ボードレールの「Mind Tree」(3)-『悪の華』が咲くまで

絵画で溢れ返った部屋

▶(2)からの続き:自室に飾られた肖像画「アルジェの女」に、当時のボードレールの「マインド・イメージ」が象徴されています。ボードレールの「マインド・ツリー(心の樹)」の根元の少し上から分岐した大きな幹の一本は、「絵画」を養分に育ってきたものでした。素人画家で絵画をこよなく愛していた実父の手ほどきで、幼いボードレールも素描をかきなぐって楽しんでいたのです。永遠の美の秘密に迫ろうとするボードレールの魂は、ヴェラスケスやティントレット、コレッジオ、プッサンらの古い絵の中にそれを見いだしました。絵画はもう一つの「内面への旅」でもあったのです。絵画(そして造形的表現)を見る目的が明確化されたボードレールは、部屋を飾る絵「アルジェの女」を描いた画家エミール・ドロワから絵画のことを学んでいきました。好奇心旺盛な放蕩者は、気に入った絵を古物商から約束手形で次々に購入し、部屋はボードレールの魂が蠢く美術館のようになっていきます。この頃、ボードレールの情熱が向かう先は圧倒的に絵画で、崇拝していました。最も魂を惹き付けたのはドラクロワでした。

「絵画」と「詩」- 映し鏡の関係

24歳の時、ボードレールは官展(サロン)を批評し冊子にしようと企みます(ジュール=ラビット社が500部印刷)。ほとんどの画家は伝統に束縛されていると、偶像視していたユゴーが称賛するブーランジェもこきおろし、ユゴーにも批判の矢を放っていきます。この絵画に対する辛辣な批評行為は、同じく伝統に束縛されている同時代の詩に対する批評でもあったのです。「絵画」と「詩」は、ボードレールのなかで、映し鏡のような関係だったのです。「絵画」の中で巻き起こっている変化を知ることで、「詩」の世界も相対化して見ることができたわけです。しかしこの間にもボードレールの経済状況は悪化の一途をたどり、金の必要に迫られるとセーヌ街の画商に絵を転売しています。母にお金を融通して欲しいと何度も懇願の手紙を書き送っています。外では虚勢を張るのがボードレールの流儀だったのでその流儀を守るためならあらゆる手段をつくしています。ダヴィッドやアングルらの展示即売の展覧会についての論考やルーブル宮での官展に対する論評(ロマン主義擁護)を出版しますがまったく売れず、一方で『海賊=魔王』誌の原稿の執筆に加わったりもしています。しかし、ボードレールは完全に経済的に窮してしまいます。準禁治者となり法廷後見人をつけられてしまいます。
ボードレールは死ぬ勇気もないまま自殺の準備にとりかかります。皆の寛容を引き出すためでした。ボードレールは居酒屋で、ジャンヌが見ているなかナイフで胸を刺します。意識を飛ばすように崩れ落ちますが、怪我はまったく軽いもの。この茶番劇が功を奏し、いったん貧窮から脱っしますが、再度暮らせるようになった家での規律に息苦しくなりまた家を出ます。両親を安心させるために入学手続きをとった古文書学院に通うこともなく、安ホテルを転々とする日々ー

エドガー・アラン・ポーの翻訳家になる

パリを放浪するボードレールをとらえたのは米国の作家であり詩人のエドガー・アラン・ポーでした。ポーはたちまちのうちにボードレールの模範と化し、導き手になります(1847年にポーの短編「黒猫」をイザベル・ムーニが仏訳、ボードレールはそれを読み初めて注目。ボードレール26歳)。ポーの作品の苦悩と恐怖、背徳と残酷さ、神秘感覚はボードレールの内面の「映し鏡」だったのです。「エドガー・アラン・ポーを知ってるか?」がボードレールの口癖になっていきます。ボードレールはポーの人生と自身のそれとの類似を感じざるをえなかったようです。ポーのアルコール中毒、経済的困窮、完璧さ、執着心、永遠の美への思い、情熱、幻覚、神経質で多感、憂鬱さ、反逆精神、辛辣さは、すべてボードレールのものでもありました。
1849年(ボードレール28歳。ポーは40歳だった)に死去したポーの人生と魂を再生するために、ボードレールは31歳の年に論考「エドガー・アラン・ポー、その生涯と作品」を『パリ評論』に発表しました。少し前から、ボードレールエドガー・アラン・ポーの翻訳者として知られるようになっていました。『大烏』『調度の哲学』などを翻訳しては新聞に寄稿していたのです。詩人としてのボードレールは、まだその影に隠れていましたが、ポーの作品が孕む印象を翻訳することは、もう一人の創作者のそれでもありました。ボードレールはあらゆる辞書を買い込み、専門家や大学教授を質問攻めしています。その緻密な翻訳作業は、言葉によって塑像していく作業でもあります。ことに『大烏』の翻訳は誇らしいものだったようで、ボードレールは自身の「分身」としてのポーを世に送り出すことにえも言われぬ快感を感じています。同時に自身の詩が売れた時よりも遥かに多くの翻訳料を稼ぐこともでき、ポーは物心両面で救いの神でありました。

