スティーヴン・キングの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 2歳の時、掃除機セールスマンの父が忽然と姿を消す。各地を転々とし母は働き再びメイン州に



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はじめに:「モダン・ホラー」という水脈を”発見”、”認識”したスティーヴン・キング

スティーヴン・キングが第一人者となって開拓してきた「モダン・ホラー」の世界は、今やアメリカだけでなく、世界中に浸透し、各国の大衆に感染しているといえます。「モダン・ホラー」は、「日常の中に潜む、ちょっとした不思議」から生み出される不安感や精神不安定さ、恐怖感が背景にあります。その感覚は、今や世界中の共通感覚にすらなっているため、時にその国や土地独自のホラー話のヴァリエーションと化して小説であれ映画であれ「モダン・ホラー」が多くの人に受けているようです。
当初はこの「モダン・ホラー」の世界は、まだその「水脈」は確かに認識されていませんでした。ドラキュラやゾンビ、フランケンシュタインなど「ホラー」は、非現実な世界を舞台とした怪奇小説だったのです。
今ではよくあるように思われますがハイスクールに通う、いじめによる精神不安定に陥っている少女の話など、かつての「ホラー」では取り扱うことなどありませんでした。スティーヴン・キングは、27歳の時にモダン・ホラー小説『キャリー』(映画化:監督ブライアン・デ・パルマ)で鮮烈なデビューを飾っていますが、その時は極貧の中、トレーラーハウスで暮らしていたといいます。男性雑誌に小説を売りながら(『深夜勤務』となる)、一方で高校の英語のクラスの教壇に立ち、夜はクリーニング屋でのアルバイトに明け暮れながら書いたものでした。『キャリー』の成功から、『呪われた町』『シャイニング』『スタンド・バイ・ミー』『ミザリー』『ペット・セメタリー』『デッドゾーン』『イット』『ダーク・タワー』シリーズなど、膨大な作品群をキングは著しつづけてきました。またモダン・ホラーだけでなく、映画にもなった不思議な力をもった死刑囚の話を描いた『グリーンマイル』や、冤罪で投獄された銀行員が刑務所で辿る人生に光をあてた『ショーシャンクの空に』がよく知られています。
それではスティーヴン・キングがどのようにして「モダン・ホラー」の「水脈」を”発見”することになってのか、その「水脈」がスティーヴン・キングの「マインド・ツリー(心の樹)」とどのように繋がるようになったのか、一緒に見てみましょう。

ティーヴン2歳の時、父が忽然と姿を消す

スティーヴン・キング(Stephen Edwin King)は、1947年、アメリカ最東北部にあるメイン州の最大の都市ポートランド(現在人口約130万人:日本の姉妹都市青森県)に次男として誕生しています(長男デイヴィッドは2歳年長)。父ドナルド(通称ドン)・キングは、「インディアンの土地」を意味するインディアナ州イリノイ州シカゴの巨大都市圏につながる)の小都市ペルー出身で、遡れば先祖はアイルランドに辿ることができます。父ドン・キングは、スティーヴンが生まれる2年前頃前までは、第二次世界大戦時には商船乗務員として商船に乗り込んで北大西洋を横断していました。船に乗る時は、いつもウェスタンものの小説をポケットに1冊突っ込んで家を出掛けていたといいます(本当は船室で読みたい本はもっと別の種類の本でしたが、おそらく同僚の目を気にしてそれほど好きでもなかったウェスタンもののペーパーバックを持ち込んでいた。詳しくは、後にスティーヴン自身が屋根裏で「発見」することになる)。また父ドン・キングの自慢話しの一つに、海上でドイツ軍の潜水艦「Uボート」にもでくわし煙に幕いた話があったようですが、スティーヴンはそれらのことは後に母から聞いたことでした。
なぜならば父ドン・キングは、スティーヴンが生まれた2年後に忽然と姿を消してしまったのです。父にはどうも放浪癖があったようですが、その時ばかりは完全に「蒸発」してしまい、子供たちや妻のもとに戻ることはありませんでした。スティーヴン・キングのウェブサイトでは、「His Parents separated」ー別離、別居、離ればなれ、になったと記されていますが、実際には父ドン・キングが一方的に、ある日、突然いなくなってしまい、その後、一度も戻ることはありませんでした。映画『Into the Wild』で監督ショーン・ペンが描いたように一人アラスカの荒野に旅だち、廃車のバスの中で死んでいるのが後に発見されたクリストファー・マッカンドレスに何処か通じるものがある気質だったのかもしれません。人間の多くのタイプの中には、荒野に憧れるタイプの者がいて、家族や他人からはある日忽然と姿を晦(くら)まし戻って帰ることはないといいます。日本にも昔から失踪者はかなりの数いて、そのうちの幾らかはドン・キングと同じような放浪癖があったのかもしれません。
ドン・キングの場合、一族の内でベティ叔母さんに失踪症があって何度も行方不明になっていたといいます。スティーヴンの母は、ベティ叔母さんのその行動は躁鬱病からくるものだと言いながらも、エキセントリックなベティ叔母さんのファン・クラブの会長に名乗りをあげていました。巨漢の祖父は32歳の時、列車に乗り遅れないように必死で走っている途中で急死していたり、なにかにつけ変わり者が多い家系だったようです。

