マルセル・デュシャンの「Mind Tree」(3)- ジュール・マレーの高速度撮影からインスピレーション。ラブレーとジャリが、デュシャンの”神様”だった

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18歳の時、「マティス」を”発見”する。セザンヌの影響のこと

▶(2)からの続き:18歳の時(1905年)、デュシャン(以降、デュシャン、あるいはM.デュシャンと表記)は、サロン・ドートンヌで「マティス」を”発見”します。赤や青でべったり塗りわけた鮮烈な色彩は、ドランやヴラマンクらと「野獣派(フォーヴィズム)」と呼称されていました。しかしデュシャンは「フォーヴ」の創始者が別の方法を試みるようになった3年後に、ようやく自分なりにその配色を試みています。しかもまだこの頃にはボナールのような後期印象派の穏やかな調子のなかでマルセルは微睡(まどろ)んでいます。なぜならデュシャンは着実に「挿絵画家」への道に向っていたからでした。「マティス」を”発見”した2年後(ちょうど20歳になった頃)にも、「嘲笑」誌が催した「第一回ユーモア画家美術展」にデュシャンは嬉々として素描作品を応募しています。そして見事5点入選をはたしています。アパートで毎年のクリスマスパーティで大騒ぎして大家から立退きを命じられたのもこの頃です。立退きされた間借人は半年間は同地域で部屋を借りれないため、デュシャンは兄たちが住むピュトーの近く、ヌイイにに移り住みます。デュシャンはまだこの頃、仕事から引退して暮らしていた父から毎月150フランを受け取り、時にノルマンディー沿岸にある父の小さな別荘を訪ねたりしています。
セザンヌが亡くなった(1906年)翌年に催された回顧展で、ピカソら多くのアーティストたちが新しい世界の到来を感受していました。デュシャンセザンヌは別の世界の住人のように思えますが(またデュシャン自身、セザンヌの影響を否定する発言もしていますが)、実際には2年以上もセザンヌの木霊(こだま)が鳴り響いていたことを認めています。1910年に描いた父の肖像画(初期の最高傑作といわれる)はその影響圏から生まれ落ちたものでした。同年、「デュムーシェル博士の肖像」を描いた時には、目に見えない知覚であるエックス線(レントゲンが1895年に発見)を光輪として描きだしています(次兄デュシャン・ヴィヨンが神経科と精神科専門のパリのサルペトリエール病院で研修医を務めた折りにエックス線研究の先駆者の一人と付き合いがあり、その辺りからデュシャンは情報を得ていた様)。そしてこの頃、デュシャンの絵をイサドラ・ダンカンが友人への贈り物として購入したり、詩人にして評論家ギヨーム・アポリネールアンデパンダン展に出品されたデュシャンの裸体画に目をとめています。
しかし、翌年、3回連続サロン・ドートンヌに入選し「会員」資格を得たデュシャンですが、再び、評論家もデュシャンの作品に触れなくなります。デュシャンは展覧会のある日にはヌイイから出て来て、友人らと(ドイツ人画学生マックス・ベルクマンもいた)ダンスホールに繰り出し、ピガール通りの売春宿でその日を締めくくっていました。デュシャンはすでにこの頃、芸術家になるならば、いろんなものを押し付けられる結婚は避けなければならないと考えはじめていたといいます。

