ボブ・ディランの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- スタンダード・オイル社の経理担当だった父の言葉は「暗号」にしか聴こえなかった


『タイム』誌のインタビュアーをやり込めるディラン

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はじめに:ディランの<詩>のこと

20世紀、音楽的にも文化的にも最も影響力のある人物の一人につねに選ばれるボブ・ディラン。ディランの伝記作家の一人は、ディランをモーツァルトシェイクスピアディケンズピカソフランク・ロイド・ライトらと同じくらいに位置づけられる存在だと語り、詩(歌詞)の面でも、T.S.エリオットやキーツ、テニソンに匹敵しておりもっと研究に値すべきだと。事実、1996年には「ノーベル文学賞」にノミネートされ、2008年には卓越した詩による作詞で「ピュリッツァー賞特別賞」が授与されています。今やあまりにも有名すぎ、まさに生きた伝説と化してしまっているディラン。私たちはディランの歌の何を知っているのでしょう。いつか何処かで聴いた”あの曲”は、私たちの内で”追憶”だけになってしまっていないでしょうか。ディランをあまりにも知らなすぎているかもしれません。もうすぐ70歳をむかえるディランは、現在も年間100公演もこなす「ネバー・エンディング・ツアー」の真っ最中です(日本では2010年春におこなわれた)。そしてディラン自身の「マインド・ツリー(心の樹)」の<言の葉>を、<詩>を、サウンドにのせて世界中の人々に伝えています。
半世紀にもわたるディランの驚異的な活動は、極めて高いレベルの<詩>の力で支えられてきました。そうした<詩>はディランの「心の樹」の中で、いったいいつ頃、どのように、生み出されたのでしょう。そしてディランの「心の樹」が必要としたのは、なぜ<詩>であり、そして「音楽(初期はフォークソング)」だったのでしょう。それはもの凄い深い理由があるはずです。それでなくては、年間100公演の「ネバー・エンディング・ツアー」など絶対にプランニングできないはずだからです。知ってられる方があれば、以下は読む必要はありません。

父方の祖父母はトルコ出身のユダヤ人。ロシアのオデッサから米国に移住

ボブ・ディラン(Bob Dylan 本名:ロバート・アレン・ジマーマン-Robert Allen Zimmerman:ヘブライ語名Shabtai Zisel ben Avraham)は、米国ミネソタ州ダルースにある聖メアリー病院で、1941年5月24日に誕生しています。ミネソタ州は、「1000の湖の州」の愛称があるほど州内に湖水が多く、州の北東側に位置するディランが生まれたデルースの町は五大湖スペリオル湖に接しています。この場所を住処として選んだのは、ディランの祖父母で、それはポグロムユダヤ人迫害)で追い出されるようにして去ったオデッサ(旧ロシア帝国内、現在はウクライナにある。ロシア革命の中心人物トロツキーは少年時代からこの町で学び、エイゼンシュテイン監督の映画『戦艦ポチョムキン』に描かれた反乱はこの町で起こるなど、歴史的に極めていわくのある町。黒海に面している)の水辺のある風景と気候に似ていたからでした。「キルギス(中国に接する中央アジアの国と民族の名。かつてはモンゴル、後にロシア帝国に併合された)」という家名をもった祖母の一家は、かつてアルメニア国境に近いトルコの町カギズマンに暮らし、オデッサには黒海を渡って行ったといいます。祖父の両親(曾祖父母)もアルメニア国境に近い同じ地方の出身で皮革加工の仕事に就いていたようです(その地方では大半の人が靴づくりに従事していたという)。また祖母の方の祖先もトルコ出身で、中世から近世にかけ東洋と西洋を結んできた歴史的な都市コンスタンチノープルに住んでいたといいます。
ディランにとってこの祖父母の存在の影響を予想以上に大きく、ディランの「マインド・ツリー(心の樹)」の見えない根の端が、祖母がいつも歌っていた「イン・ア・ターキッシュ・タウン(トルコの町で)」の歌の響きとともに、遠い海の向こう、空の果てにまで、もの凄い長さで延びていたのです。ディランは祖母の歌い、語る声のアクセントが少年の頃から現在にいたるまでずっと「耳」に残っているといいます。そして多難な人生の痕が祖母の深い皺に刻みこまれていたのをディランは覚えています。若い頃はお針子をしていた祖母には、片足しかありませんでした。祖母が住んでいたのは、不気味なスペリオル湖が見える二連式住宅の最上階で、よくディランは両親に車で祖母の家まで送られ数日間、祖母と一緒にいたといいます。祖母が歌う先の歌の中、「神秘的なトルコ人と空の星〜」という歌詞とリズムは、ディランには皆が歌っていた「ラ・バンバ」よりも惹かれたし、なぜか自分の感覚と波長に合うような気がしたといいます。