9年間もの間、各地を転々としながらも、母は働きづめに働いた

商船乗務員を辞めてから戦後は掃除機のセールスマンをしていた父ドン・キングが蒸発してしまったため、母ネリー・ルース・ピルスベリー・キング(通称ルース)は、女手一つで幼い子供たちを養うことになります。クリーニング屋のアイロンかけにはじまり、ドーナツ作りの夜勤、売り子、それにハウスキーパーなど、あまり稼ぎのない仕事ばかりを転々とすることになります。9年間もの間、インディアナ州フォートウェインや(インディアナ州ペルーという地が父の出身地)、父ドン・キングの家族が住んでいたコネチカット州ストラットフォードなど各地を転々として働きどおしでした。そのため9年もの間、兄(スティーブンの兄は不妊症と診断されていた母が養子として迎えいれていた子供だった)もスティーヴンも母と暮らしながら、母と一緒に過ごした記憶がないという感覚に陥っていたといいます。逆境においては、女は強しの典型でしょう。そんな過酷な暮らしにあってもその日を乗り切ってしまい、また持ち前のきわどいユーモア精神を忘れることもなければ、ピアノを弾くことがあれば腕はかなりのものだったといいます。幼い兄弟が食べ物などでひもじい思いをせずにすんだのはすべて母のおかげであったと後年語っています。
テレビがキング家に登場したのは他の家よりも随分と遅く1956年になってからでした。その2年後に、再びメイン州に戻ることになったのです。ある意味、どこかメイン州から離れられなかったのでしょう。メイン州に戻ってきて落ち着くことになったのは、スティーヴンが生まれたポートランドではなく、ダラムという小さな村でした(現在人口3381人)。スティーヴン11歳の時でした。この村に、当時すでに80歳を越えていた祖母エセリン・ピルスベリー・フローズとオーレンの夫妻が瀟洒な煉瓦作りの家に暮らしていました。母ルースは母の姉妹たちに、年老いた両親の世話をするように説得されるのです。その代わり、他の姉妹の家族が両親の家から400メートルばかりの所に、キング一家に小さな家を持てるようにして経済的なサポートをしましょうと(後に祖父母が亡くなってからは母ルースは再び働きにでます。パインランドでの調理場の仕事でした)。
母方のピルスベリーという姓は、母が語るにはケーキミックスト小麦粉で有名になったピルスベリーの遠縁にあたるようです。ただ、運を見方につけたピルスベリーは西部に出て小麦粉で儲け、それほど運を見方につけることのなかった母の直接の先祖にあたるピルスベリーは、東部のメイン州にとどまったままだったといいます。それでも母方の祖母はかなりの秀才だったようで、師範学校の創立以来初の女子学生としてゴーラム師範学校に通ったほどでした。また母方の祖父はなかなか多彩な人で、大工仕事を職にしていましたが、ある時期、メイン州の生んだ19世紀アメリカの代表的風景画家であるウィンスロー・ホーマー(同じく米国北東部ニューイングランドのボストン出身)の助手をつとめたことがあったといいます。