自家製のキュビズムを手がけるが、うまくいかず。ピカソの新作を見に画廊に出向く

24歳(1911年)の時から、デュシャンの動きや思考、作品制作と探索は、高速度撮影しなくては捉え切れなくなっていきます。この年、M.デュシャンはおそまきながらピカソやブラックが創始していた「キュビズム」の理論をキャンバスに取り入れはじめます。「一つの絵に複数の視点を持ち込み、対象を異なる角度から同時に捉えて描写する」キュビズムの理論は、絵画空間の奥行をも消失させフラットに仕立てあげてしまうため従来の描写方法をすっかり転覆させてしまうものでした。まさにピカソのアトリエ「洗濯船」の名前のごとく、伝統絵画を”洗濯”して晒(さら)すほどの衝撃があったのです。M.デュシャンは控(ひか)えめな性格そのままに、「キュビズム」を控えめに自分自身のやり方で試みはじめます。ヌイイの通りで見かけた声も掛けたことのない犬を引き連れた女性の歩く姿と変化を捉え、その高慢そうな女性を裸にしてキャンバスに描きだしました(この面では控えめではありませんが)。が、自家製のキュビズムはうまくいきません。M.デュシャンピカソとブラックの新作をカーンワイラー画廊に見に行ったりしています。
カーンワイラーに模倣者と誹(そし)らした後続の若手キュビストたち(メツァンジェやレジェら41号室グループ)でしたが、「キュビズム」は新たな美術への突破口になると考えていたたのです。ジャック・ヴィヨン、レーモン・デュシャン=ヴィヨン、そしてM.デュシャンもそのグループに加わり、ピュトーにあるジャック・ヴィヨンの部屋に集まるようになります。M.デュシャンはこうした会合の場でも控えめでずっと聞き役でした(この頃、次兄のレーモンを英雄視ししていて、自身はあくまでデュシャン兄弟の3番目の存在でありつづけた)。
さてここで前回の積み残しの「四次元」のコンセプトが登場することになりますが、もし「四次元」のコンセプトだけに囚われていたならば、H.G.ウェルズの亜流の作家になるしかなかったでしょう(20世紀の最初の10年間は、H.G.ウェルズが著したような空間と時間を超越した「宇宙的な」次元という考えが人々の心に棲み着きはじめる)。M.デュシャンは美術への興味から出発していたので、視覚(あるいは網膜)の問題系への関心が底流にありました。その頃、M.デュシャンは網膜(目)ばかりでなく知性と精神にはたらきかける美術作品の可能性を追っていたのです。つまり「反・網膜」の美術の探求で、その手段として「四次元」の理論に関心を抱いたのです。メツァンジェがピュトーでの集いに連れて来た食わせ物のプランセ(保険数理士だった)が皆の前で「四次元」について語りましたが、M.デュシャンはここでも仲間たちの理解からは微妙にズレていきます。あるいはアイロニー諧謔で返します。ピュトー派のキュビストたちが思想家アンリ・ベルグソンの「創造的進化」をその美学原理に仕立てていましたが、この面でもM.デュシャンは「変化があるから生は面白い」というように、ベルグソンのエッセンスを手品のように自分の感性や作品に適応させていきます。ニーチェに関してもそうですが、デュシャンはわざわざ著作物を読まないようなのです(デュシャン的読み方とは応用的読書術なり)。そしてデュシャンは数人の友人と行き来する以外、ヌイイのアトリエに独りこもって作品に向っていきます。時に2週間も誰とも顔を会わせずに「何か別なものへの窓」を探求していくのです。そこからデュシャンはチェスをする者の<心の中で展開する精神活動や思考>を描きだしました(「チェスをする人々」)。それは前年の「チェス・ゲーム」とはまったく異なる種の作品だったのです(上のYoutube中に「チェス・ゲーム」と「チェスをする人々」が登場します)。

