エドヴァルド・ムンクの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 父は皆をランプの下に集め北欧伝説を語り聞かせた。5歳の時、母亡くなりムンク家の調和が崩壊する

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はじめに:「悪夢を克服する道」としてのムンク

ミュージアム・グッズの代表格として世界中で販売されているエドワルド・ムンクの『叫び』。耳に両手をあてていることから分かるように、橋の上の男が叫んでいるのではなく、叫びに耐えかねて両耳を塞いでいる。つまり叫んでいる者は描かれていない。その絵を見ている私たちかもしれないわけです。表現主義の作風として知られるムンクの絵画は、かなりの長い間、前衛主義のモダニズムからもアカデミズムの保守的立場からも無視されてきたといいます。
「死」「内省」「不安」「メランコリー」「苦難」ばかりが描かれた初期作品群、そして「叫び」「生の不安」「マドンナ」「接吻」「別離」へといたり、大作の「歴史」「太陽」に向かったムンクムンクが80歳で死去した7年後の1951年、ロンドンで初めて開催された「ムンク回顧展」で、画家のココシュカがエッセイのなかで画家ムンクのその状況を一変させたといいます。形而上学な眼差しと宇宙的感覚との影響について論じた後にココシュカは、「悪夢を克服する道」を指し示したムンクを語りました。ムンクは「心を打ち明ける必要に迫られてできあがってくるような芸術でなければ私は信じない」と語っています。ゆえに画家ムンクの絵画は「日記」となっています。その絵画「日記」が、絶体絶命の「悪夢を克服する道」となっていることを知った時、ムンクの『叫び』は私たちの心の内に届き、映し出されるのです。『叫び』は「鏡」だからです。

ノルウェーの精神文化に貢献する旧家と、強靭な”船乗り”の遺伝子が結ばれる

エドヴァルド・ムンクEdvard Munch 表記はエドワルド・ムンクもあり)は、1863年12月12日、ノルウェーの南東部、スウェーデンに接するヘドマルク県にある町レーテンに誕生しています。レーテンは13世紀にレーテン教会を中心に、ノルウェーの東西に貫く道に通じていたため交易も多く、ムンクが生まれる1年前には列車が開通し交易センターになっています(最も現在の人口は7千人程ですが、ノルウェーの全人口は500万足らず)。
このレーテンの地で、ムンク家は由緒ある旧家として知られ(高級官吏の家系)、司祭(聖職者)、官吏、士官を多く輩出していました。興味深いのは、聖職者や士官でありつつ、画家や詩人になった人が親族の中に何人もいることです。19世紀初頭のノルウェーアンピール様式時代の代表的肖像画家となったヤコブムンク(1776〜1839)はムンク家の親族にあたり、工兵将校から画家に転じパリに出て画家ダビッドに師事した人物です。教会監督(ビショップ)にして詩人としても活動したヨハン・ストルム・ムンクも親戚の一人で、その子供は後期浪漫派の詩人で劇作家(教授となっている)として知られたアンドレアス・ムンクでした。なかでも最もノルウェーの精神文化に貢献したのは(ムンクの家系は全般的に精神文化に対する関心が深い)、伯父(父の実兄)のペーテル・アンドレアス・ムンク(P.A.ムンク)で、ノルウェーのすぐれた歴史学者となりました。彼の研究・業績は歴史に留まらず、ノルウェーの地理・考古学・民俗学言語学にまでわたっています。北欧神話の翻訳者としても知られる人物です。
さてエドワルド・ムンクの父クリスチャン・ムンクは、軍医となりますが、どうもそのじつ船医としての仕事に長く就くはめになったようです(現在の首都オスロもヨーロッパの海事知識のセンターで、造船会社・船主・船乗りが数多い)。26歳の時にはニューヨークに向う移民船の船医として、その後に地中海を航行する船の船医となっているからです。船医として外洋の仕事が長かったためか結婚するのは遅く44歳の時でした。妻ラウラ(カトリーネ・ビョルスタ)は、クリスチャンより20歳も年下の24歳でした。ラウラの父は長年ノルウェーの海岸を航行していた強靭な船乗りで(後に商人として店を構え、2度の結婚で20人もの子供を産ませている)、船医の仕事に理解があったにちがいありません。
後に自身も病弱だったムンクが重いリューマチ熱を克服しながら、新しい絵の制作に立ち向う際、身体の奥底から力と勇気が溢れ出てくるのを感じる時、「その力は、船乗りに負っているにちがいない!」とよく語っていたといいます。また母の父(祖父)の勇敢な死に際のこともよく覚えていて、ムンク家の血筋と同様に船乗りの血統を誇りにしていたといいます。
もし父が思わぬかたちで長く船医に就かなかったら、母や母の父に出会うことも(男として)認められることもなかったでしょう。陸の由緒ある旧家と、荒々しい船乗りとの出会い。死と病と悲嘆のなかでも、身体の奥底、魂の源流から沸き上がる力と勇気。画家ムンクの「マインド・ツリー(心の樹)」の”根”の半分は、峻険なフィヨルドをかたちづくった荒々しい波と海に晒(さらさ)れているようです。暗く陰鬱な土壌においてもムンクの”根っ子”が倒れながらもなんとか根腐れすることなくもちこたえれたのも、船乗りの<遺伝子>があったからでした。