母から受け継いだ英語力

翻訳家になるほどの英語力をボードレールはいつ習得していたかといえば、それは母からでした。母は幼少期をロンドンで過ごしていたのです。その母を通じボードレールは少年期に英語を習得していたのでした。あらためて確認すれば、「絵画」への関心は父から、「翻訳」に通じるものは母から、継いでいたのです。しかもその能力の種は、幼少期から少年期にかけてのもので、ボードレールの「マインド・ツリー(心の樹)」の”根っ子”に、すでに潜在していたものだったのです。

孤独と華やかな交際

30代半ばの頃、ボードレールの「マインド・ツリー(心の樹)」は深々と艶やかに生い茂っていきます。高嶺の花の高級娼婦のサバティエ夫人に入れ込んだのもこの頃です。夫人は日曜になるとゴーティエら著名な文士や芸術家たちを招いて会食をしていて、ポーの翻訳家ボードレールもその席に迎えられたのです。夫人の虜になったボードレールは名前を明かさず詩を送り続けます。もう一人ボードレールが崇拝した女性が女優のマリー・ドーブランで、晩餐を共にする機会を得て、舞台の楽屋に日参するようになります。ところが表向き華やかな日々を送っているようにみえるボードレールでしたが、じつは孤独に苛まれ、ねぐらを転々とし、安食堂で食事を摂る日々が日常的だったようです。35歳の時、つかず離れずの状態だった連れ添いジャンヌとの関係が悪化し、発作的に暴力をふるったためジャンヌから縁を切られていたのです。艶やかに生い茂った分、影は濃くなっていきました。

提案されたタイトル『悪の華

数週間後、ボードレールは生きることへの意欲が猛然と湧き出てきて、栄光を悪魔的に渇望します。成長し続けていた「心の樹」が、内側で力強く「反応」しはじめたのです。孤独感に苛まされながらも、一方でポジティブな創作欲がふつふつと沸き上がってくるのです。すべてが「時」をえた感じに動きだしたのです。出版されたばかりのポーの『異常な物語集』(ボードレール翻訳)が出版界で確かな手応えを得、こちらもポーの『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』の翻訳も佳境にはいっていきます。ここでも完璧な訳を得るため航海用語についてイギリス人水夫に聞いたり歩き回って確認をとりつけています。さらに自身の詩集と評論をまとめたもの2冊についても出版契約に至ります。詩集の方は、『レスボスの女』と題したものでした。批評家で小説家のイポリット・バブーが、『悪の華』というタイトルはどうかと提案し、ボードレールはその不吉な霊感と官能性を感じさせるタイトルを大いに気に入ります。出版部数は1000部に限定されました。

法廷でー数篇の詩の削除と罰金

創作欲に溢れたボードレールは『悪の華』の校正原稿を見直し、際限ない書き換えをおこなっていきます。出版に際し、詩集の献辞に大文士ゴーティエを選びますが、内務省(公安)は、『悪の華』を「道徳と宗教を擁護する法律に叩きつけられた挑戦状」と問題視し、司法当局が動きボードレールと出版人に対して証人尋問を請求し、告訴の対象としました。『悪の華』の差し押さえが命じられます。ボードレールは再び母を悲しませないように要人の権威をとりつけるため走りまわりますが、道徳規範と宗教を冒瀆したかどで法廷に引き出されます。サバティエ夫人はボードレールをなぐさめようと関係をもちますが、結局ボードレールの方から身を引きます。そしてついに判決が下ります。判決は「レスボス」「あまりに快活な女に」「吸血鬼の変身」など数篇の詩の削除と罰金でした。折しもこの頃、義父オーピック(最後は帝国元老院議員になっていた)が亡くなっています。愛する母は『悪の華』を非難し、夫を亡くした後も、ボードレールに会おうとはしなくなっていました。