ピカビアの「否定の精神」と、ジュール・マレーの「動体記録連続写真」からのインスピレーション

同年(1911年)の秋になると、「否定の精神」の体現者フランシス・ピカビア(父はキューバ人、母はフランス人)と出会いデュシャンの精神と作品は、さらに先鋭化していきます。どんな美学理論も嘲笑するピカビアのニヒリズムは、一皮剝けば細部にこだわるM.デュシャンの気質に合致すると、とんでもない効果をだしはじめたのです。1912年になると『階段を降りる裸体』を見たピュトー派の仲間は、キュビズムの美意識を茶化しているとしてタイトルの変更を迫り、デュシャンアンデパンダン展の展示から作品を下げています。この一件で、デュシャンは美術グループとは決別していきます。
『階段を降りる裸体』が発想され制作された経緯には、ユーモアと皮肉まじりの挿絵画家だったデュシャンにしてはじめて手がけることができたものだということがよくわかります。つまりM.デュシャンの「マインド・ツリー(心の樹)」の”茂み”のなかから”誕生”したといっても過言ではありません。その経緯を少し追ってみましょう。1911年の最終月、デュシャンジュール・ラフォルグの詩の挿絵の連作を描いていました。その内の1点に「なお、この星に」というタイトルを付け、描いた3人の一人に上方に向う感じをだそうとちょっとした階段を上らせたのです。その時です。ユーモアと皮肉の精神がM.デュシャンのなかで囁(ささや)いたのです。「階段を降りさせてみよう」と。そしてその時、その年に犬を散歩させている高慢そうな女性を想像のなかで再び裸にして(実際にその女性だとは特定されませんが)、その動きと変化を描いていた記憶がフラッシュバックし、さらに、「自然」誌か「イリュストラション」誌ですでに見ていた高速度写真撮影ー「動体記録連続写真」の記憶も<同期>したにちがいありません(「動体記録連続写真」はパリの生理学者のエティエンヌ=ジュール・マレーが1882年に発明し記録した写真で、フランスの大衆雑誌にはかれこれ20年以上も前から度々、男や女、動物の動きの連続写真が掲載されていた。その成果がM.デュシャンによって美術作品に取り込まれるまで30年弱が経過していた)。
M.デュシャンの「マインド・ツリー(心の樹)」の”茂み”は容易には”口”を開きません。キュビズム創始者の一人ピカソが理論は何も説明せずそれが功を奏し、デュシャンは喋りすぎるよりも喋らない方が良いことに気づいたためでもありました。そして作品制作においても、とにかく「切りつめる」ことに徹していきます。同時に、「動体記録連続写真」で心が感光したにも拘らず、外ではなく「内」に向っていきます。未だ見ぬ「像」が露光されるのは、「感光板」上ではなく、デュシャン自身の「マインド・イメージ」上だったのです。作品中に描かれた螺旋階段は、デュシャンの幼年期に自宅にあったものと言われますが、「階段」をイメージした時に、俄に記憶の底から湧き上がってきたものだったのでしょう。作品に動きを取り入れる考えのきっかけになったという「動体記録連続写真」は、「車中の悲しい青年」(1911年)で一度企図されています。”車中の悲しい青年”とは、仲の良かった妹シュザンヌが結婚してしまって悲しんでいる”自分”のことで、ジュール・マレーのように実際の対象を撮影したものでないことは、あらためて「マインド・イメージ」のなかで企てられたことを意味します。『階段を降りる裸体』が、連続的に20回程ずらした、まるで器械(ロボット)のような裸体が階段を降りる姿が描きこまれても、それはM.デュシャンの精神活動の産物なのです。「マインド・イメージ」上に露光された精神活動の産物たる「像」が、「外」にリフレクト(反射)され「定着」されたものだけが「作品」となります。

ラブレーとジャリが、デュシャンの”神様”だった。<人生>を芸術に”変換”させること

M.デュシャンの精神活動は2人の”神様”(デュシャン自身の言葉)からエネルギーを注入されています。2人の”神様”とは、教会や既成の権威を風刺し禁書とされた『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』を著し迫害を受けたフランソワ・ラブレーと、『ユビュ王』や『超男性』など芝居と小説で、諧謔と荒唐無稽な不条理を描いたアルフレッド・ジャリでした。デュシャンが「反芸術的」であり、「文学的」(ことに作品の表題)であったのはこの反映でもあったのです。デュシャンには、ラブレーとジャリに相当する”神様”のような芸術家はいませんでした。
また、デュシャンジュール・ラフォルグマラルメ、レーモン・ルーセルから得るものがあったことは何度も認めていますが、ジャリの『超男性』のそのすべての頁からイスピレーションを得ていることー「驚き」の効果を好み、新しい「素材」で、新たらしい「方法」で、誰もが考えることのない先へ出たいという強烈な欲求を促し、架空の人物に<変身>してしまうことーその結果、人生と芸術の境界が消滅してしまう地平に向ったことは、どうやら慎重に避けています。<人生>を芸術に”変換”させることこそが、権力が行き渡った世の中で(『ユビュ王』の中ではユビュが権力を掌握している)、”正気”を保つ唯一の希望であるという、ジャリのメッセージがM.デュシャンに谺(こだま)します。自身が女装した姿「ローズ・セラヴィ」をマン・レイが撮影したのは、8年後の1920年のこと。しかし、マン・レイはその前に、20世紀美術界の大問題作『大ガラスー彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』の撮影にとりかかることになります。▶(4)に続く-(未) 参照文献ー『マルセル・デュシャン』カルヴィン・トムキンズ/木下哲夫訳 みすず書房 2003年