ブライアン・ジョーンズの「Mind Tree」(3)- 18歳の時、一時、石炭運搬人、工場労働者、赤いバスの車掌になる

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14歳の女の子を妊娠させ、父に国外に放り出される

▶(2)からの続き:ブライアンが一流女子校の14歳の女の子を妊娠させた噂が、良識と体面の町チェルトナムを揺るがせました。すでに別れていた女の子も姿を消し出産に踏み切り、生まれた男の子を後に養子に出すことになります。ブライアンは相手の家族はもちろんのこと、クラスメート(大半は度肝を抜かれた)、学校、地域住民から非難の目を向けられ、破廉恥の化身ブライアンは家での居場所もなくなります。相手の女の子の父親が心労から病に倒れ、父はブライアンをチェルトナムからだけでなく、国外に出るように旅に出させます(つまり当面の間、放り出した)。
ブライアンは僅かばかりのお金と誕生日に手に入れたばかりのギター(3ポンドのスパニッシュ・ギターの模造品)を手に、ドイツからスウェーデンノルウェーへとこれまで経験しなかったような悲惨な旅に繰り出すことになります。酷い宿に泊まりヒッチハイクしながらの旅暮らしでしたが、1週間もするとブライアンの挫けそうな心に変化をもたらしたのです。ブライアンはビストロやバーなどで演奏するうちに、その自由さと、自分ひとりでなんとかやっていく自身を深めるのです。

1950年代の後半には、ロンドンではじまったコーヒーバーのブームはチェルトナムにも飛び火し、若者が屯(たむ)ろする格好の場所になっていました。イギリスから離れて数週間後、ブライアンは人知れずチェルトナムに戻り、ジュークボックスのあるチェルトナムのコーヒーバーに音楽好きな仲間たちとともに入り浸ります。そこでロンドンの噂のジャズクラブと「フィルビー」の情報を得、ブライアンは足繁く通います。
1960年秋(18歳)、ブライアンは「チェルトン・シックス」という地元のジャズ・バンドに加わり、あちこちのバーで演奏し小遣いを稼いでいた(結局、まだ親のスネをかじる状況にあった)。昼間は人目を避けるように暮らしていても夜はとことんブライアンのものでした。アクアマリンの瞳とルックスとギターテクニックは、女性をとりこにしないわけがありません。ジャズ・コンサートに来ていた23歳の人妻との間に子供ができます(彼女の夫が関係を断つことを条件に子供を引き取っている)。それから数週間後に、不安定ながら関係が続くことになる同じチェルトナム出身のパット・アンドリュースと出会っています。

18歳の時、一時、石炭運搬人、工場労働者になる

18歳のクリスマス直前(1960年)、ブライアンはついに仕事に就きます。その年、父はブライアンを非難するのをやめ、音楽の道ではなく、職に就くよう諭(さと)しつづけていたのです。ブライアンは石炭の運搬人になりました。石炭のつまった袋を担いで家々に届ける仕事でした。3日しか続きませんでした。つぎに働いたのは工場でした。朝っぱら、迎えのトラックにみなで乗り込んで、工場に向うのですが、ある日、走行中のトラックの事故を幸いに(歯を一本折った)、仕事を止めてしまいます。
まったくさえない状況の中、音楽に興味をもち個性がひかるパットとの仲は進展します。パットはチェルトナム生まれでしたが、両親は元々ロンドンの労働者階級出身で、町のスノッブさに一家全員とけ込めないでいました。パットは頭の良い子でしたが、両親にはカレッジに行かせるだけの余裕はなく町の薬局で働いていました。パットはブライアンのルックスよりも頭脳と情熱に惹かれたといいます。とにかくパットに限らず、初めて会った人たちにブライアンは強烈な印象を与えたといいます。パットは次第にブライアンが音楽以外は惨めな思いで暮らしていること、気持ちの揺れが激しい人だということと同時に、ジョーンズ家で食事をとった時、ある奇妙さを感じとっています。食事の手順から部屋のものすべたがあまりにもきちんとしていて、パットにとってブライアンの母も部屋も感情がまるでないように感じたというのです。それは感情をいつも「閉じ込め」ていたブライアンが育ったまさにその部屋のように感じたのです。