ボードレールの第二の天性ー<作為>

瞬く間に有名になったボードレールでしたが、それは詩の才能によってではなく、狂信者として名が知れ渡ったためでした。「誰もがボードレールのことを知るようになったが、誰もがその本は読んだことはなかった」とも言われていたようです。しかしそれはボードレール自身が自ら<作為>した結果であり、翻ってみればまんまと「成功」したといえるでしょう。興味深いことにボードレールの子供の頃の夢は「役者」になることでした。写真家ナダールのレンズの前の<ポーズ>は、ボードレールの一番のお決まりの姿勢でもあったようです。<作為>はボードレールにとって第二の天性でもありました。誰の前でも詩人ボードレールという<役>を演じることができたのです。友人ナダールが、つくった大気球でパリ上空を飛び人々を驚嘆させたように、ボードレールも人々の精神を驚嘆させたかったのです。

魂が垣間見える「窓」となっている詩

一方で、文壇もボードレールが天才なのか、公序良俗を乱すだけの狂信者なのか判断がつかない状況が続いていました。ユゴーフローベールは、生きるということの<不都合さ>、病める世代の最新の兆候だとして『悪の華』を絶賛。ゴンクール兄弟は不快さを表明していました。
悪の華』を読んだ読者には、詩の主題の過激さが魅了とショックを同時に与えました。光と闇の間で揺れ動く奇矯な人物の<告白>になっていたのです。読者が<告白>的だと感じえたのは、<病んだ男の墓碑銘>のようでありながら日常の言語でかたられていたことでした。しかし飛び込んでくるイメージは強烈で、文章には練り上げられた明晰さがあり、目次も緻密に構成されていました。そして、すべての詩が、詩人の魂が垣間見える「窓」になっていたのです。無意識的に、ボードレールと同じような心境(世界に組み込まれることを拒否した感覚的で憂鬱な人物。遊民のまなざし)を抱いて暮らしていた者には、それぞれの詩は割れた「鏡」の断片のように映ったかもしれません。
<鏡の都市>パリは、『悪の華』の不吉な官能と匂いを乱反射させていきます。それはボードレールの同世代ではなく、さらなる群衆と化す次の世代のまなざしと魂に向かってのものでした。

◉成年期:Topics◉20代半ばから30歳頃のボードレールの仲間には、贅沢好みのボワイエや放浪者気取りのギュスターブ・マチュー、やさ男のアルセール・ウーセイ、詮索好きなジャーナリストのヴァトリボンらで、親友はアスリノー、シャンフルーリ、プーレ=マラシ、シャンソン歌手のピエール・デュポンナダールだった。若い共和主義者の中には、ルコント・ド・リールやイポリット・カスティーユたちだった。反動的な王政擁護論者ジョゼフ・ド・メーストルは政治面ではボードレールの師のような存在で、人民の代表を選ぶのに人民に一票づつの票を与えることは神に対する侮辱だという考えに同調していた。権力者ルイ=フィリップもユートピア主義者も左翼も好みではなかったが、仲間たちの無政府主義的な姿勢や煽動には心を揺さぶられていた。また発明家で写真家のナダールも友人だった。ナダールは、当時の『お笑い新聞』にボードレールを次のように素描している。「神経質な若い詩人、陰気で怒りやすく、他人も怒らせやすく、私生活においてはしばしば文句なしに不愉快な人物。逆説的な態度を取ってはいるが、非情に現実主義者......思うに彼は、自分の進むべき分野においては、最もすぐれかつ最も確かな信念を持った人物である」。
30代半ば、10年も共に暮らしていた妻ジャンヌとは会話が成立しなくなる。文学や政治の話もできず、ボードレールの詩に対する研究にも興味はなく、ひどい酔態や叫ぶ様な話し方は美点をすべて消し去ってすまうほどに。ボードレールの唯一の気晴らしの猫を追い出し、逆にボードレールが嫌いな犬を連れ込む。夫婦関係は破綻。ボードレールは、いったん別れる決意はしたものの恐ろしく言い出せず。最終的には妻ジャンヌから別れを切り出される。

・参照本『ボードレールアンリ・トロワイヤ著/水声社 『ベンヤミン・コレクション』より「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」ちくま学芸文庫 

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悪の華 (新潮文庫)堀口 大學

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