ピエル・パオロ・パゾリーニの「Mind Tree」(3)- ローマで思考の原点となる下層プロレタリアートと出会う。フェリーニの『カリビアの夜』の共同執筆。映画というもう一つの「言語」を”発見”


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弟の死。ファシズムから逃れカザルサで田舎の人々と深くかかわる

▶(2)からの続き:高まる映画熱の一方で、ロベルト・ロンギの講義に熱中したパゾリーニの心の内で、イタリア現代絵画(モランディ、カルロ・カッラ、デ・ピシスなど)への関心も着実に”根を張り”、イタリア現代絵画をテーマに卒業論文の準備もしています。学生時代のパゾリーニの知の冒険はこれだけに留まらず、19歳の時には(1941年)、同窓の有志らとともに同人雑誌を2誌も創っています。新しいものを生みだしてやろうという血気盛んな頃にも拘らずその同人誌に、「継承者(エレディ)」と「篩-ふるい(イル・セタッチョ)」という誌名を与えていました。このことからもパゾリーニが、様々な学びや情報の中からそれらを”篩(ふるい)”にかけ、”継承”していこうとしていたことが分かります。ちなみにパゾリーニの2作目の映画『マンマ・ローマ』は、師のロベルト・ロンギに捧げられています。
しかし、そんなパゾリーニの”継承”する心を打ち砕く事態が起こります。第二次世界大戦が勃発したのです。1943年(21歳)、パゾリーニも兵役に就かざるをえなくなります。すでにこの年、イタリアのファシスト指導者ムッソリーニは、連戦連敗の責任から国王から解任され憲兵隊から投獄されていました(後に、ヒットラーが幽閉されていたムッソリーニを救出しナチスの傀儡政権のイタリア社会共和国を樹立する)。新政権が連合国側に休戦を打ち出し、それをもって連合国がイタリア降伏と発表すると、同じ枢軸国だっやナチス・ドイツ軍がローマになだれ込み占領してしまったのです。反ファシズムだったパゾリーニはドイツ軍に連行されることを拒否し、銃撃戦を突破しよく知ったカザルサ近くまで逃げ切ります(1年前に『カザルサ詩集』をまとめていた)。その地で数ヶ月身を隠し生き延びます。ドイツ軍に見つかれば処刑される運命でした。この潜伏生活の間に、パゾリーニはさらに田舎の民衆と深く交わり、翌44年の春には、従弟ドメニコの協力を得て言語研究誌「ストロリグート・ディ・カ・ダ・ラガ(川のこちら側)」などに結実していきました。
こうした地方の消え行こうとする言語を研究し発表することは、ナチに操られ中央集権を強行するムッソリーニら時の権力に対する文化的抵抗でした。樹木で言えば、ファシズムは同じ種類の樹木だけに統一しようとする蛮行で、川のこちら側(カザルサの側)の樹木を”根こぎ”して、新たな樹木を強引に”根づけ”しようという行為なのです。パゾリーニの弟グイドもそうした立場から武装レジスタンスのオソッポ旅団に属していました。が、大戦が終結する数週間前に、フリウリ人パルチザン内部のセクトの仲間割れ事件「ポルツースの虐殺」で命を落としてしまったのです。弟グイドの死は、パゾリーニのなかで大きなトラウマとなります。

