マルセル・デュシャンの「Mind Tree」(2)- 兄がデュシャンのリアルな「師」だった。14歳、「絵」に真剣に取り組みはじめる。美術学校の入学試験は落ちる

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長兄のガストン(ジャック・ヴィヨン)が、マルセルの素描の「師」だった

▶(1)からの続き:マルセルは7年間通うリセ・コルネイユで(10歳〜17歳まで)、兄たちと同じく、ルーアンの美術学校でも教えていたフィリップ・ザシャリーからいわゆる正統的な素描の基礎を習っています。ザシャリーはパリの官展にも大作を出品していますが、印象派以降の目立った流行には保守的でした。この美術教師ザシャリーのお眼鏡にかなった同級生はすでに町で個展を開く者もいましたが、マルセルのリアルな「師」となった者は、長兄のガストンでした。マルセルは数年後、世紀末パリ・モンマルトルの片隅で「ジャック・ヴィヨン」として知られはじめる兄の素描のスタイルを「真似」してみせています。ジャック・ヴィヨンは「ル・クーリエ・フランセ(フランス通信)」や滑稽新聞「ル・リール(嘲笑)」の変わり者の編集長に挿し絵を売り込み、何度も掲載されていますが、それだけでは食べていくことはできていません(父からの毎月150フランの仕送りは続いていた)。しかし、兄ジャック・ヴィヨンが顔つなぎとなって、後にマルセルはそれらの雑誌や新聞にかなりいい値で挿し絵を描くことになります。ちなみに兄の「ジャック・ヴィヨン」という名前は、道徳を風刺する滑稽新聞への仕事で、公証人の父が困惑するのを避けるため、フランソワ・ヴィヨンという15世紀のフランス放浪詩人の名前から、兄がひねり出したアーチスト・ネームです。

14歳、「絵」に真剣に取り組みはじめる。最初の題材は、妹シュザンヌの姿

マルセルが真剣に絵に取り組みだしたのは、14歳(1902年)の年でした。春の復活祭の休暇で帰郷したマルセルは、妹シュザンヌの何気ない姿を水彩や鉛筆で描いています。これもやはり兄ガストンの素描スタイルを真似たものでした。そしてその翌年、マルセル15歳の年の夏、マルセルは初めて油彩をもちいた絵を描きます。最も早くに描いたのは、自宅の裏手から眺めた風景で、水たまりに映る樹々や草地は当時マルセルが好きだったモネ風の印象派ぽいタッチでした。よく最初期の油絵として紹介される「ブランヴィルの教会」は、地元の教会を描いたものでした。
しかし、マルセルはこの後、2年近くも油絵を描くのをやめています。「素描」に力を入れていたようで、リセ・コルネイユの6年目には「素描」で一等賞をとり、最終学年(17歳の時)にはルーアン市の芸術振興協会の優秀賞を獲得しています。すでに3年前に芸術家になろうと心に決めていたので様々な技法を試していた時期でのことでしたが、すべて中途半端に終わってしまっていたというのがマルセルの実感でした。高校を卒業する直前の17歳の年齢としては、おそらくこの時のマルセルと同じくらいの能力を示している若者は、どの分野にも、またどんな時代にも存在したことでしょう。デュシャンは、17歳の時、後に言われるような「天才」ではまったくありませんでした。また、それ以前の少年期においても「神童」などと呼ばれることもなかったのです。

美術学校の入学試験は一次試験で落とされる

一定の短期の徴兵期間を終えたマルセルはパリへと向かい、アカデミー・ジュリアンに入学しています。この17歳の一年間、滑稽新聞などに挿絵や漫画を描いていた長兄ジャック・ヴィヨンと過ごし刺激を受けていますが、アカデミーの方は因襲的で刺激のない場所でした。マルセルは午前中は学校に足が向かずビリヤードをしていたといいます。結局、アカデミーにいても意味がないと1年でいったん辞めてしまいます。おそらくはこの時、マルセルは美術学校の入学試験を受けています。ところが裸体の木炭デッサンが課題ででた一次試験で一発で落とされています。仕方なくマルセルはアカデミーに通いだしています。兄ジャック・ヴィヨンが顔つなぎとなった滑稽新聞に「漫画」や「挿絵」を描いて売っていたのもこの頃のことです。
ここで少しばかり詩人で同じくパリに出てきたアルチュール・ランボーと比較すると興味深いものがあります。マルセルが「絵」に真剣に取り組みはじめた年と、ランボーが詩人たるべく”意識”した年は、どちらも同じく「14歳」の時。ランボーは自身は「詩人」であると自覚したのが16歳、そして17歳の時、「酔いどれ船」を書き上げて、10歳年上のヴェルレーヌに招かれてパリに出放し、「天才」的詩はパリの詩人たちを驚愕させています。マルセルも17歳の時、パリに出放しますが、そこには12歳年上の長兄ガストン(ジャック・ヴィヨン)がいました。ただ兄はヴェルレーヌと違い、まだまだ試行錯誤を繰り返していました。リトグラフや彫刻も手がけていましたが、挿絵描きを脱っし、広告ポスターを手がけアルフォンス・ミュシャロートレックらのポスターのようにパリの町角を賑わせるのはもう少し後のことです。さらにキュビズム(ピュトー・グループ)に向かい、まだ若いメッサンジェやレジェらと出会っていきます。