ノルウェーヴァイキングノルウェー(ノース人)のヴァイキングは、9世紀にアイルランドに進出しダブリンを建設し、ケルト人たちを引き連れ当時まだ無人島だったアイスランドに乗り込んで定住しています。10世紀にグリーンランドを発見したのも彼らでした。アイスランドは11世紀以降700年余、ノルウェーデンマーク支配下に置かれますが、歌手のビョークが「私たちは700年もデンマークの植民地になり、その間ダンスや音楽の演奏は許されなかった」と語っているように、無人島時代から植民していたノルウェー人はケルト人とともに民主的な合議による自治(世界最古の民主議会『アルシング』930年発足)を実施していたので、『アルシング』を無視したデンマーク(デーン人)のヴァイキングのやり口に、ビョークは噛み付いているわけです。また10世紀頃に(コロンブスより500年余前)、アイスランド人のレイフ・エリクソン北アメリカ大陸を”発見”していることが今日では証明されています。ちなみにあの破天荒な山本モナさんの父は、三光汽船の外国航路に乗船していたノルウェー人の船乗り(航海士)。やはり船乗りの遺伝子は生命力に富む。

父は子供たちをランプの下に集め、北欧伝説を上手に語り聞かせてくれた

父と母は結婚すると、一家はレーテンの町外れにあるエンゲルハウゲンという農場に居を構えています(母方の祖母は農業に従事)。ムンクが誕生した1年後に、ムンク家はノルウェーの都会クリスチャニア(現在の首都オスロ)に移り住みます。実際に移り住んだのはクリスチャニア東端の下町で、父はそこで開業医としての仕事をはじめることになります。しかしこの時代、開業医としての仕事は楽なものではなく、ムンク家の経済状況はつねに厳しいものだったといいます。

しかし、そんななかでも父は子供たちを燈油ランプの下に集め、英国のウォルター・スコットの小説(『アイヴァンホー』などがある』)や伯父のペーテル・アンドレアス・ムンクの著書『北欧神話と英雄伝承』、それにノルウェーでは不滅の名著といわれる『ノルウェー民衆史』を朗読しました。幼いムンクもまだ内容はよくわからなくても耳を傾けていました。なぜなら父は大の話し上手で、小さい子が楽しめるよう北欧伝説を上手に語り聞かせ、時には怖いお化け話もしてくれたのです。すべて父の話に共通していたのは、「空想」と「歴史的記憶」が豊かに入り交じった<生活の物語>でした。それはムンクにとってどれほど忘れがたいものだったか後年語っています。
父は子供たちだけでなく、他の人とのつき合いのなかでも、教養が高く歴史面での造詣も深いだけでなく、会話も弾む人だったといいます。ムンク家の親族たちには、顎髭をたっぷり生やした父は家長的な存在感があり、愉快で快活で、場の雰囲気を盛り上げる人と映っていました。少年ムンクは、その父から人間的資質や教養など受け継いでいるといわれます。一方、母ラウラはやさしく繊細で、芸術的感性が高かったようです。母の影響で、ムンク少年だけでなく、5人の子供たちは皆、絵を描くのが好きになっていったのです。