25歳、イタリア共産党に入党。同性愛者として除名される。そしてローマで思考の原点となる下層プロレタリアートと出会う

23歳で終戦を迎えたパゾリーニは戦後、カザルサの地で教師となります。全身から教育力が漲(みなぎ)り、上司からも高く評価されたようです。数年後、パゾリーニの内で大人しくしていた政治意識と正義感が呼び起こされていきます。北イタリア日雇農業労働者たちが引き起こした社会闘争を契機に、イタリア共産党創立者にして共産主義理論家のアントニオ・グラムシの著作を読み、農民階層について再認識します。パゾリーニは、25歳(1947年)の時、イタリア共産党に入党します。カザルサ地区の書記長となり、ウディネなどの連合会の責任者に就き、フリウリの地方自治の重要性をマルキシズムの立場から論陣を張っていきました。この頃もパゾリーニは有能な教師でありつづけ、文学面でも研鑽を重ね定期的に専門誌に寄稿もしています。1949年になると、パゾリーニの政治的生命を狙った警告が送られてくるようになり、ついに「未成年者を堕落させている」と、パゾリーニを告発したのです。つまりパゾリーニを同性愛者として白日の下に曝け出したのです。その匿名の密告はキリスト教民主党サイドの仕業であったことはあきらかでしたが、この時代、同性愛者であることはイタリアにおいても看過できるものでなく、共産党地区執行部は、偏向分子としてパゾリーニを除名します。パゾリーニは父に罵倒され、母とともにローマへ向かったのです。弟グイドの死とともに、新たな根づきをみせていたパゾリーニの「心の樹」は再び大きな試練を迎えたのです。
人生とはまったく不思議なものです。精神的にすっかり落ち込んで流れるように辿りついたローマが、パゾリーニに決定的な運命と出会いを授けるのです。ローマに着いたパゾリーニ母子は、スラム街に隣接する小さな部落のゲットーになんとか潜り込みました。そこでパゾリーニは社会に融け込めないはみ出し農民たちなど下層プロレタリアートと出会うのです。彼らは粗野でしたが肌で触れ合えば、純粋で天真爛漫でした。彼らがパゾリーニの新たな思考の原点となっていくのです。

不良少年たちの生命を通し社会的癌を炙(あぶ)り出す

パゾリーニは詩作をつづけました。詩集『グラムシの遺骨』『最良の青春』『カトリック教会のナイチンゲール』と結実していった他、方言詩のアンソロジーの編纂にも携わるようになっていきます。次第にローマ文壇に知られるようになり、チッチ兄弟や作家ジュルジョ・バッサーニ、詩人サンドロ・ペンナ、そして同じく詩人で美術史の教授アッティリオ・ベルトリッチ(後の映画監督ベルナルト・ベルトリッチの父)らとも知り合います。またパゾリーニはローマの下層プロレタリアートだけでなく、下町の不良少年グループにも目を留めており、生命を剥き出しにする彼ら悪漢たちの彷徨を小説『生命ある若者(不良少年)』(1955年)として世に問うたのです(不良少年グループのことなど無視すればよいとされていた時代でした)。ちょうどニューヨークで写真家をめざしていたブルース・デビッドソンが怒りと情熱と悲しみの混沌から荒れ狂う10代の非行少年たちブルックリン・ギャングを劇撮する2年前のことでした。ニコラス・レイが監督した『理由なき反抗』(ジェームズ・ディーン主演)が公開されたまったく同じ年でした。内閣審査会議長は、この小説『生命ある若者』を猥褻文書(ポルノグラフィー)として告発しました。パゾリーニの「心の樹」に映し出されていたのは、不良少年たちの向こう側に癌のように増殖している社会的腫瘍(しゅよう)だったのです。目の前に繰り広げられている現実世界を可能な限り正確に記述するために、パゾリーニは不良少年たちやローマの下層プロレタリアートの隠語を詳細に書き留めるようになっていったのです。社会的腫瘍は、下層プロレタリアートの隠語を極端に嫌います。そしてますます腫瘍細胞を増殖させ、不良少年たちやローマの下層プロレタリアートを圧迫していくのです。「社会的癌」にとって「生命ある若者」の眩(まぶ)しい肉体はコントロールできないがゆえに脅威なのです。「告発」や「取り締まり」が強化されるのはこうした時なのです。