マルセル24歳の時、長兄ガストン(ジャック・ヴィヨン)を通じて、新たなキュビスムを目論むアーチストたちと知り合いになっていきます。詩を捨てたランボーが、アレキサンドリア行きの船に乗りこみキプロス島で働きはじめていた年でした。マルセルも芸術上の「旅」にいよいよ出航しはじめます。24歳の時、『コーヒー挽き』や『車中の悲しい青年』『チェスをする人々(チェス・プレイヤー)の肖像』を生み出し、「独身者たちによって裸にされた花嫁ーのための最初の習作」にとりかかりはじめるのです。そして翌年の25歳の時、『階段を降りる裸体』『処女』『処女から花嫁のへ移行』『花嫁』などを怒濤のごとく一気に完成させていくことになります。

詩人ジュール・ラフォルグから影響を受けた作品のタイトル

じつはデュシャン(以降、マルセル表記をデュシャンに移行)がこうした絵画としてはかなり珍しいタイトルをつけるようになったのは、ある詩人からの影響でした。フランスの象徴主義後期の詩人ジュール・ラフォルグウルグアイ生まれ。「月とピエロの詩人」と呼ばれる。『聖母なる月のまねび』『伝説寓話』、散文詩『伝説的教訓劇』など)でした。ジュール・ラフォルグは、デュシャンが生まれた1887年に27歳で亡くなっています。
デュシャンが一瀉千里に名作を世に生み出すようになった24歳から25歳にかけ、デュシャンに最も刺激し影響を与えていたものの一つは、美術ではなく「文学・詩」だったのです。『急速な裸体に囲まれた王と女王』とか『高速の裸体に横断された王と女王』(共に1912)のタイトルの、皮肉的が効いていてユーモアがあり、何処か虚無的に響き、しかし愉快にさせる、こうしたセスは美術からはでてこないのです。
デュシャンはラフォルグの詩そのものよりも「表題」をいたく気にいっていました。風刺雑誌「ル・リール」に「漫画」や「挿絵」を描いていた素描の多くにすでにラフォルグの影響がみられるといわれていますが、それは「皮肉っぽさ、機知に富む、道化じみている、すねた性格」の人物が素描で描かれたものだったのです。加えて興味深いのは、描かれた人物のキャラクターや人生観はその頃の<デュシャン自身の姿>を映し出してもいるのです。デュシャンを虜にしたラフォルグの『伝説寓話』(散文作品)は、シェイクスピアの「ハムレット」を皮肉たっぷりにラフォルグ流に”翻訳”したもので、『急速な裸体に囲まれた王と女王』などのタイトルにつけられた「王」は、ラフォルグ流の皮肉溢れる「ハムレット」(ハムレットデンマークの王子です。恋人がオフィーリア)であり、デュシャンが少年時代から遊んだチェスの駒「キング」や「クイーン」でありました。『チェス・プレイヤーの肖像』(1911年)というそのものずばりの作品は24歳に描いていますが、この段階ではまだ「キング」や「クイーン」にチェス盤上での「運動」が欠けています。デュシャンは、この「運動」のコンセプトを十二分に吸収した上で、翌年の『階段を降りる裸体』や『処女』、『急速な裸体に囲まれた王と女王』に取り組んでいくことになります。そして20世紀初頭にあらわれた「次元(4次元)」のコンセプトが別の方角からデュシャンを刺激します。パリに出て来てから25歳までのデュシャンを”高速に横断”してしまったので、次回は少し”駒”を戻して、デュシャンの20代前半の人生の<盤上>をもう一度みてみましょう。▶(3)に続く