ダライ・ラマ14世の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 現在の中国の青海省下、小さな村の自作農家の9人目の子供として生まれる 

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はじめに:転生する「ダライ・ラマ」ーマインド・ツリーは一個人だけのものではない

チベットの国家的、精神的指導者であるダライ・ラマ14世については、各々知ってられるとおもいますが、その幼年期や少年期についてはなかなか知る機会はないかと思います。その様相を知るに及ぶと、チベットと中国の緊張関係や、その経緯、また中国の青海省四川省などにあるチベット人居住区のこと、インド北西部ダラムサラにある中央チベット政権 CTA (Central Tibetan Administration)のことなどが、知らず知らずにつかみやすくなってきますので、ぜひ一読してみてください。
ダライ・ラマ14世の「マインド・ツリー」は他の人のケースとはかなり異なります。大きな理由は、チベット及びチベット仏教を信仰しているネパールやブータン、モンゴルなどが認めている「輪廻転生制度」であり、魂は滅びることなく永遠に継続すると考えているからです。よってダライ・ラマ14世の「マインド・ツリー」は、この時点ですでに、少なくとも1世から13世までの少なくとも13人の「マインド・ツリー」が継承され含み込まれているからです。
この「マインド・ツリー」は、まさに映画「アバター」に描かれた聖なる樹のようにその土地に根付き、人々をつなぎ、導いているのです。また同時に、この「輪廻転生」によれば、ダライ・ラマでなくとも、個々の「マインド・ツリー」は、各々の「心の樹」が決して一個人で終わるものではないことを示してくれるのです。樹木が再び、種から花を咲かせ成長するように、人の魂も連綿と続くものであることを、「転生者」ダライ・ラマは身をもって証しているのです。つまりは、人の「心の樹」は、家族や生育環境、生まれた土地柄、周囲の人間関係だけで成っていくものではないことを知らしめますが、同時に現世においてさまざまな関わりのなかにおいて、やはり成長していくものであることも教えます。
ダライ・ラマ」の称号は、3代目ダライ・ラマとなるソナム・ギャツォ(16世紀)が、モンゴルのアルタン・ハーンに招かれた時に与えられた”モンゴルの称号”で、「大海」を意味するものです。そしてダライ・ラマ5世の時も、モンゴルが関係してきます。チベットとモンゴルの関係は政治的なものへと発展し、モンゴルの部族王グシリ・ハーンの支援で、ダライ・ラマ5世は宗教的指導者だけでなく初めて政治的にもチベットの最高権威になるのです。このことは、「ダライ・ラマ」の「マインド・ツリー(心の樹)」の”根”の先が、遥か彼方の時空に向ってのびているばかりでなく、山々と大地、そして草原を貫く現実世界の”根”も併せ持ってきたことも知らせてくれます。

現在の中国の青海省下、小さな村の自作農家の9人目の子供として生まれる

ダライ・ラマ(Dalai Lama)14世は、1935年7月6日(チベット暦5月6日)、チベットの東北部ド・カムという地方にあるタクツェルという小さな村(現在の中国の青海省)に生まれています。両親は9人目の子供(年齢は大きく離れた姉妹2人と兄弟4人がいた。3人は幼少時に亡くなっている)として生まれたこの男の子に、ラモ・ドンドゥプ(Lha-mo Don-'grub;以下、ダライ・ラマ14世の幼少から少年時代にかけ、ラモと表記)という名前をつけます。その意味するところは「願いを叶えてくれる女神」でした。ラモの母は、生涯になんと16人の子供を生みますが、うち9人は幼少時に亡くなっています。そうした状況からも、9人目の子供に、「願いを叶えてくれる女神」とつけたのかもしれません。しかし、その願いは、一家の願いだけにとどまらず、すべてのチベットの人々の願いを託すことになる人物になることは想像もつかなかったにちがいありません。歴代のダライ・ラマの「転生者」は、観音菩薩の化身とされています。観音菩薩は悟りを得たのちも涅槃に入らず、衆生を救済するために転生することを願った存在です。「願いを叶えてくれる女神」という名のラモ・ドンドゥプとは、まさに観音菩薩だったのです。
ラモ・ドンドゥプが生まれたタクツェル村一帯のほとんどの家が小農家族だったように、ラモの家族も農業を営んでいました。数頭の馬と80頭のヤギと羊、2頭のヤクなどを飼い、庭では野菜を栽培していました。種蒔きや収穫時には数日間は15人以上の人手でおこないーそれは村に代々つづく相互援助の習慣でーその謝礼は穀物現物で支払われていました。母はラモを背負って畑仕事に行き、地面に打ち込まれた棒杭に離れないようにくくりつけ、こうもり傘をひろげその下に眠らせていました。
ダライ・ラマ14世の生家はチベットならばどこにでも見受けられる農家でした。貴族や金持ちではなく一般的な農民の出身であったことをダライ・ラマ14世はよろこばしいこととおもってきたといいます。自らがそうだったことで、低い階層のチベット人たちのこと、暮らしのこと、感情や考えを充分理解することができるからだと語っています。

