ジェームズ・ディーンの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)-相当に慌てた「できちゃった結婚」から生まれたジミー。玄関のポーチを舞台に、母とジミーは一緒に「物語」を即興で演じた


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はじめに:”怒れる若者”のシンボルのこと

映画『理由なき反抗』『エデンの東』『ジャイアンツ』で瞬く間にスターダムにのしあがり、1950年代の”文化的イコン”となったジェームズ・ディーンジェームズ・ディーンとは、アメリカの”怒れる若者”のシンボルであり続けてきました。それはとくに『理由なき反抗』(監督ニコラス・レイ)で演じた抗い度胸試しをする少年ジムの姿の反映でありますが、実際の生活においてもジェームズの<役者としての感性>を育んだ最愛の母をわずか9歳で亡くし、またその後の因襲的権威を体現する父との長い確執が、”怒れる若者”のシンボル「ジェームズ・ディーン」誕生の根源になっています。傷つきやすさと不遠慮さ、苦悩する魂と心優しさが、「ジェームズ・ディーン」のなかで融け合い、新しいジェネレーションのアイドルとなったのです。「ジェームズ・ディーン」のスピリットは、「鏡」のように、マーロン・ブランドデニス・ホッパーらに反射していきました。
『理由なき反抗』が公開された1955年、愛車ポルシェ550スパイダーを運転中、わずか24歳にして自動車事故で早逝したジェームズ・ディーン(以下、”ジミー”と記す)。ヴァイオリンと”もの真似”が得意だった少年が、ビリー・ザ・キッドを”半神”と思うようになり(ジミーはビリーの真実を知った)、そして、どのように”怒れる若者”のシンボルになっていったのか、彼自身の「マインド・ツリー(心の樹)」を辿って、「ジェームズ・ディーン」の魂の在処と成長を感じ取ってみましょう。おそらくまったく予期もしていなかった「ジェームズ・ディーン」が、皆さんの心のうちにあらわれてくるはずです。

相当に慌てた「できちゃった結婚」から生まれたジェームズ・ディーン

ジェームズ・ディーン(本名:ジェームズ・バイロン・ディーン James Byron Dean)は、1931年2月8日、大都市シカゴのあるイリノイ州の東部に隣接するインディアナ州マリオンで誕生しています。父ウィントン・ディーン23歳、母ミルドレッド・ウィルソンは20歳でした。2人はまだ出会って1年3カ月程しかたっていませんでした。つまり、初めて出会って何度か会った翌月には、ミルドレッドは妊娠(2カ月)していたのです。当時としては相当に慌てた「できちゃった結婚」だったのです。現在ならどこにでもある話ですが、当時は当人のみならず両家にも相当の問題が巻き起こり、男性の方は責任をとらなかった場合、女性の父親にショットガンで撃ち殺されかねない時代でした。2人は妊娠に気づくと血相を変え、7月の熱い最中、まったく予定のなかった結婚式をにメソジスト教会であげたのでした。
2人の間にどうしてこうしたことが起こったかといえば、勿論それぞれの心模様と迸(ほとばし)った若さといえますが、当時マリオンの町が、石油やガスなどの会社が設立されだした頃で、周囲の田舎から沢山の労働者や事務職ができる若い女性の職場が充分にあり、一方、人口2万5000人弱(西暦2000年でも3万人程)の町マリオンでも農場で暮らす田舎生まれの若い女性たちにとってマリオンはワクワクする刺激的な町に見えた、というわけです。ちなみにマリオンという名前は、アメリカ独立戦争での陸軍中佐で、囮戦術など沼の狐と称されるほどにゲリラ戦に秀でていた人物で(独立戦争前までは水夫だった。サウスカロライナ州出身のユグノー)、後に「近代ゲリラ戦の父」と言わアメリカ陸軍のレンジャース部隊の創設に貢献した人物の名前からとられています。
またインディアナ州の最大の都市インディアナポリスには、ミネソタ州からボブ・ディランの父エイブラムが、ロックフェラーが創立したスタンダード・オイル経理担当として遥々やって来ていました。ディランはジェームズ・ディーンよりちょうど10年遅く生まれているので、ジェームズが活発な少年の頃に、ディランの父が近くのインディアナポリスで働き出していることになります。ジェームズ・ディーンが主演した映画『ジャイアンツ』でもそうですが、とにかく金の成る「石油」に皆が群がり、車が大量生産され、町も発展していった時代でした。このアメリカ大陸で1億年以上前にあった激しい地球温暖化で、植物の光合成が活発になり植物や藻といった有機物が(当時の)海の底に堆積し熟成してできあがった「石油」(石油成因には幾つもの仮説がある)の上に、何万年も棲んできたインディアンたちを蹴散らして(インディアナとは、インディアンの土地という意味)、ロックフェラーをはじめとする多くの人々がオイル・ラッシュで群がってきたのでした。

