フランシス・ベイコンの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 軍人あがりの父は内気で繊細な息子を好かず、ジコチューの母は自分の社交に忙しい人だった


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はじめに:自身に「謎(エニグマ)」をかけた20世紀美術最大の”巨匠”

自身が望んだように20世紀現代美術のなかでも最も「謎エニグマ」に包まれたアーティストとなったフランシス・ベイコン。その物議を醸してきた作品群にはベイコン自身がかけたヴェールがあったのです。1920年代に、最先端をゆくインテリア・デザイナーだったことは、ベイコン自身により徹底的に隠蔽されていました。遅咲きだったアーティストは、その間に、1960年代より欧米では20世紀美術最大の”巨匠”の一人に数えられことになる芸術家としての「舞台装置」を準備していたのでした。「法王」の叫ぶ姿や、得たいの知れない部屋のベッドの上おデフォルメされた2つの肉体や、おどろおどろしい生物形態(バイオモーフィック)からなる磔刑図の背景に描かれたのは、自身が若い頃に手がけていた「金属」や「鏡」「ガラス」で構築したモダンインテリアや室内装飾だったのです。
しかしフランシス・ベイコンの「謎エニグマ」はそれにつきるわけではありません。内気だったベイコンは祖母から薫陶を受けた社交術と盛大な浪費、強烈な目的意識、ハイソサエティからゲイソサエティアンダーグラウンドの夜の社交場を自由に往来し人生を謳歌し、ロンドンの夜に欠かせない存在になっていくのです。ベイコンはあらゆるタイプのひとたちと交際ができたのです。ベイコンの「マインド・ツリー(心の樹)」の細胞には、さまざまなものが溶け込んでいたのです。とりわけ文学は脳の中でさまざまなイメージを撹拌させることができるために重要な位置を占めていました。アイスキュロスシェークスピア、ジェームス・ジョイス、イエーツ、エリオット、ウィリアム・バロウズたちです。なかでもマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を最後の悲劇的作品として位置づけていました。絵画では、ミケランジェロ、ベラスケス、ゴッホドガピカソデュシャンたちでした。彫刻家ジャコメッティには心酔し自身のアーティストとしての姿勢や質素なアトリエに反映させています。また1950年代の全盛のピクチャーマガジンからの写真の切り抜きや、エイゼンシュタインの映画『戦艦ポチョムキン(大きな口を開けて叫ぶ女性が映し出された)や初期ブニュエル作品など、独学だった美術を補ってあまりあるほどの視覚情報と想像力を、自身の「マインド・イメージ」に蓄積していたのです。ではこれからフランシス・ベイコンの「謎エニグマ」のヴェールを取り払っていってみましょう。最初に、激しく揺れていた小さな「心の樹」が見えてきます。

父方は3代つづく軍人家系。オックスフォード伯とのつながり

フランシス・ベイコン(Francis Bacon;以下、青年期までフランシスと表記)は、1909年10月28日、アイルランドのダブリン旧市街の中心部の私立病院で生まれています。父アンソニー・ベイコンは軍人で、歩兵連隊から中尉、大尉と昇進し、南アフリカボーア戦争の戦闘に参加しています。フランシスが誕生する頃には、イギリスに戻りフランシスの母となるクリスティーナと出会い結婚する少し前に退役し、鉄鋼所から相続されたクリスティーナの持参金で、競走馬の調教に乗り出していましたアイルランドウェリントンで結婚生活をスタートさせたのは、そこは英国軍の駐屯地で馬の飼育と調教するには好都合の場所だったため。かつて父アンソニーアイルランドの地で馬と狩猟を覚えていた)
祖父エドワード・ベイコンもまた軍人でした。フランシスの祖母となるオーストラリア人の女性と出会った時は、オーストラリア南部のアデライドで騎兵隊大尉を務めていました。父アンソニーが生まれると祖父はオックスフォード伯の所有していたヘレフォードシャー・アイウッドにある邸宅に移り住んでいます。その地に地主として居を構え、5人の子供に恵まれ、7人の召使いを抱えていたほどでした。オックスフォード伯とのつながりはフランシスの曾祖父にありました。曾祖父も軍人で、ウォータールーの戦いでウェリントン将軍の下、最小年士官として名をなし将軍にまでのぼりつめた人物でした。この曾祖父がオックスフォード伯の娘シャーロットと結婚していますヴィクトリア女王はオックスフォード卿の称号を復興し父に与えようとしたが、一家の財政状況では貴族になるには無理があるとして断念している)。ちなみにシャーロットの母の恋人のなかにはあのバイロン卿もいたほどで、バイロン卿はまだ幼かった美少女シャーロットに捧げるために、名作『チャイルド・ハロルドの巡礼』を著しています。

