エドヴァルド・ムンクの「Mind Tree」(3)- ドストエフスキーとイプセンの影響。魂を「腑分け」した絵。カンヴァスはなく漁ってきた厚紙に描いていた


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簡易な電話装置を自前でつくる。「木工」好きで父の薦めで工業技術専門学校に入学していた

▶(2)からの続き
19世紀後半、産業革命ノルウェーにも押し寄せて来ていました。この頃ノルウェーは経済不況下にあり多くの労働者が職を失っていたため、父は少年ムンク産業革命にかかせない技術者になるよう促し、数学と物理の家庭教師を雇い入れたのです。国が技術者集団を養成するために創立した工業技術専門学校の入学試験を受けさせるためでした。この時、絵の世界に入りこんでいたかにみえる16歳の少年ムンクは、どうやらあまり反抗せず父の薦めを受けています。じつは少年ムンクは以前から「木工」細工が大好きで、新聞に掲載されていた情報から、簡易ではありますが今でいう電話装置を自前でこちらえて実験したこともあったほどでした。ムンクは死の暗い淵にばかり沈んでいたわけでなく、好奇心旺盛な少年だったのです。また化学の神秘にも魅了されていて、寝室を化学の実験室に模様変えし、学校から帰ると閉じこもって試験管でなにやら実験にいそしんだりしました(試験管が爆発して手や顔に傷を負ったこともありました)。父から押しつけられたような格好の数学と物理の勉強でしたが、少年ムンクの「心の樹」にはまだ小さな”芽”ながらも、”直感的”にその世界がこの世の見えない世界と関連していると感じとっていたといいます。数学と物理は、宇宙を司る深淵な精神を探求するための方法であり技術であることを次第に認識していったムンクは、生涯にわたって数学と物理を学習し続けています(50代後半の時、1919年にアインシュタインの『相対性理論』を読み瞠目しています)。
16歳の時、少年ムンクは工業技術専門学校に入学をはたします。学校の授業では、縮尺図やら一点消失遠近法、軸測投影法、切断面の描き方など実用的な図面制作に時間を多く割かれ、ムンクは実践的な作図技法を体得しています。ところが相変わらず体調がすぐれず授業は休みがちで、卒業資格の取得に問題が生じ、少年ムンクは決意します。やはり「画家」なろうと。少年ムンク17歳の時でした。
父は学校を辞めることにも画家になることにも大反対でした。ムンク家の周囲も現実を見るようにと反対の大合唱です。カーレン叔母さんだけは少年ムンクを励ましてくれました。美術協会の会員のディリックスやパリを経験した画家タウロウ(美術協会の実力者でもあった)もムンクの才能を買っていたこともあり、父もとうとう折れ、ムンクは学校を辞め、勢い込んで美術史の勉強にのり出していくのです。細部まで描き込んで表面に視線を釘付けようとする写真まがいの絵を二流の絵として毛嫌いしたムンクは、いよいよ本格的に油彩絵具と格闘をしはじめます。まだこの頃は風景画がおもで、まだ人物をうまく描きだすことはできないでいます。

ノルウェーボヘミアンの巣窟「クリームチーズ荘」にアトリエをもったムンク

18歳の時(1881年)、少年ムンクは王立美術工芸学校に入学を許可されます。まだこの時、王立の美術学校といえども校舎すらなく裕福な化学者の古屋敷があてがわれていました。国有の美術コレクションも国立美術館が設立されるまで保管されていたのもこの屋敷でした。少年ムンクはここでパリ印象派の作品を目にし、パリに行くことを夢みながら一日に20づつフランス語の単語を暗記じはじめます。王立学校の教師陣は印象派など美術界の新しい動きを無視するばかりでしたが、ムンクは素描で優秀な成績を修めています。ムンクはクリスマス・シーズン用に他の画学生たちと共にアトリエを借ります。それが画学生にも知られていた「クリームチーズ荘」でした。
ゴシック建築の宮殿然とした風変わりな建物からこの呼び名がつけられていた「クリームチーズ荘」は、アブサンの匂いがぷんぷんし、体制に抗い自由奔放に暮らすボヘミアンたちの巣窟(そうくつ)となっていました。「クリームチーズ荘」の階下にはカフェ・キャバレーがあり、ノルウェー無政府主義的ボヘニアニズムが最初に花開いた場所で、その実践の場になっていたのです。パリで革新的絵画を貪欲に吸収し(とくにマネ)、ベルリンで無政府主義や急進主義に出会い、マックス・クリンガーに学んでいた前衛アーティストのクリスティアン・クローグもここにアトリエを構えていました。他にフリッツ・タウロウ(「雪の画家」と称されたF.タウロウは、イプセンが『人民の敵』に登場させている)やE.ヴェレンショルらがいました。3人ともノルウェー絵画界の若き革新派として名を成しはじめていました。クローグは「クリームチーズ荘」で女性をモデルにした絵画教室を設けて物議を醸したり(この当時、パリの美術学校でもまだ女性モデルは禁じられていた。またムンクの父はムンクが持っていた肌の露出の多い名画の複製さえ没収した)、美術協会(審査員は、医師や弁護士、学校の校長や判事助手たちで構成されていた)を槍玉にあげています。じつはこのクローグが、ムンクの初めての絵画の師匠となるのです。この師弟関係は以降長く続くことになります。