19歳の時、母ミルドレッドは、手製の鞄一つをもって家を飛び出した

マリオン近郊のギャス・シティー(この名もガソリンに因んでいる)に生まれたミルドレッド・ウィルソンも、夫となるウィントンに出会った時、事務員として働いていました。19歳のミルドレッドは前年に最愛の母を癌で亡くし、しかもその半年後に父が未亡人のもとに通いはじめたことを知り(年末に再婚する意思を5人の子供たちに伝えた)ミルドレッドは、発狂寸前となって家から離れたばかりでした。ジミーが誕生するわずか1年前のことでした。ボール紙でこしらえた自製のバッグに荷物を詰め込んでミルドレッドは、まだ見ぬ何かを求めてマリオンに向ったのでした。仕事はすぐにみつかりました(当時、インディアナ州には失業救済法から独身女性のための職は確保されることになっていた)。ミルドレッドはすぐに事務職に就いて働きはじめました。マリオンに着いて翌月のことです。ミルドレッドが近くの公園の栗の木の木陰で一服している時に、ハンサムで優しそうなウィントン・ディーンが通りかかったのです。金髪ですらりとした痩身、極めつけは青い目を流してくるウィントン・ディーンは、事務や工場労働で鬱積している若い女性の目を引かずにはおられませんでした。そんなイカした男性が声をかけてきたのです。家出同然で町に出てきたミルドレッドに彼の誘いを断る理由はありませんでした。

父は歯科技工士、祖父は農場を営み、曾祖父は成功した競売人だった

青い目をしたウィントン・ディーンは、その時、マリオンの退役軍人病院で歯科技工士として義歯や歯冠、ブリッジをつくる仕事をしていました。ウィントンの父チャールズは、ジョーンズボロにある肥沃な200エーカーの土地で農業を営んでいたのですが、ウィントンが農場の仕事に向かないかわりに、昔から手先が器用で日用品などいろんな修繕を引き受けて暮らしていたようですが、運良く退役軍人病院に職を得ることができ、政府の援助で歯科技工士としての訓練生になったのでした。チャールズ(ジミーの父方の祖父)は、息子のウィントンよりも若い21歳で結婚しています。相手はまだ若干16歳の娘エマでした。しかし2人とも生真面目な性格で、週末にはフェアマウント・メソジスト教会に通うことを怠ることなどありませんでした。エマはキリスト教婦人禁酒同盟の熱心な支持者で、教会で夕食をとった後には、土地の女性たちと楽しくお喋りしながらキルトをつくったり、農産物の品評会や聖書の勉強会にも参加していました。小さな家をたて、お酒も嗜(たしな)むこともなく、つつましい結婚生活だったといいます。そして2人の間に、3人の子供たちが生を受けました。2番目の子供がジミーの父となるウィントン・ディーンでした(1908年生まれ)。
このように父・祖父には、後の世紀の役者魂をもったジェームズ・ディーンの影すらみることはできません。ただ競売人をしていた曾祖父カルヴァン・ディーンは、威勢が良く、演技の素質があり、芝居っ気たっぷりで、きわどい話をたくさん知っていて、「西部で最も成功した競売人のひとりで、インディアナ州で広くその名が知れ渡っている」と地元の新聞が書きたてたほどの人物でした。農場の仕事に就いたチャールズの兄弟パールは父カルヴァンの跡を継いで競売人になっています。たしかに腕の良い競売人には威勢が良く演技の素質があった方が競売も活気がでるにちがいありません。しかし、1918年に74歳で亡くなっているのでジミーが幼な心にその青い眼に曾祖父の勇士を焼き付けることはありませんでした。隔世遺伝的な資質を潜在的に受け継いだ可能性も少なからずあるかもしれませんが、じつはジミーに最大級の最高の影響をたっぷり与えたのは、母ミルドレッドその人だったのです。

