ボブ・ディランの「Mind Tree」(2)- 英文学の教授から教えられた「放浪のバラッド」が、<自分の一部>のように感じられた

人気ブログランキングへ

幾つもの湖を越えて探検に出、自転車競争し、ゴム鉄砲を撃ち合い、カーニヴァルをみる少年時代

▶(1)からの続き:少年ディランを迎えいれた新たな町ヒビングは、世界一の露天掘り鉄鋼床がある鉱業都市でした。実際の住処は、ヒビングを走る鉄道線路を越えたすぐ近くにありる小さな町レトニアでした。この頃レトニアは、少し足をのばせば「1000の湖の州」の愛称があるミネソタ州ならではの原始時代を彷彿とさせる多くの湖と鬱蒼とした森がひろがっていました。少年ディランは、夏には鏡のように静まりかえった幾つもの湖を越えて探検に出たり、湖水に飛び込める絶好の場所を探して泳いだり、釣りをしたり、ツリーハウスをつくったり、氷点下になる冬には、皆でアイスホッケーやバンパー乗り(車の後部バンパーにつかまって雪上を滑る遊び)をして遊びまくります。夏が巡ると、今度はゴム鉄砲を撃ち合い、エアガンやBBガン(22口径の本物の銃で缶や鼠を撃ったりした)を撃ち、自転車競争をし、トラックのストックカーレースに興奮し、毎年何度もサーカスやカーニヴァルミンストレルショーも観に行くのです。1日にどれだけ多く遊んだことか。1日を皆の2倍感じるくらいに。
とにかくやること、なすこと、食べるのも話すのも、歩くのも考えるのも、少年ディランはすべてにおいて速いのだだった。そして後の歌うことも。ひとに何かを伝えるには、心の速度をゆるめなくてはならないと後に感じるようになったといいます。

バンドのメンバーはいつも「縁故」のある誰かに奪われていた

10代になると、少年ディランの頭の中を「英雄」と「死」のことが駆け巡るようになります。英雄的に戦って死ぬ自分の姿を何度も像するようになります。大部隊を率いる将軍になるのだ。そうすれば将軍になれるんだろう。ウエストポイントに入学しなくてはならないのか(陸軍士官学校 United States MIlitary Academy。ニューヨーク州エストポイントにある米国で最も古い士官学校。はじまりはジョージ・ワシントンがつくった要塞。かのエドガー・アラン・ポーは入校するものの義務怠慢で軍法会議にかけられ放校)。少年ディランは父にウエストポイント入学のための方法を尋ねると、父はショックを受けてしまいます。ウエストポイントに入るには縁故や充分な身分保証が必要で、姓に血筋が貴族である証である「デ」や「フォン」がついていなくては入学は難しいと教えてくれました(身体が不自由になった父はこの頃は、電気屋になっていたようです。母は主婦に。『ボブ・ディラン自伝』)。叔父はあっけらかんと、「政府のために働く必要はない、政府のモルモットになるなら鉱山で働いた方がいいんだ」と突き放しました。
この時、少年ディランの内で、「縁故」や「身分保証」という言葉に妙にいたたまれなくなり、そうした事実がこの世の中にあることに心をゆさぶられたといいます。そして「縁故」の問題がある時、少年ディランに襲いかかってきました。15、6歳頃(1950年代半ば。ハイスクール入学後)にはディランはバンドをつくって公園や屋外の催事場、アマチュア演芸会などで演奏しはじめていましたが(お金はまず出ません。歌える場所の確保だけ)、バンドがかたちになりうまくいき始めると、バンドをもっていない歌い手がしゃしゃりでてきてバンドを何度も奪っていったのです。そして披露宴のパーティーやホテルの宴会場などで演奏しお金を得て、バンドメンバーにも渡していたのです。そうした歌い手たちは、商工会議所など町に顔役と「縁故」があったのでした。父が言っていた「縁故」が音楽活動でもおこったことに少年ディランはショックを受けます。そしてこの世で一番信頼する祖母にうったえると、「そういう人がいるのもこの世の中。ほおっておきなさい」と諭(さと)されるのでした。そしてこの時からディランは、いつも一緒にやってきたバンドであっても、必ずなくなってしまうものだということを覚えた。けれども少年ディランはバンドをつくりつづけました。多くはうまく運ぶことはなかったのですが、思わぬことも起こることも覚えたのです。
ある日、少年ディランは、アイスホッケーからサーカス、家畜見本市、説教師の伝道集会などあらゆるイベントが開かれる州兵訓練用体育館のロビーで、バンドと一緒にて歌っていました。そして少年ディランもファンだった当時輝くばかりに名を馳せていたレスラー、ゴージャス・ジョージがロビーの演奏が耳に入った時、少年ディランに「いい感じ」だとウィンクしてよこしたのです。その時のバンドはいつものように、誰かにもっていかれてしまいましたが、少年ディランはゴージャス・ジョージのウインク一つで勇気百倍になり、ひとりであっても演奏して歌う技術と方法を身につけようと考えはじめたのです。ボブ・ディランが、フォークシンガーとしてひとりで歌い演奏するようになったのは、こうした背景があったのです。