父はロックフェラーが創立したスタンダード・オイル経理担当

父エイブラム・ジマーマンは、子供の頃からダルースの小さな町の親密なジューイッシュ(ユダヤ人の)・コミュニティに属していたといわれています(母ビアトリスも若い頃そのジューイッシュ・コミュニティに属していたようです)。ジマーマン家には兄弟が5人いました。エイブラムは子供の頃から働きだしたようです。エイブラムは彼の両親のように、人生とは辛く苦しいものだと絶えず思っていたといいます。エイブラムが若い頃、どんな仕事に就いていたかはわかりませんが、ダルースの町は19世紀後半に鉄道が開通し鉱業が興り、USスチール企業城下町のごとく目まぐるしく発展していった町です。各地からかなりの鉱山・港湾労働者が流入していたので選ばなければ仕事はかなりあったとおもわれます。おそらく鉱山・港湾関係の仕事に就いていたとおもわれますが、ある時、奮起して夜学で経理の勉強しはじめるのです。
勉学に勤しんだかいあってエイブラムは、なんとアメリカ最大の石油精錬会社で、世界最初の巨大多国籍企業となるスタンダード・オイル経理部に就くのです。スタンダード・オイルとは無慈悲な企業戦略で知られることとなるあのジョン・D. ロックフェラーが1870年創設したモンスター・カンパニーです。エイブラムが就職した頃には、すでにニューヨークに進出しロックフェラー・グループは絶大な”間接権力”を握っていました。
ちなみにジョン・D. ロックフェラーの父はかつて健康薬品などの行商人で、ジョン・D.本人も若い時分に商業専門学校で複式簿記・商法を習得し、農産物を扱う小さな商社に就職し(16歳)、そこからロックフェラー帝国をつくりだしていきます。ジョン・D. 自身、アクの強い商売センスは父から継いでいます。しかしすべてを我がものにしようとするその企業スタイルは、勇気ある女性の著『スタンダード・オイルの歴史』(イーダ・ターベル著 1904年)など各地から批判が高まり、1911年に合衆国最高裁判所が解体命令を出し、30以上の新会社に分解されはしますが、実業界から政界にいたるまでロックフェラー・ファミリーの影響力が衰えることなどありません。
父エイブラムは、当然そのことを知っていた上で入社しているはずです。そしてじつはダルースの鉱山・港湾関係のすべて(鉱石運搬船から製鉄会社まで)はロックフェラーによって保有されていて、USスチールはロックフェラーから売却された事業だったことを知れば(つまりダルースの町全体がいつの間にかロックフェラーに鷲掴みにされていた)、父の選んだ道は別の視点から見なくてはならなくなるかもしれません。同じユダヤ移民でも、ロシアや東欧から来た者たちはかなりの困難に直面している事実。ディランは父が「人生とは辛く苦しいものだ」とよく言っていたと記憶しています。しかし父は次第にあくなき現実主義者となり金まわりもよくなり暮らし向きは変わっていきました。そんな父と息子ディランの言葉や感性はもはや交わらなくなります。