詩集『グラムシの遺言』とフェリーニの『カリビアの夜』の共同執筆

同年、小説『生命ある若者(不良少年)』は、コロンビ=グイドッティ賞を受賞しますが、長引く訴訟に擁護者たちがあらわれだしました。アルベルト・モラヴィア夫妻やエルサ・モランテ、画家のレナート・グットゥーソたちでした。パゾリーニは疾風怒濤の攻めに転じていきます。ボローニャ大学での同窓の学友たちやF.フォルティーニとともに評論誌「オフィチーナ」を創りだすのです。イタリアの文化面とイデオロギー・バトルに一戦を交える重要な評論誌となります(4年間継続的発行)。その2年後の1957年(35歳)、イタリア共産党創立者に思いを馳せた詩集『グラムシの遺言』でヴィアレッジョ賞を受賞(パゾリーニイタリア共産党から除名されていましたが、個人的に共産党員であり続けていた)。そしてこの年、映画界もパゾリーニに興味を示すようになっていきました。映画監督マリオ・ソルダーティ、マウロ・ボロニーニ、そしてフェデリコ・フェリーニからも映画『カリビアの夜』(1957)やソフィア・ローレン主演の『河の女』(1955)で共同執筆を依頼してきました。
そして1959年に小説『激しい生活』がクロトーネ賞に輝いた年、すでに知り合っていた詩人で美術史の教授アッティリオ・ベルトリッチに誘われ、ジャチント・カリーニ街にある彼の住居のある建物に引っ越したのです。この引っ越しはパゾリーニにとって映画界への引っ越しの下準備のようなものとなります。というのはアッティリオ・ベルトリッチは、映画の文芸顧問もつとめ映画批評をし作品収集でも手腕を発揮し、学生時代に映画に親しんでいたパゾリーニを決定的に映画圏内に引き込むのです。パゾリーニは伝統や文化には、幾つもの「起源」があって、「言葉」を使わずに相手に伝えることもできることを一方で思考していたのです。

パゾリーニ39歳、処女作品『アッカトーネ』を監督。現実の下層プロレタリアートにフォーカス

そして、この引っ越しからたった2年後に、パゾリーニ39歳の時、処女作品『アッカトーネ(物乞い、乞食の意味)』を監督します。このアッカトーネでパゾリーニは、地方から”根こぎ”にされ、ローマのスラム街で”雑草”のように生きるチンピラと化した下層プロレタリアートにフォーカスしています。実際にスクリーンに登場する落ちこぼれたちは、ローマの下町の本当の住民たちです。そこにはローマの下層プロレタリアートのリアルな言葉と同時に、「言葉」によることのない「現実」が映し出されることになるのです。「現実は自らを語る、ゆえに神聖」であるとパゾリーニは思考しました。
この作品に助監督としてついたのがアッティリオ・ベルトリッチの息子のベルナルド・ベルトリッチでした(当時、20歳)。ベルナルド・ベルトリッチは、後に映画『ラスト・タンゴ・イン・パリ』や『シェリタリング・スカイ』、『ラスト・エンペラー』を監督することになります。『ラスト・タンゴ・イン・パリ』でマーロン・ブランドに役を演じるのではなく自身になりきって大胆な性行為を要求したのは、パゾリーニの本物をこそ求める考えを継承したものでした。
パゾリーニは、映画を製作していくうちに、口にできないことも「詩」のかたちなら伝えることができるように、「映画」というメディアも口に出して言えないことを人に伝えることができる<特殊な言語>だということを深く認識していきます。そしてアッティリオ・ベルトリッチの下へ引っ越す前年頃から(36歳、1958年)、パゾリーニ自身のなかで胚胎していたある”衝動”を、映画の中に埋め込みはじめたのです。それは「死への衝動」でした。最も近い友人で画家であったジュゼッペ・ツィガイーナによれば、パゾリーニの詩や文章、映画からきっちり読み解けば、パゾリーニは自身の「死」の計画を遂行するために、意図的に「映画」というメディアを30代後半になって”選択”したといいます。パゾリーニにとって「死」は、また<生まれ変わり>の儀式であり、ナルシスティックだったパゾリーニにとって、この映画という「国境」のない言語は、あまりにも誘惑的だったのです。▶(4)に続く-未