ドストエフスキーイプセンの影響があらわれた絵画。魂を「腑分け」する作業

少年ムンクが「クリームチーズ荘」で刺激をたっぷり受けていた同じ年(1881年)、ドストエフスキーが他界しています。ドストエフスキーは、ムンク家に大きな影響を与えていた作家でした。父は気が向くとドストエフスキーの作品をよく大声で家族の者たちに読み聞かせていたものです。ドストエフスキーは父の人生の秤(はかり)であり指針だったのです。ムンクにとっても魂に深く分け入り、精神と物質の両面から生きることを描きだしたドストエフスキーは大きな影響を与えていました。それはドストエフスキーを信仰を肯定するキリスト教的に捉える父とは異なるものでした。貧しい元学生ラスコーリニコフカラマーゾフの兄弟たちとその親の世代間の埋められない溝のように.....。
20歳の時、初めて一般に公開されたムンクの作品「頭部の習作」に描かれた貧しそうな少女は、ドストエフスキーの『虐げられた人々』を彷彿とさせます。翌年の「黒衣のインガー」に描かれた背景の濃い闇もドストエフスキーの『罪と罰』から着想を得たものでした。対して、その頃のムンクの絵中の白は(同年に制作した作品「朝」など)、劇作家イプセンから受けた影響が白色になってあらわれたものでした。心の内、頭の中に灯った「マインド・イメージ」=「絵」を描き出すために、ムンク自身、「脳を映写室代わりに、目をスライドにして、心を通じて、神経を通じて描こう」と語っているように、ムンクにとって、世界の外的な現実をそのように描くことは意味もなく価値を見出せないものだったのです。外的な現実に脳の映写室から映し出されたものは、自身のうちにある精神的なものと形而上学的なものの徴候と象徴でした。くわえてカンヴァスに描き出されたのは、「腑分けされた魂」でした。後にムンクは「レオナルド・ダ・ヴィンチが、人体を探り、屍を腑分けしたように、わたしは魂を腑分けする」と語っています。ムンクはまるで分光器にかけたように、魂が発するものをその色合いで「腑分け」していったのです。

22歳、パリに出る。フィヨルド近くの小屋を借りる。カンヴァスはまだ用意できず漁ってきた厚紙に描いていた

ベルギーのアントワープでの万国博覧会の美術部門にノルウェーを代表して出品し奨励金を獲、22歳の春(1885年)、ついにムンクはパリに向かいました。劇場やカフェ、画廊(デュラン=リュエル画廊など)やサロン、ルーヴル美術館に通います。ムンクは素描をミニマルにとどめ、色彩と光をひきたてる技法をもった(単純化しつつ写実性を失わない形態)ピュヴィス・ド・シュアヴァンヌの作品に驚嘆します。作風に大きな影響を及ぼすほどの傾倒ぶりをみせます。ムンクの「女性三相(スフィンクス)」は、シュアヴァンヌの大作(人生の3つの段階にある3人の女性を描いたもの)の主題を反映させたものでした。折しもこの年、シュアヴァンヌの作品は美術界から非難されています。その理由はムンクがこき下ろされていた理由と同じで、淡い彩りと仕上げの不十分さでした。
ムンクは帰国すると、フィヨルドの近くボーレ村にある小屋を借ります。少年の頃、フィヨルドの風景に感嘆したムンクは、魂を込めて作品の制作に立ち向かうためにこの地を選びました。この地にはヴァイキングムンクには強靭な”船乗り”の遺伝子が流れている。マインド・ツリー[1]参照)の巨大な埋葬塚が幾つもあり、まるでヴァイキングの聖地といってもいいほどでした。ノルウェー国内最古の教会もある土地柄でした。
また、この頃まだムンクは、ほとんどの絵をカンヴァスではなく、拾ってきた板切れに、あちこちから漁(あさ)って探し出した厚紙を張ったものに描いていました。適当な厚紙がうまく見つからない時は、表面ばかりでなう裏面にも絵を描くこともあり、それでも足りない時は古い絵の上に新たな絵を描くしかなかったこともあったといいます。日々の暮らしには、体調が依然すぐれない父の僅かな施しと、カーレン叔母さんがこっそり融通してくれていました。パリで、レンブラントやベラスケス、マネらの等身大の作品に心をうたれていましたが、大きなカンヴァスには予算がありません。そこで絵具代なども含め材料費をモデル自身が負担してもらい等身大の絵を制作する方法で、作品「カール・イェンセン=ヒル」や、ノルウェー最初のニヒリストで、無政府主義社のハンス・イェーガーの肖像画を描きます。イェーガーの先祖はゲーテの『若きウェルテルの悩み』をノルウェー語に翻訳しており、イェーガーは過激に「形而上学か自殺か」と公にぶちまけていた人物でしたが、ムンクはイェーガーと意気投合するのです。イェーガーはムンクにとって父親の呪縛を解き放ってくれる存在と化していきます。
こうしたなかムンクはミリー・タウロウ夫人(遠縁の従兄弟で、ムンクの擁護者の画家フリッツ・タウロウの弟の奥さん)としばしば会うようになります。つまり密会です。彼女はムンクに寄り添い、ムンクも彼女に恋をしますが、罪業を感じ葛藤します。この時の欲望と恥辱、不安と弱さが混合した気分が、作品「ダンスの歓び」(登場人物をすべて骸骨に置き換えた陽気にして不気味な作品も制作)や、30歳の時に生み出しはじめた「愛」の連作にして、ムンクの生涯を通じて最も重要な作品群の中核となる「生命(いのち)のフリーズ」連作の背景となっています。
▶(4)に続く-未・予定