16世紀の哲学者「フランシス・ベイコン」の異母兄の子孫ー傍系家族だった

ベイコンの家系で最も有名な人物は、エリザベス朝の著名な哲学者であり政治家で、フランシスと同性同名の「フランシス・ベイコン(1561-1626」です(「知は力なり」と、現実の観察と実験を重んじる近代合理主義(帰納法)を唱えた人物。主著『ノヴム・オルガヌム』をもって聾学校を世界で初めて設立している。ベイコン自身も少年期、病弱だった)。父は自身は、かのフランシス・ベイコンの異母兄ニコラス・ベイコンの子孫であることを確信し、誇りにしていました。フランシス自身は、家系への関心はそれほどありませんでしたが、血のつながりがあるという「フランシス・ベイコン」が、浪費家であり同性愛者であったことを知るにおよび血は争えないと笑いとばしていました(完全な証拠もなかったためどこかでこの血縁関係を疑ってもいた)。この「フランシス・ベイコン」が、フランシスが崇拝していたシェイクスピアの正体だったという仮説はフランシスを刺激したにちがいありません(フランシスはシェイクスピアをよく読んで引用していました)。
そうした遺伝子以上に、フランシスに影響を与えたのは母方の方でした。フランシスの母クリスティーナの曾祖父は小さな製鋼会社を世界屈指の銃器製造会社にした人物で、息子たちはその富の一部で公園や救貧院や教育機関を設立していました。フランシスの喘息は母方の祖父譲りのもので隔世遺伝でした。そして祖母こそが痩せ細っていたフランシスの「マインド・ツリー(心の樹)」にたっぷりと栄養を与えたのです。青年期にパリに行った時、気後れしてお店にも入れない内気なフランシスが、潜在的な社交術を備えていたのは祖母の影響からだったのです。祖母はエネルギッシュで情熱に溢れ、自由奔放にして社交に長け華やかなパーティーを催すのが大好きな女性でした。くわえて芸術的才能もあり、図案を参照することもなければ下書きもなしに編みレースで大きなデザインを苦もなく生み出す能力と感覚を兼ね備えていたのです。フランシスは祖母の家に何度も泊まりに行ったり舞踏会について行ったりしていました。フランシスにとって祖母は親族の中で唯一愛情を感じられる人でした(彼女は軍人気質のフランシスの父を毛嫌いしていた)。フランシスの母も祖母に似て社交的でしたが、子供たちのことはほったらかしにして自分が楽しめる娯楽にばかり忙しい女性でした。フランシスは子供ながらにそうした母の姿に不満を感じていたといいます。

軍人あがりの父は内気で夢見がちなフランシスを好かなかった。疎開先で大叔父の絵と蒐集した絵画を見る

頑強で軍人あがりの父は息子がひ弱で内気すぎることに業を煮やすばかりでした。フランシスの気質は3世代にわたる軍人家系の父方ではなく母方から継いだものだったのです。繊細な夢見がちなフランシスにとってベイコン家の厳しい日課と、競馬と狩猟の世界は苦痛で仕方がありませんでした。父は喘息持ちのフランシスを屈強にしようと子馬に無理矢理またがらせたり狩りにくわえたりしたのですが、フランシスは馬に長時間接触していると必ず酷い喘息の発作がおこって真っ青になり何日も寝込んでしまうような体質だったのです。その度にモルヒネで抑えられていたといいます。
そんな息子に父はひ弱な烙印を押し、弟の方に目をかけるようになっていきます。末の弟が軍人となって一家の伝統を継いでくれることを願ったのです。父とフランシスの間には母との間と同様、愛情が通い合うことはなく、父と会うのはお茶の時間の後の30分と、たまに日曜日の昼食だけになります。
フランシスの一番古い記憶は、5歳の頃、変装したり隠れたりすることに快感を覚えたことでした。兄のサイクリング用のマントを着て興奮して通りを往来したことをよく覚えているといいます。第一次世界大戦が勃発する前だったので、馬に乗った騎兵隊や軍隊ラッパ、戦闘演習は、病弱だったフランシスの想像力を刺激してはいました。父が軍務の仕事で一家はロンドンに転居し、馬の臭いのない大都市での暮らしを身体が記憶しはじめていったのです。ロンドン空襲が打ち続くなか、ベイコン家は大叔母が暮らす尖塔のある新ゴシック様式の大きな屋敷に疎開しました。大叔父のチャールズ・ミッチェルは世紀末パリで絵画を学び、ロイヤル・アカデミー(王立美術院)やグロウブナー画廊で展覧会を催すほどの画家でした。屋敷には特別に絵画を陳列するための部屋があり、自身が蒐集した絵画も飾ってありました。フランシスは9歳になる前の頃に、そこで肖像画や裸婦像、風景画を目撃し、おそらく強く「マインド・イメージ」に焼き込まれていったようです。
第一次世界大戦が終わっても(フランシス9歳の時)、ベイコン家が感じていた恐怖感が収まることはありませんでした。ベイコン家はアイルランドに戻っていました。1919年にアイルランド共和国軍IRA)が結成されると、家族全員がイギリス人でプロテスタントのベイコン家はいつ狙撃兵に狙われるのか、爆弾が爆発するのではないかという脅威と不安でいっぱいだったのです(召使い全員と9人の馬丁のほとんどがアイルランド生まれのカトリック教徒だった)。大好きな祖母の夫は警察署長でIRAのターゲットになっていました。こうした恐怖感がフランシスの「マインド・イメージ」への焼き付けを強くしたものがありました。それは家の奥まった所にある優雅な曲線がある部屋で、後の作品に人物の背景として描き込まれるのでした。