せっかちで落ち着きがない、短気で、音楽以外はまるで無責任だった

一方、音楽にのめりこんでいったブライアンは、「ラムロッズ」という別のバンドでアルトサックスを演奏しはじめます。この頃、ブライアンは、チャーリー・パーカーの後を継ぐアルトサックスプレイヤーのキャノンボール・アダレーレイ(後にマイルス・デイビスの名アルバム『カインド・オブ・ブルー』に参加)に魅了され、レイ・チャールズジョニー・キャッシュを聴きまくり、つねに新境地をひらいていこうとしていました。パットはブライアンの音楽に対する衝動の深さと探求心の強さは理解していましたが、せっかちで落ち着かない性格、短気で、嫉妬しやすく、癇癪(かんしゃく)をおこしてはものを投げつけるので(パットも投げ返したが)、喧嘩別れはしょっちゅうだったといいます(数時間内にブライアンがいつも謝る)。
とにかく音楽が唯一の関心事、それ以外のこは好きになれないし、まったく責任がもてない(他の人にとってはあまりの無責任さとなる)、グロースター州カウンシルの設計部門の仕事に、おおいに歓迎されながら就いた時も、遅刻ばかりか姿を見せない日もあったようです。それでも心のどこかでは両親の期待に応え、やはりふつうに仕事に就きふつうに生活を送ろう、しかしやっぱりボクにはできない、という感情の亀裂。仕事場への出勤への拒否反応。チェルトナムレコード屋でアルバイトしていて、お金をくすねてしまい追い出されてしまったブライアン。このたった2年後(20歳の時)に、ブライアンは「ザ・ローリング・ストーンズ」という名をバンドに与え、バンドを組み、魅力に満ちた驚異的なバンドを生み出すのです。

いったいその2年に、18歳から20歳の間に、何が、どう起こったというのでしょう。なぜ世界的なロックン・ロール・バンドの「組織者」にブライアンがなったのでしょう。ブライアンでならなくてはならない理由があったのでしょうか。もしそんな理由があったとしたなら、それは何だったのでしょう。しかし、18歳頃のブライアンの「マインド・ツリー(心の樹)」の裏半分は、亀裂が入りひび割れてしまっていました。しかし音楽に対する「マインド・イメージ」だけは、それを補ってあまりあるほど強烈だったことは音楽への入れ込み方からみてとれます。この時期、まだ学校に通っていたキースやミックと比べても、ブライアンにはもはや完全に「音楽」しか希望を抱くものがなくなっていましたし、他の仕事に就いて働くことが自分にはできないことを体験し、強烈に自覚していたのです。悟ってすらいたはずです。おそらくあらゆる仕事で、「組織者」になる者というのは、およそそうしたマインドに到達した人たちが成すものなのです。新たなイギリスの音楽シーンの顔役だったアレクシス・コーナー(ブルース・インコーポレイティッドのリーダー)は、初めて会ったミックの印象はまったく覚えていないが、ブライアンの印象はあまりに強烈だったと語ってきます。

ブルース・ギターを独学でマスターするなか、町を走る赤いバスの車掌になる

これ以降、ブライアンにとって「ローリング・ストーン」を結成するまでの2年間は、時間の法則が間に合わないような期間だったようです。「ザ・ローリング・ストーンズ」というバンド名を拝借することになるブルースミュージシャンのマディー・ウォーターズ(彼に「ローリング・ストーン」という曲がある)やボ・ディドリー、さらにはハウリン・ウルフ、ジミー・リード、エルモア・ジェームズらのサウンドの虜になったのもこの頃で、スライド・ギターの方法も含め、ブライアンは彼らが奏でるブルースを独学で吸収していきます(英国人で初めてスライド・ギターをマスターしたともいわれる)。そして英国でのブライアンのヒーローになっていたブルース・ミュージシャンのアレクシス・コーナーのチェルトナムでのコンサートに狂喜乱舞して出かけ、ステージ後にバーに向ったアレクシスにブライアンは、何かをぶちまけるように自己紹介するのです。
しかしまだ先は見えません。こうしたなかブライアンはなんとチェルトナムの町を走る赤いバスの車掌(運転手ではなく)になっているのです。もちろん本人の意思で就職しようとしたわけでなく、10歳程年配の知り合いでバス会社に勤務するジョン・アップルビーが(ブライアンの両親とも親しくなっていた)、両親からの依頼で動いたのです。なかばアップルビーに脅されて面接に向ったブライアンは見事、面接をパスしてしまうのです(当時バス会社は給料が安く人材難だった)。ブライアンはその年になっても電車やバスなど乗り物が好きだったのも功を奏したのでしょう(死去する時に住んでいたコッチフォード・ファームの庭には、実物の古いバスが置かれていました)。他の仕事よりもバスの「車掌」の仕事は続きました。しかしブライアンが「車掌」をつとめるのは、赤いバスではなくやはり「バンド」だったのです。▶(4)に続く-未