7歳の頃に見た映画『大アマゾンの半魚人』が、少年スティーブンの心に棲み着く

ティーヴン7歳の頃に見た映画で一番記憶に焼き付いているのは、『大アマゾンの半魚人』でした。この映画は、21世紀の『アバター』のように当時の封切り当初、飛び出す3D映像が呼び物になっていましたが、スティーヴンにすでに分厚くなっていた眼鏡の上にややこしい立体眼鏡をかけた記憶がないのでロードショーでなくどこかのドライブイン・シアターで見たようです。映画は好奇心旺盛な男女がアマゾンの奥地に探検に向った様子をえがきだしますが、なんといってもスティーヴン少年を興奮の坩堝におとしいれたのは、沼に棲息していた半人半魚のモンスターが彼らに襲いかかった時です。海神と人間の女たちとの交わりから生まれた異形の化け物の記憶は、少年スティーヴンの心の沼地に深く棲みはじめたようです。そしてこの5年後に、ある屋根裏でー失踪した父ドン・キングの蔵書があったー少年スティーヴンは、偶然にも記憶の底の異形の化け物と瓜二つの化け物が描かれてある小説に出会うのです。
この頃、スティーヴンは母に新たなボーイフレンドがいることを嗅ぎ取っています。ビュイックを乗り回す男とフランス料理のコックだったようです。生計の切り盛りが苦しい中、母は母なりに男性との交際を楽しんでいたようです。まさに経済の沼地に落ち込んでもただでは飲み込まれない、という不業不屈のスピリットをここでも発揮し、人生は自分自身で切り開くのだという殺気というか心意気すら感じさせるほどでした。こうした母の生き様と不屈のスピリットが、少年スティーヴンの遺伝子として、また気質として継承されたにちがいありません。

クレイトン伯父さんとの水脈探し。<センス・オブ・ワンダー>を失わない伯父さん

ティーヴンは地元ダラムのグラマースクールに通っていました。「目上の人には、話しかけられるまで口をきいてはいけません」という母ルースの教えの下に育ち、どんなにばからしく思えても目上の人の考えに逆らうことのない”よい子”の時代を少年スティーヴンは過ごしていました。基本的には内向的でシャイだったようですが、感受性が高く好奇心旺盛で大人たちのやることをじっと客観的に見ることのできる子供でした。
ティーヴン11歳の時からダラムに移り住んできていたので、母の親族に会う機会が多くなっていました。12歳の頃(中学1年の時に当たる)、成長し続けていたスティーヴンの「マインド・ツリー(心の樹)」に大きな刺激を与える出来事が2つありました。一つはたわいもない事ですが、少年スティーブンの記憶に深く残ることでした。伯父のクレイトンと一緒によく水脈探し(ダウンジング)をしに行っていたのです。伯父は近くのリンゴの木の丘からリンゴの木の枝を折り、それで占い棒をつくることができました。スティーヴンはクレイトン伯父さんが大好きでした。クレイトン伯父さんは<センス・オブ・ワンダー>、つまり驚異に感動する心を決して失わない人で、スティーヴンをよく連れ回していたのです。
キング家では熱い夏になると井戸がしばしば干上がってしまっていたので、ダウンジングで水脈探しをしていたのです。クレイトン伯父さんと占い棒を手に、車道からリンゴの木のある丘、家の周囲をぐるりと歩き回わりました。最終的に芝生が生えていた自宅の庭のある場所でダウジング・ロットの先端が大きく揺れたのです。少年スティーヴンは、占い棒をどこか訝(いぶか)しくおもっていたのでこれまた驚くばかりでした。クレイトン伯父さんがどうやって演出してか分かりませんでしたが、実際ダウジング・ロットが飛び出し、芝生の生えた地面に突き刺さったのです。その小さな占い棒をスティーヴンが地面から抜こうとおもっても磁石で吸引されているように抜けなくなっているのでした。クレイトン伯父さんは、この下に間違いなく生涯使える水がある、と言って占い棒が突き刺さった場所に杭を打ち込みました。キング家にすぐに井戸を掘る経済的余裕がなかったため、それから4、5年後に掘削機で庭を掘ると本当に大量の水が迸り出たのです。少年スティーブンは、直接、見ることのできない世界がこの世にはあり、なんらかの方法で、その世界を見つけることができることを知ったのです。スティーヴンはダウジング・ロットを自身の内側にもっていくことになるのです。スティーヴンの内界を無尽に漂っている「マインド・イメージ」の群や、”根っ子”の先にある「水脈」ー人間の魂の奥深くに流れているものーの存在に気づいていくのです。
またクレイトン伯父さんは、他にもいろんなことをスティーヴンに教えました。たとえば「蜂追い」でした。「蜂追い」は、蜜を集めて巣に戻る蜜蜂を野を越え山すら越えて追いかけて行き、蜜蜂の巣の在処(ありか)をつきとめてしまうというものです。「蜂追い」も特別な感覚を研ぎすましていないとできる類のものではありません。そうかとおもえば伝説や物語を数多く知っていて、とくにインディアンの口承伝説や幽霊話が得意で、スティーヴンを飽きさせることはありませんでした。一緒にある場所に行けば、この土地にはこんな言い伝えがあるとか、あの一家にはこんな話があるんだとか、土地にまつわるあらゆることをクレイトン伯父さんは知っていたのです。▶(2)に続く