ミネソタ大学に入学してすぐエレクトリックギターを、アコースティックギターに変える

18歳の夏、ディランはミネソタ大学の奨学金を得ることに成功します。少年ディランは家にはもう二度と戻らないという気概で、グレイハウンドバスに乗り込みミネソタ州最大の都市ミネアポリスに向かいました。つき合いもなかった4歳年上の従兄(とても優秀な人物だった)が大学の友愛会の会長になっていました。ディランは大学の友愛会学生寮にある二段ベッドと机だけがある小さな部屋に泊まることになります。ハイスクール時代に少年ディランは、ジャック・ケラワックの小説『路上』やアレン・ギンズバーグ、ローレンス・ファーリンゲッティの詩集を読んでいて、そうした詩や小説の中に描かれた大都会の匂いや空気、サウンド、スピード、ジュークボックスに、はじめて接っし追想したディランだったが、むしろ同じビート詩人のグレゴリー・コーソがうたった詩「爆弾」が放つ感覚に近いものを感じたといいます。活気と雑踏、完全機会化された世界の裏側に潜む旧弊な原理原則と価値観、鋭敏な少年ディランは、沸騰するゴールデン50sの都会の中で、荒れ果てた「希望」しか見いだせないでいたのです。
大学に入ってすぐ、少年ディランは自身には無用になったエレクトリックギターを、アコースティックギターの「マーティン-00-17」(2、3年このギター1本で演奏する)に換(か)えました。楽器店がエレクトリックギターを同額で引き取ってくれたのです。大学があるディンキータウンにあるレコード店で、少年ディランの「フォークソング」漁りがはじまりました。最初にみつけたのは女性シンガーのオデッタのもので、店で流してくれた彼女のハンマリング・オン・スタイルの演奏を耳に叩き込み、少年ディランは演奏スタイルをちゃっかり「盗み」ました。

ついで少年ディランは同じものを求めている仲間を探しはじめました。レコード店と同じ通りにあるビート派の若者たちが蝟集してくるカフェで自分と風貌が似ている痩せた男に出会いました。海兵隊を除隊し、復学し航空工学を専攻していたジョン・コーナーで、彼もギターを弾くことがわかり意気投合します。コーナーはディランよりも早くからフォークミュージックの世界に入りこんでいて、数多くの歌を知っていました。二人は一緒に歌を歌うようになり、ディランが知らない曲はハーモニーをつけながら歌い、多くの歌を学びました。コーナーのアパートには少年ディランの知らないレコードがいくつもあり、最初にニュー・ロスト・シティ・ランブラーズの服装から歌い方、サウンドにはまります。それ以外にもデイヴ・ヴァン・ロンクやペギー・シガーを初めて聞き、アラン・ローマックスのカウボーイソング「ドニー・ギャル」を自分のレパートリーにしました。魔術的で鳥肌が立つような声をもったジョン・ジェイコブ・ナイルズや、ブラインド・レモン・ジェファーソンやトミー・ジョンソンなどブルースも繰り返して聞いて世界をひろげていきました。

「放浪のバラッド」を蒐集する英文学の教授から埋もれたブルースを教えられる

ジョン・コーナーは自身多くの歌を教えられた英文学教授のハリー・ウェバーにディランを引き合わせます。ハリー・ウェバーは「放浪のバラッド」を幅広く数多く蒐集し研究していた人物でした。悲惨なエピソードを含みものからロマンチックめいたラブソングまでどれも意味深く、趣きのある歌で、歌詞は伝説的にして神秘な領域にまで達しているものもあり、少年ディランは圧倒されます。誰にでも分かる既知の言葉、昔にも今にもある言葉で、その簡潔な言葉を組み合わせて、ここまで独特の世界を表現することができるのかと。味気なく、不自然でまるで「暗号」のように聞こえた父の言葉とは大違いでした。歌詞には、農場労働者から船乗り、床屋や女主人、兵士に女工といった日常的な人物がわんさか登場し、なかには親が決めた結婚相手にキスをするのよと母が娘に言いくるめている内容のものもありました。少年ディランはそれらの歌を自分とほとんど距離を感じることなく歌うことができたといいます。まるで<自分の一部>のように感じることもあったとさえ語っています。
なぜ少年ディランは、そうした歌がまるで<自分の一部>のように感じえたのでしょう。それはカントリーブルースが町から町へ伝わり、人々が往来してきたハイウェイ61号線は、ニューオーリンズからメンフィス、そしてセントルイスをぬけ、少年ディランが生まれたディランの生まれたミネソタ州のダルースの町を通ってカナダ国境までのびていました(1991年に廃線とダルース以北は歴史的「ハイウェイ61」の名を残すようにミネソタ州道61号線に)。そして「放浪のバラッド」やブルースだけでなく、ハイウェイ61号線沿いの伝説(虜になっていたエルヴィス・プレスリーが生まれ、マーティン・ルーサー・キングが殺害され、ベッシー・スミスが自動車事故で逝き、ロバート・ジョンソンが悪魔に魂を売り渡してギターテクニックを手にいれた)や南部の文化が、ハイウェイ61号を上るかのように北上してきたのです。ハイウェイ61号線は、少年ディランにとって、それは樹の枝葉が太陽の光に向うように、「心の樹」が向う方角であり辿るべき「道」であったのです。重苦しい故郷の暮らしからの「自由」と「独立」の<シンボル>、それが「ハイウェイ61」だったのです。
名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」や「廃墟の街」(アレン・ギンズバーグの影響がある歌)がはいったディラン6枚目のアルバムで、ロック史を塗り替える創造力と革新性をもち、ディランをビートルズと並び称される存在にしたのが傑作アルバム『追憶のハイウェイ61ーHighway 61 Revisited」でした。自由で冒険心に満ちた少年ディランの行く、風が吹く「道」を、見守って並走してくれたのが「ミシシッピー川」でした。アメリカ最大の川のミシシッピー川も少年ディランの故郷ミネソタ州を源流にしていたのです。それは古くから「魂の流れ」、ブルースの「血流」でした。少年ディランの「心の樹」は、大きな「魂の流れ」に樹根を浸し、音楽と文化と風の「道」を辿りはじめるのです。▶(3)に続く