シカ、サル、クマ、キツネとともに暮らした幼年期

ラモ少年の祖先はもともと中央チベットに暮らしていたといいます。今から数百年前に、中国と接するチベット東北部の国境を守るためにチベット軍が配置された時、中央チベットのペムポから来た守備隊がド・カム地方に駐屯しました。その守備隊とともにやって来たのがラモ少年の先祖だったといいます。タクツェル村がある辺りは、標高2700メートルの小さななだらかな高原になっていて、大空を映しだす美しく澄んだ泉があり、そこから流れでた水は幾段もの滝となって落ちていきます。山の斜面にはモモやスモモ、クルミやいろんな種類のイチゴもなっていました。祖先はこの楽園のような土地が気に入り居着いたようです。14世が生まれた20世紀になっても、この一帯は、香(かぐわ)しい花が咲きみだれ、空には多くの小鳥が飛び回り、野生のロバやシカ、サル、クマ、キツネ、ヒョウなどが人を恐れることなく歩き回っていたとようです。仏教徒は無闇に生き物を傷つけることはしてこなかったので、生き物たちも安心して同じ高原を住処(すみか)としていたのでしょう。
14世の祖先がこの地に住みはじめたちょうど同じ頃、チベットの偉大な宗教改革者になるツォンカパがこの地に建つカルマ・シャル・ツォン・リド寺院に、いち僧侶として仏門に入っています。その寺院は、チベットのにおいて認められた最初の化身者となったカルマ派第4世転生者カルマ・ロルパイ・ドルジェが創立したものです。
この美しい自然のなかで一家は強い愛情と思いやりで結ばれていました。父は短気なところもありましたが、怒りが長びくことはなく、根っから心の温かい人でした。背は高い方でなく体力も秀でている方ではありませんでした。高い教育も受けていませんでしたが、生まれつき器用なところがあり、頭もよかったといいます。とりわけ馬が好きで、よく乗り、またよい馬を選ぶ目があり、病気になった馬を治すこともできました。
母は誰にでも同情する性格で、ひもじい人がいれば自分の食事を与えていたといいます。順応性に富み、愛情深くおとなしい性格だったにもかかわらず、家庭だけは支配していました。一家の暮らし向きは質素でしたが、幸福に満ちていました。