思春期、同性愛への目覚め。10代前半に家に雇われていた馬丁たちと性交渉をもつ

思春期が近づくにつれフランシスは、自身と同じ名前を持ち、血のつながりのある大哲学者「フランシス・ベーコン」と同様、同性愛を覚えはじめました。10代前半、フランシスは父が馬の調教で雇い入れていた馬丁たちと性交渉をもちます。また父は馬丁にフランシスに鞭を打つよう命令しさせたことがあったようで、痛みとスリル、残酷さと屈辱の混じり合った高揚感に包まれた瞬間は、後にサイ皮の鞭をコレクションするほどになるフランシスの強烈なサドマゾ趣味に発展していきます。「俺の人生全体が絵の中に取り込まれているのさ」とフランシスが後に密かに語ったように、サドマゾの光景も当然のことながらフランシスの絵画に映しだされていきます。
この頃(フランシス10代の頃)から、両親はアイルランドとイギリスのどちらかに居を定めることができず、両地を行ったり来たりし、そのたびにフランシスは新たな学校に送り込まれ、学校生活に馴染めなくなっていきます。フランシスの初期の学校教育はいつも途切れがちでした。母の無関心と父の目が行き届かないこと幸いに、家や敷地をぶらつき幼少から耽っていた空想にみがきをかけたり、そうかとおもえば馬丁の尻を追いかけたりしていました。フランシスに予期しないことがおこります。フランシスは、権威的な父に対してハンサムだとおもう所もあり、それらが絡み合って性的に惹かれていくのです。病弱だったために「男らしさ」に惹かれた部分もあったのでしょう。

ビーズのアクセサリーやイヤリング、ドレスなど女性の衣装への関心

15歳の時、フランシスははっきりと自身の性的傾向を意識するようになっていました。単に同性愛者だというのでなく、「女装」しはじめたのです。すでにそれ以前に、親戚の者たちはフランシスがどうも「女の子」みたいだと言いはじめていました。最初の頃は、その「女装」は、内輪だけの仮装パーティーだったので皆も不思議がりませんでしたが、16歳になってもフランシスはきまってイートン風のヘアスタイルをしたお転婆娘の姿に「変身」するのでした。ビーズのアクセサリーをつけイヤリングを鳴らし、背中の空いたドレスを着て流し目をするのです。そして決定的なことがおこります。ある日、父はフランシスが母親の下着を試している姿を目撃してしまったのです(後に、フランシスは網タイツを穿いてコトに及びはじめます)。「大尉」の勲章を着飾っているかのような父の怒りは爆発します。
学校からは退学させられ、今度は家からも追い出されてしまうのです。とくに父に嫌悪され拒絶されたことは繊細な少年フランシスを大きく傷つけました。フランシスが15歳の時にベイコン家が移り住んでいたチェルトナムは、あのローリング・ストーンズ創立者ブライアン・ジョーンズが生まれ育った品位を重んじる土地柄でした。ブライアン・ジョーンズが16歳の時、家から勘当されドイツ、北欧へと放浪したように、同じくフランシス16歳の時、ベイコン家から勘当をくらったのでした。フランシスは、知人や親戚を通じてつながりのあったロンドンに向ったのです。そこにはもう軍隊式生活はありませんでした。▶(2)に続く