パティ・スミスの「Mind Tree」(2)- モディリアニ、ランボー、ストーンズを「発見」

最初のボーイフレンドは、黒人だった

▶(1)からの続き:13歳の時(1960年)、パティに最初のボーイフレンドができました。相手はジャマイカ人の黒人の少年でした。ふだんのキャンパスでも黒人の生徒たちといる方が落ち着いたし親近感を抱いていましたし、以前住んでいたフィラデルフィアでも、黒人の子供たちと違和感なく一緒に遊んでいました。その時代は、人種差別の撤廃を願ったマーティン・ルーサー・キングの「I have a Dream」演説(1963年)よりも前で、パティは人種の壁をするりと通り抜ける不思議な能力をもっていたにちがいありません。思春期になると黒人音楽への関心がさらに高まっていきました。
バプティスト教会に忍びこんでゴスペル音楽を聴いたり、友達と一緒にドレスアップして年上にみせかけてジャズ・クラブにもぐりこみ(18歳未満は入場禁止だった)、セロニアス・モンクマイルス・デイビスを聴きはじめています。病気の時に母が買ってくれたアルバム「マイ・フェイバレット・シングス」で憧れるようになったジョン・コルトレーンがジャズ・クラブに来た時も、着飾って侵入し15分だけジョン・コルトレーンのステージを目にすることが叶いました(すぐに見つかって追い出されます)。この頃、パティはスクールバスの中で歌ったり、友達の家のパーティでレコードにあわせて踊ったり、音楽はパティを元気づけるものになっていました。

肉体的コンプレックとモディリアニの絵画

パティは思春期になると、細い樹のように痩せっぽちでぎごちない外見(まだ眼帯もしていた)、肉体的コンプレックスに極度に悩まされるようになりふさぎ込みはじめます。そんなパティに美術教師が図書館に連れていきモディリアニの絵を見せました。長くて細い首、痩せて青白い顔、物憂げな雰囲気の女性が描かれていました。教師は、パティがモディリアニやピカソの”青の時代”に描かれた絵のモデルに似ていて素敵だ、変に気にし過ぎるな、と気持ちを和らげてくれました。絵の中の女性たちが心の中の生涯の友となるだけでなく、絵の中の女性たちと自分を<同一視>しはじめたといいます。
後にパティがニューヨークに出る時に、アーティストの恋人になるのが目標だったといっていたのも、アーティストなら自分をわかってくれると感じたからかもしれません。とにかくこの時期、パティは「自己」をまず美術の中で受けとめはじめました。パティの「マインド・ツリー(心の樹)」は、悩みつづけた身体的コンプレックスを解き放ってくれる絵画の中の同性を「鏡」にし、自身を映しだしました。絵の中が、パティの未来への「入口」になっていたのです。

人生が変わった体験ーローリング・ストーンズを知る

身体的コンプレックスからじょじょに抜け出しはじめた時、パティはまるで人生が変わってしまった体験をします。日曜日の夜に父がたまたまエド・サリバン・ショーを見ていた時、パティはローリング・ストーンズを見てしまったのです。パティは完全にイッてしまいます。ローリング・ストーンズは、「ロックン・ロール・バンドの中ではじめてファックしたい!」というバンドだったと後に語っています。ストーンズの5人ともがボーイフレンドにできそうなタイプで、悪っぽく、危険で、ムカつかせ、汚くて、醜い、けれどもイカしていました。
パティはストーンズを通じて、その音楽や存在だけでなく、白人であることが初めて「カッコイイ」こと、そして”カッコイイ白人のなり方”を教えられたと感じたといいます。パティの内で、その時のイメージがあまりにも強烈だったため、ストーンズが演奏していた曲「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」は後にパティのステージの定番曲になります。パティはそれまでずっとジョン・コルトレーンジェイムズ・ブラウンスモーキー・ロビンソンら黒人音楽がサイコーでー、フォーク・ミュージックの数人を除いて音楽よりも絵画だと思うようになっていた頃だったので、再び音楽がパティを刺激しはじめました。

ボブ・ディランの「発見」と詩的感性

一度あることは二度あるの譬えのように、ストーンズの直後に、パティはボブ・ディランを「発見」しました。今度は母が教えてくれました。母の仕事先のドラッグストアに中古レコードのコーナーがあり、病気中(母娘の喧嘩の仲直りのためとも)のパティのためにと買ってきてくれたのが、アルバム「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」でした。ディランとパティとつなげたのはその服装だったといいます。服装がそっくりならきっと通じるものがあると母は直感したそうです。案の定、パティはディランの虜になりました。ディランはパティの内にあった詩的感性を刺激していきます。パティの「心の樹」は、服装、絵画、音楽、詩と、さまざまな方面に、急速に伸びていっています。

16歳の時、ランボーの詩集を買う

16歳の時、パティはランボーの詩集を買いました。すでにパティは工場で働いていて(ハイスクール時代のパティの生活を自身で支えていた)、休み時間にふらりと本屋に寄り本の表紙に目をとめたのがはじまりでした。そこにはランボーの「写真」が印刷されていました。パティは、ランボーボブ・ディランに似ていると直感し、その詩集を手にします。ハイスクールへの道すがら、またパート・タイムの工場労働を終えるとパティは何度も何度もランボーの詩集を読んだそうです。ランボーへの熱は、愛に近いものになっていきます。
後にポエトリー・リーディングをしはじめた頃、「ロックン・ランボー」と題し、デビュー・アルバム『ホーセス』では「ランド」という曲中で「ランボー」と叫び、アルバム『ラジオ・エチオピア』でも曲「ラジオ・エチオピア」と「アビシニア」を共にランボーに捧げています。無論、アフリカのエチオピア(当時はアビシニアと呼ばれていた)といえば、ランボーが詩を捨てた後に辿りつき、働き、暮らしていた土地でした。

ボードレールへの関心と「伝記読み」

ついでパティは、ランボーに大きな影響を与えたアウトローの詩人ボードレールに関心を持ち、読みこんでいきます。パティはランボーボードレールの作品とともに、2人の「伝記」も読んでいます。この「伝記読み」は、パティの「マインド・ツリー(心の樹)」に予想以上の大きな影響を与えます。好きになった作家やアーチストが<役割モデル>として、内界に棲みつくからです。ロック・シンガーになってからも、曲中や文中、インタビューなどでことあるごとにかつて好きになったり影響を受けたアーチストたちに言及するのは、まさにその証だといえるでしょう。▶(3)に続く


◉青年期:Topics◉パティはデプトフォード・ハイスクールで「美術」を専攻し、絵画で才能をみせはじめた。入学申請したフィラデルフィア芸術大学から学費の一部を負担するという申し入れがあり、パティはアーチストの道をめざしはじめたが、パティの家に学費の残りを用意する余裕がなかったため、アーチストではなく美術教師の道をすすむことに。パティはグラスボロー・ステート教員大学から新入生奨学金を受け、美術教師になるための教育を受けることになる。