父と母には共通点がまったく無かった。好奇心旺盛な母は演劇、映画好きで、”もの真似”が得意

ミルドレッドはいつも好奇心いっぱいでした。恐らく癌で早逝した母の影響だったにちがいありません。インディアナポリスに出掛ければ映画を観たり、インディアナポリス市民劇場では演劇だけでなくヴァラエティショウやダンスのリサイタルも見ることが大好きでした。もの真似の才があり、ユーモアのセンスにたけ、音楽好きで、小説を読めば時間を忘れるほどでした。海外旅行だって憧れの的でした。しかしミルドレッドはウィントンと一緒に暮らすようになると、楽しみの手段や趣味の共通点がまったくないことに気づくのです。ウィントンは日々の仕事とその定収入で満足し、知的好奇心もにも乏しく、遠くへの旅行はもちろんインディアナポリスくんだりまでわざわざ出掛けることもなく、気になったり欲しいものもとんとなく、いい意味で無欲、悪く言えば面白みのない性格でした。結局、あったのは定期収入と、優しさと、青い目だけでした。ウィントンはミルドレッドがインディアナポリスに映画やお芝居を観に行く時など、「可愛いボヘミアン」と呼んで見送ったようです。
けれども母となったミルドレッドは、幼いジミーがいるために以前のように家を離れて芝居や映画を観に行くことができなくなります。今日ならば、幼児を保育施設や実家に預けて羽根を伸ばすことだってできるでしょうが当時は時代がちがいます。ミルドレッドはここで素晴らしい機転を効かせるのです。自分も楽しみ、同時に子供も楽しむことができる「方法」です。赤ん坊のジミーを「観客」にしたのです。たった一人の観客でしたが。ミルドレッドは、童話や本の類を読んで聞かせるだけでなく、自分で途方も無い物語を考えだして、それを自ら「演じて」みせたのです。小さな「観客」は大はしゃぎでした。アメリカの西部開拓にまつわる血沸き肉踊る物語や「伝記」を話し聞かせると、ジミーはわくわくしながら聞きいっていたといいます。また手巻き式の蓄音機で音楽を聞かせたり、一緒に歌を歌ったりもしました。

玄関のポーチを舞台にして、母とジミーは一緒に「物語」を即興で演じた

じつはミルドレッドは友人たちの間では、真面目で控え目な性格だと思われていました。皆と一緒だと自身を解放できなかったのです。愛息のジミーと一緒にいると不思議なことにのびのびと振る舞うことができました。ジミーが少し大きくなると、玄関のポーチが2人の「ステージ」に早変わりしたのです。母が西部開拓史の象徴にもなっている巨人ポール・バンヤンの話をすると、ジミーも一緒になって「物語の世界」に飛び込んで遊ぶのです。ジミーは青い雄牛ベーブやジョニー・インクスリンガーになりきって即興で巨人ポール・バンヤンと戦うのです。それを目撃した近所の住民たちは本当にびっくり仰天したといいます。そして時に一人二人と集まってきて2人だけの寸劇を楽しんでいたといいます。ミルドレッドとジミーは、2人だけしか見えない急流を筏で下り、見知らぬ土地に出て、空想の敵と戦うと、ふたたび吹雪の荒野をすすんでいくのです。ジミーはインディアンから青い雄牛、アライグマまで空想のなかでどんなものにも「変身」するのでした。▶(2)に続く