父の助言は味気なく、「暗号」のようにしか聴こえなかった

ディランは自伝『ボブ・ディラン自伝』(ボブ・ディラン著;菅野ヘッケル訳 ソフトバンク・クリエイティブ 2005年)の後半(283頁)で、父のことをさらりと明かしていますが(この自伝本はおよそ通常の自伝の構成と異なる)、父が病を患ってからもビュイック・ロードマスターに乗って(ビュイック社はミシガン州フリントで設立されている)、自身の生まれ故郷で幼馴染みもいるダルースに、ディラン少年を乗せて何度も行ったというくだりがあります。ビュイック・ロードマスターは、当時の大衆車フォード・カスタムなどとは大違いで、アッパー・ミドル・クラスが乗る高級車なのです。「風に吹かれて」のディラン少年がそんな高級車に乗っているイメージはありませんが、高級車はおそらく父の念願の所有物であってディラン自身のものではない、というだけのことです。父エイブラムは息子に機械工学士になって欲しいと考えていて、小さい時からいろんな助言をしてくれていたといいますが、父の口から放たれる言葉はディラン少年にはまるで「暗号」のように聴こえたといいます。計算機が打ち出す数字の羅列のようだったかもしれません。それほどお互いにやりとりする「共通の言葉」が失われてしまっていたのです。
父エイブラムは、ディランが誕生した時には、すでにスタンダード・オイル(「スタンダード」とは、ばらつきのあった他の会社の製油をすべて取り込んで一様に標準化してしまえ、という意味でつけられた)で働いていましたが、シカゴのあるイリノイ州の東側にあるインディアナ州(シカゴの巨大都市圏。名門シカゴ大学自体、小さなバプティスト派カレッジだったのを、ジョン・D.ロックフェラーが献金で大改築し事実上創設している)のインディアナ支社に赴任していました。不思議なことにディランの自伝には存在感の無い父と同様、母ビアトリスの存在も父以上に薄いのです。祖父母のことについてあれほどディラン自身も書いているにもかかわらず母方のことはほとんどふれられていません。祖母は肌の色があさ黒かったのに、母方は色白だったという具合に。そして自伝には、「母にはトルコ人という苗字(Turk)のネリー・タークという友人がいて、ディランは子供の頃、いつも彼女のそばにいた」とあります。子供の頃いつも、母のそばでなく、母の友人のそばにいた、というのはどういうことでしょう。かなりミステリーじみているように感じてしまいます。母はある頃からその友人にディランの養育をまかせて、父のいるインディアナポリスに向ったのかもしれません。

幼い頃、列車の走る「音」と教会の鐘の「音」を聴くと心が落ち着く

ディランは幼少の頃から、なぜか列車の走る「音」と教会の鐘の「音」を聴くと、心が落ち着いたといいます。列車に関しては、遠い列車の音を聴いているのが心地よかっただけでなく、動くものが好きだったディラン少年は(子供の頃はたいがい誰もがそうだったりするが)、列車を見るのも大好きでした。貨物車、客車、寝台車、鉄鋼石運搬車、なんでも好きでした。一方、祖母の家に行くとよくあちこちから聴こえる「霧笛」の音は、逆に心がざわついたようで、祖父母が辿って来た困難な海の道をディラン少年の心に、無意識のうちに想像させたかもしれません。ディランはスペリオル湖を不気味で不吉な感じがしたと語っています。
ウィキペディアでは、ディランは少年期のほとんどをヒビング(母の故郷)で過ごし、ダルースは生まれた町とだけにされていますが、ディラン6歳まで住んだ生まれ故郷なれば、生育環境としていろんな影響を受けるものです。6歳から移り住んだ鉱山都市ヒビングもそうですが、ダルースでもさまざまな列車が走っていました。町のどこへ行くにも踏み切りで止まり、長い列車が通り過ぎるのを目をきょろきょろさせて待ったものでした。ディラン少年に列車の走る「音」が刷り込まれたのも、ダルース時代からだったのです。ダルースには、USスチールの製鉄所やセメント工場などが林立し、20世紀初頭から工業都市の様相を呈していたのです(人口はなんと19世紀後半にはニューヨーク港を上回りアメリカ最大の総貨物取引量を誇る港湾都市になっている。1869年にはわずか14家族しか存在しなかったが、世界有数のメサビ鉄山が近郊で開発され瞬く間に工業都市に。20世紀初頭には新聞社が10社もできている)。
ディラン5歳の時(1946年)、弟のデビッドが生まれます。そして6歳の時に、ジマーマン一家は父も含めて、母の両親が住むヒビングに移り住みます。それは父が急性灰白髄炎(通称ポリオ)を発症し、身体が不自由になり、スタンダード・オイルを辞めることになったからでした。ヒビングは生まれ故郷のダルースから北西に120キロも離れていますが、ディラン少年は、遠い列車の「音」を聴いていると、故郷と同じ地続きの場所にいるんだという感覚になり心が落ち着いたといいます。▶(2)に続く