エドヴァルド・ムンクの「Mind Tree」(2)- 12歳の時、名家の名残りもなく侘しい団地アパートへ引っ越す。診療室と子供部屋は同じだった


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12歳の時、みすぼらしい団地アパートへ引っ越す。5度の引っ越し。診療室と子供部屋は同じだった

▶(1)からの続き:ウィキペディアなどでムンクの生涯のはじまりを「父は医師で.....名家の生まれであった」と要約してしまうと、ムンクの魂も同じように「要約」されてしまう感じをもってしまいます(要約はあくまで要約、効能はまた別にあります。一つのワールドモデルとして)。では、実際に「父は医師で」とはどういう環境にあったのでしょう。このことは少年ムンクの「心の樹」の様子に直結していくことなので、おろそかにできないところです。父は当時、軍医であると同時に開業医をしていましたが、患者を診る診療室はなんと姉やムンクや妹弟たちの寝て暮らす場所と共用になっていた部屋だったのです。つまりムンクたちにとって診療室が自分たちの部屋だったことになります。その部屋では手術も執刀されています。手術の間は、カーテン代わりの敷布を引いて部屋を仕切って使っていました。赤痢コレラが瀰漫する中で少年ムンクたちは暮らしていたのです。こんな診療室は山本周五郎の『赤髭診療譚』(江戸時代中期の小石川養生所が舞台)や、それを原作に、しかも後半部分にドストエフスキーの『虐げられた人々』や『貧しき人々』を取り込んで映画化した黒澤明監督の『赤ひげ』に登場する診療室ですら、こんなに酷くはありませんでした。母を襲った結核菌もうじゃうじゃ入り込んでしまったわけです(結核菌は1882年に細菌学者コッホが発見しているので、まだ肺結核が感染する病気だとは考えられていなかった。後に姉も同じ病に倒れるが、その時はコッホが結核菌を発見した後だった)。
信仰心とはこういう状況下でいっそう強力になるもので、父も母が亡くなってから狂信的なほどまでに信仰にうったえだしています。人生は死に至る試練であり、最後の審判の日にそなえて人間が試される、というのが敬虔主義者(ルター派、信仰の内面化を主張)である父の考えでした。しかも父は医者でしたが血を見るのが苦手で、手術では手が震えてしまうのです。
ムンクが12歳の時からムンク家は「漂流」しはじめます。名家の名残りすらこの段階でほとんど消えます。工場労働者や都市貧民たちが暮らす(それはまた彼らの病気や怪我をすぐ近くで診療するためでもあったが)川沿いのみすぼらしい団地アパートにカーレン叔母さんともども引っ越したのです(裏手には牧歌的風景を見ることができ、そこにはもはやムンク家の手のとどかなくなった邸宅が垣間見えた。けれどもムンクはそうした家々を描くのだった)。さらに向こう12年間の間に5度も同じようなむさ苦しい古アパートへ移り住んでいます。どのアパートでもすきま風が入ってくる壁の穴に、ぼろ布や片方だけになった靴下を詰め込んでいたといいます。ムンク家のかつての高い社会的地位からの大転落です。父はつねに頭痛に苛まされるようになります。それでも父が読書をする傍らで、少年ムンクや姉たちは一心不乱に絵を描いていました。ムンクよりも姉のソフィエの方が画才があったといわれています。

13歳、美術協会展でノルウェーの傑作風景画を見て、模写しはじめる

当時のノルウェーの都会では無料の義務教育がはじまっていましたが(1848年から)、父はなんとか息子たちを評判のある大聖堂付属学校に通わせます。ムンクは成績も良く奨学金の支給を得たのですが、健康不良による欠席数があまりにも多く退学を勧告されます(ムンクは腺病質の体質だったため冬が来る度に、喘息や気管支炎、リューマチ熱がひどくなった)。娘たちも有力な女子校に通わせますが、家計がもたなくなり退学と復学を何度も繰り返すことになります。少年ムンクは退学後、家で勉強するようになります。家庭教師を雇う余裕がムンク家にあるわけがなく、学校帰りに寄ってくれた友達がその日に学校で学んだことをムンクに教えたのです。父も穏やかな時は教師役を務め、叔母さんも手伝ってくれました。また従兄もお昼ご飯をご馳走になるかわりにラテン語やフランス語、数学をムンクに教えています。
画家カール・フリードリヒ・ディリックスに嫁いでいた父の妹イェッテが、病気がちなムンクのクリスマス・プレゼントとして『北方の偉大な画家たち』という画集を贈っています。ノルウェーではまだ商業画廊も国立美術館もなく、少年ムンクは実際の美術作品を目にしたことがなかったほどで、画集は少年ムンクを刺激しました。結成間もないノルウェーの美術協会の会員になった画家ディリックスは、年に一度開催される展覧会に13歳になる甥のムンクを招待します。少年ムンクにとり、このことはあらゆる意味で大きな出来事だったといいます。ムンクノルウェー風景画の父ヨハン・クリステゥアン・ダールやノルウェーの優れた風景画を直に目にすることになります。それ以降、ムンクは美術協会展に欠かさず通い、気になった風景画を次々に「模写」しています。
ただ一度だけ、少年ムンクは建築家になろうとします。それは父が連隊付き外科医としての回診で(こうしたことが軍医としての父の例年の仕事だった)、フィヨルドを越え北方の平原にある田舎での任務に、ムンクの療養を兼ねて連れて行った時でした。兵隊さんや田舎の人、浮浪者たち、見るものはなんでも描きましたが、建築物を描いた時にふと建築家になってみようと考えたようです。

最も身近で一致団結していた姉の死が、少年ムンクを深い衝撃に陥れる

少年ムンクの「マインド・ツリー(心の樹)」のすぐ後ろには、1歳年上の姉ソフィエの優しい「心の樹」があり、ムンクをいつもいたわっていました。ソフィエは、女らしく思いやりがあり、慈悲深く辛抱強い女性でした。ムンクは姉のなかに母の存在、母の命を見いだしていました。母が亡くなって以降、叔母カーレンが子供たちの面倒をみてはいましたが、姉ソフィエとムンクの強い鉾の前では叔母も一家に完全に同化することはできなかったのです。つまり2人には母の記憶がくっきりとあり、下の弟妹には母の記憶がなかったのです。また人目につくほどに魅力的だった姉は人気者で、人付き合いがよく、少年ムンクは女性だけの集まりについていくこともありました。少年ムンクは姉の友達に憧れていましたが極度の引っ込み思案で話しかけることすらできませんでした。
そんな姉ソフィエが母と同じく肺結核に罹り容態が悪化し(ムンクの方がつねに微熱があり病弱だったので早く亡くなるかもしれないと医者の父はおもっていた)、ムンク14歳の時、亡くなります(1887年)。母に次いで唯一無二の姉を失ったことは、少年ムンクに凄まじい衝撃となって襲いかかり、ムンクが亡くなるまで生涯ついてまわることになります。少年ムンクの「心の樹」は、根こそぎもぎ取られまるでフィヨルドのように奥深くショックが心に浸食していきました。しかし少年ムンクの魂は、喚き叫んだり神を呪うことはなくなっていました。心と体が小刻みに震えつつもむしろフィヨルドの峻険な地形を映し出す「鏡」のような静かな水面に似ていました。少年ムンクを穿(うが)った精神の地形は、そのフィヨルドのような険しい姿を終生変えることはなかったようです。姉ソフィエが息をひきとった椅子だけは、ムンクは亡くなるまで手放すことはありませんでした。▶(3)に続く