ムンク5歳の時、母亡くなり、ムンク家の調和が崩壊する

ムンク家の幸福は、母の肺病によって影がしのびより、母の死によってムンク家の調和的な世界は突然崩壊してしまいます。少年ムンク5歳の時のことでした。母の病は当時の国民病といわれた肺結核でした。医者だった父は無力感に苛まされ、物思いにふけるようになり、閉じこもるようになり、明るかった父は無口になっていきました。家庭から楽しい雰囲気はまったく消滅してしまいました。それまで子供たちと一緒に遊んでくれ、本を読んでくれて、話し上手だった父の姿はもはやどこにも見いだせません。そしてまるで性格が入れ変わってしまったように、世間に背を向け、偏屈になり、時に狂ったように子供たちを折檻するようになってしまいます。小さな頃から非常に感じやすい気質だったムンクにとって、母の死はもちろん、父の精神的崩壊や、日常の変化は、他の子供たちにまして重大な影響を与えることになります(一般的伝記では父の豹変ぶりが描かれますが、確度の高いスー・プリドー著『ムンク伝』では、度を越した信仰心が発作になり子供たちにひどい体罰を加えたが、母の死以降も我を忘れるほどの発作に襲われない時は以前のように物語を語ってくれたり子供のようになって一緒に遊んでくれたりしたといいます)。

「病気と狂気と死が、私のゆりかごを見守ってくれた黒い天使の群れだった。以来、彼らは、私に一生つきまとってきた」と後にムンクは述懐しています。

開業医としては、ムンク家の遺伝子でもある敬虔(けいけん)な心を失うことなく、自分の人生を犠牲にするかのように貧しい人々を癒し、奉仕しつづけていました。少年ムンクは父と喧嘩をすることが多くなり、家でを飛び出したりしていました。真夜中にこっそり戻ったムンクは、父が独り跪(ひざまず)いて一心不乱に祈りを捧げている光景を見ることになるのです。母の死、すっかり変わった家庭、父の祈り、すべてが後にムンクの手によって描かれることになります。

叔母(母の妹)が、少年ムンクが「画家ムンク」になる<産婆役>に

子供たちの相手をしなくなった父に代わって、叔母(母の妹)のカーレン・ビョルスタが暗い雰囲気を少しでも明るくしようと子供たちの世話をするようになります。叔母はそれまでにも、ムンク家が経済的にどん底にまで陥った時、風景画を描いて、その上に蕨(わらび)や小枝をあしらって絵画に自然なものを合わせたつくった風景画をつくっては町で売り(そうしたコラージュ的風景画が当時壁飾りとして流行る)、その場を切り抜けさせるような芸当を発揮していたのです。母と同様に、叔母(母の妹)も芸術的感性があったのです。母から教えられた絵描きが、絵を描く楽しみが、こうして叔母によって継がれることになります。そしてこの叔母カーレンが、少年ムンクの絵の才能に気づき、画家としてのムンクの将来性を確信するのです。後に父に一方的に送り込まれた工業学校を辞めて、少年ムンクが「画家」になる道筋をなんとか見つけだそうとした時にも、この叔母カーレンが一役買っています。叔母カーレンはムンク家にとって母代わりになっただけでなく、少年ムンクが「画家ムンク」になる<産婆役>にもなったのです。▶(2)に続く