたちだけではありません。とにくシーレより4歳年上のオスカー・ココシュカはその先駆で、ウィーン美術界で「恐るべき子供」と呼ばれていました(当初は詩人であり装飾美術家だった。1910年には表現主義の雑誌「シュトルム(嵐)」を発行)。クリムトも、”魂”が深い闇からせり上がり、人体がねじれデフォルメされた表現に、新たな時代精神の魁(さきがけ)を感じとっています。人間の”根本”にかかわるココシュカの「表現主義」は、死に包囲された恐怖と不安、孤立感、そして自身は無力で”根無し草”である、というその時代を呼吸した者たちが抱く”共感覚”を背景にもっていました。
少年シーレの「マインド・ツリー(心の樹)」は、その”共感覚”を土壌にしています。シーレの「裸の樹」や「冬の樹」(1912)などはそうした”共感覚”から生まれたのかもしれません。シーレはココシュカを眩しく感じ、自分との異質性を感じ取るまでは良き手本となっていたことでしょう。シーレもココシュカに次いでクリムトの装飾的スタイルから離反していくのです。少年シーレを刺激したココシュカについてもう少し立ち入ってみましょう。シーレも一個の突然変異体ではないことがわかるからです。ココシュカは、早々と様式化された伝統的手法を捨て去っていますが、”魂”が感じとった感覚、人間の”根っ子”にあるものを独自の”フォルム”で表現することができることを、彼はヴィンセント・ファン・ゴッホから感受していました。ココシュカは1906年にウィーン・ミートケ画廊で開催されたゴッホ展(45点展示)で、生のゴッホの絵を見ています。そして人間の皮の内側、神経組織に達するほど、また”魂”の領域にいたるまでに、絵画で人間の精神状態を表現することができることを認識するです。1908年に開催された「第一回国際美術展」(翌年、シーレはクリムトに招かれ出品)で、ココシュカは裸の自我が定着されたような連作「夢見る少年たち」を出品しています。神経が顕われて目で見えるようになったかのように描かれたサーカスの子供たちのヌードは、<壊れそうな人形>のようなシーレの裸像を先取りしているといっても過言でありません(ココシュカは、身振りのデッサンを得るためモデルになってもらった貧しいサーカス劇団の子供たち自由に飛んだり跳ねたりしてもらっている)。ココシュカがサーカスの子供たちを描いたのは、民俗(民族)学的で、原始的で、子供の経験世界や社会的アウトサイダーへの関心は、20世紀初頭にさまざまな領域で関心が高まっていたこととも符牒しています。
この「夢見る少年たち」はシーレも参加することになるウィーン工房から、ココシュカ自身の詩とリトグラフからなる本となって出版されます。この本の装飾にシーレはヒントの一つをもらったのかもしれません。シーレが直後に描いた「水の精П」(1908)に繋がるものがみられます。ココシュカはウィーン美術工芸学校で学んでいますが、その学校はクリムトの出身校で、ウィーン分離派の創設者の一人F.ミールバッハが校長になっていました。じつはシーレも初めはウィーン美術工芸学校に入学する予定にまでなっていました。しかしデッサンの抜群の才能と美術への一途さを見込まれてウィーン美術アカデミーを薦められたのです。もしウィーン美術工芸学校に入学していたら、アカデミーの改革要求案の起草も退学もしなければ、「新芸術家集団」を結成することもなかったはずです。16歳の時の少年シーレは、叔父が要請した技術専門校ではなく、美術工芸学校でもなく、純粋に美術だけができる美術アカデミーへと、と突き進んだのです。しかし美術界は、シーレが入学した美術アカデミーの壁の外側で、激しく動きはじめていたのです。▶(3)に続く