聖なる湖に「転生者」が生まれる場所の情報が映しだされる

辛亥革命後、清朝中国勢力がチベットから一掃された1913年から、ラモ少年が生まれる2年前まで(1933年)はチベットは”幸福”によって、(心が)繁栄していました。1933年、治世中に独立国としてのチベットの地位を明確に定め、チベットに初めて通貨を導入し、郵便局や医学研究所、そして英語学校を設立し、生活の向上と福祉に尽くしたダライ・ラマ13世がこの世を去ったのです。13世が死去すると、ダライ・ラマの「転生者」の捜索がはじまります。捜索対象のチベットの土地の広さは半端ではありません。同じチベット族が住むブータンやネパールの国土とはまったく異なる広大さです。青海省甘粛省雲南省四川省にあるチベット人の居住区(つまりチベット側の主張する本来の領土)をすべて入れると、その領土はなんと日本の国土の6倍もあります(ラサを首都とする現在のチベット自治区だけでも日本の国土の3倍。チベット自治区新疆ウイグル自治区やモンゴルとほぼ同じ位の国土の広さをもつ。本来の領土は、なんと中国の華北・華中・華南の重要な3地域の広さにほぼ匹敵する広さだ)。その広大な土地からひとりの「転生者」を探すことになるわけです。「転生者」は、中国の青海省甘粛省雲南省四川省にあるチベット人の居住区にも生まれる可能性もあるわけです。そしてダライ・ラマ14世は、現在中国の支配下におかれている青海省に生まれているのです(13世はチベット自治区内の南チベットの農家に生まれている)。
「転生者」の捜索のスタートは、伝統に従いまず神託者と高僧が相談を受け、吉祥の兆しを確認することからはじまります。首都ラサにある夏の離宮ノルブリンカの玉座に南面して座らせてあった遺体と、その聖堂の木の柱の様子が調べられます。14世の場合、数日後に13世の遺体の顔の向きが変わり、東に向いたのが確認され、また聖堂の東北側の木の柱に、大きなキノコが”発見”されています。その突然生えたキノコは星の形をしていたといいます。さらに聖堂からみて東北の空に奇妙な形をした雲があらわれました。それは吉祥の兆しであるとともに、「転生者」がどの方角に生まれるのかを告げるサインなのです。また三人の神託官が五体投地をして「転生者」が生まれる方角が宣託されます。

そしてもう一つ重要なサインが、吉祥天母の魂が宿るとされる<聖なる湖>に現れます。その湖は、ラサの南東約150キロ程、険しい山間にあるラモイ・ラツォという湖です。1935年、チベット暦乙亥(きのとい)の年、摂政(ダライ・ラマの「転生者」を探し出し、成人するまで政(まつりごと)を司る)の一行は、この聖なる湖へ向かいました。神秘的な水面には、文字の形や、場所の風景、あるいは将来の出来事が状況として現れると伝えられています。摂政は湖畔で数日間、祈りと黙想をおこないました。すると湖面に5色の色が現れ、次第に「ア」「カ」「マ」という三つのチベット文字のかたちを成し、続いて、ヒスイのような緑色と金色の屋根のあるお寺、それに青緑色の瓦のある家屋が鏡のような湖面に現れでたといいます。トップシークレットになったこれらのサインは、機を見計らってチベット全土に派遣される賢者(高僧高官)たちに伝えられました。
ド・カム地方に向ったのは、東に向った高僧たちでした。そしてクムブム寺院という寺の屋根が、緑色と金色の配色になっていることに気づくのです。このクムブム寺院は、ラモ少年の長兄が高僧タクツェル・リンポチェの「転生者」(化身)として認められ修業していた僧院でした。さらに一行は村でトルコ石のような青緑色の屋根瓦をした家があることを発見しました。高僧はその家に子供がいるか尋ねた。もうすぐ2歳になる男の子がいることを知ります。1行の2人が変装し、下級僧官が隊長のふりをし、高僧が貧しい着物を着て召使い役になりますが、男の子は変装した高僧が身につけていた数珠を見つけただけでなく、高僧の名前までも知っていました。
翌朝、一行が出発の準備をしていると、男の子が自分も一緒に行きたいとせがんだのです。父母は、一行がラモも長兄のように誰かの「化身」なのかも知れないとおもったようですが、まさかそれがダライ・ラマだとはまったく想像することすらなかったといいます。「転生者」は、その幼少期に前世に身につけていたものやひとを覚えているのです。高僧一行は、ダライ・ラマ13世が身につけていた数珠や杖や太鼓を間違いなく指摘することができるか、さまざまにテストされました。ラモはそのすべてを間違いなく選びとりました。高僧一行は、青海省が中国の統治下にあったため、ダライ・ラマの「転生者」を”発見”したことを暗号によってラサに報告したのです。▶(2)に続く-(未)