ジミ・ヘンドリックスの「Mind Tree」(3)- 「電気」に興味を持ちラジオを分解したジミ。後に「エフェクター」を多用した理由

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「電気」に興味を持ちラジオを分解したジミ。エレキ・ギターを欲しがる

▶(2)からの続き:ジミは、エレキギターを知る以前から「電気」に興味を持っていたようです。まだ幼い頃、家にあったラジオを、なかがどうなっているのか仕組みを知りたかったため、分解してしまったことがあります。父アルにこっぴどく怒られましたが。あのチベットダライ・ラマ14世(現在のダライ・ラマ)も、幼い頃、飛行機や自動車などの機械仕掛けの玩具を「分解」したり、ポタラ宮殿で暮らすようになってからは古い映写機や腕時計までも「分解」し、電池や「電気」の原理を知ろうとしたといいます。2人ともどこか共通する強い「好奇心」があったのでしょう。おそらくどこの国の学校の、どこのクラスにも必ず一人や二人は、いろんなものを分解りしたり組み立てたりメカにおそろしく関心があるひと頃の「アキバ系」の少年はいるにちがいありません。最もその好奇心がどのように活かされるのかは関心領域の幅によっても大きく異なるにちがいありませんが。
ジミにとってはそれは「エレキギター」へと向いていきました。すでに欲しかったギターを手にしていたわけですが、そのギターの音を「電気」によって変化させ増幅できるとなれば、ジミが欲しくないわけがありません。実際、欲しくて、欲しくてたまりませんでした。父アルはジミにせがまれ、1番街の楽器店で白色のスプロ・オザークのギターを買うはめになりました。父も音楽にはうるさい方だったもで、息子のジミと一緒に演奏をしようと自身サキソフォンも購入しています。2人は仲睦まじくギターとサキソフォンでかけあって演奏しました。ただ、ジミはすぐになにかが足りないことに気づきます。「電気」で音を増幅できるはずなのにちょっとも電気音が鳴りません。アンプが無かったのです。仕方なくアンプ無しで練習しましたが、すぐにうってつけの場所で練習するようになります。
この頃ジミは、シアトルの黒人クラブに顔をだしています。そうしたイキなクラブは、ユニオン・ストリートとジャクソン・ストリート、マディソン・ストリートに囲まれた地区にたいていありました。空港近くの99号線沿いにはスパニッシュ・キャッスルというビッグバンド・ジャズが聴けるクラブがあり、ジミも何度か聴きに行っています。後の「スパニッシュ・キャッスル・マジック」という曲は、その頃の熱い日々へのオマージュです。

後に、なぜジミは音を変化させる「エフェクター」を多用したのか?

間もなくジミはある家に毎日のように通うようになります。ダンス・パーティで演奏をしていたロッキング・キングスというグループのリーダーのジェームス・トーマスの家でした。そこにはジミがまだ持っていない「アンプ」があったのです。ジミのエレキギターとそのアンプをつなげると「電気」が走り、ジミの全身を貫くのでした。ギターの「音」と「電気」。ついにジミの関心の的だったこの二つが合わさったのです。そして実際に「ジミ・ヘンドリックス」というミュージシャンが、大音量でディストーション(電気的ノイズ)を掛けた音を演奏に大胆に持ち込んだ先駆けの人物となったことを知ると、このことは極めて興味深いものとなります。ステージ上でもスタジオでも、ジミは音質を”電気的”に変化させるエフェクターを使用していますが(音を歪ませるファズや音を波立たせるユニペダル、音質を連続的に変化させるワウペダルをとことん研究し実験していた)、ジミの「電気」への取り憑かれたような探究心がなければ決してそこまでのめりこまなかったはずです。その時、ジミは「エレクトリック・フィールド(電界)」に遊んでいたはずです。ちりちりの「エレクトリック・ヘア」になったのもうなずけます。
ジミが「エフェクター」で探求し実験していたことは、映画監督のスタンリー・キューブリックが、「カメラの動き」に異常なほど関心を向け、新しい装置まで考えだし、それが「映画撮影の革命」にまでなっていったことと似ています。実際にもエフェクターの設計者だった人物が、ジミのアドバイザーでした。エフェクターの設計技師すら想定していなかった驚くべき音をジミは生み出していたといわれ、結果エレキギターの可能性を拡張していくことになります(Wikipedia参照あり)。
ジミの「マインド・ツリー(心の樹)」は、「エレクトリック・フィールド(電界)」のなかで、つねに「感電」するように震え、その”根っ子”は、幼い頃、ジミが好きだった「フラッシュ・ゴードン」にあらわれる深宇宙につながっていったにちがいありません。ジミは、「エレクトリック・ジプシー」となったのです。

17歳の時、最初のギグは州兵の軍事教練場だった

ジミがメンバーになったロッキング・キングスは、楽器の腕に覚えのあるティーンエイジャーたちの憧れのグループで、トーマスの家は若いミュージシャンたちの溜まり場になっていました。父アルはやるだけやってみるんだ、と言ってくれ、ジミは練習とリハーサルに明け暮れしたといいます。ロッキング・キングスのギタリストのユリシーズ・ヒースから、ジミはエレキギターの基本的なテクニックを習得し、お互いの音のアイデアを交換しあったりしました。
ジミーの最初のギグは、17歳の時(1959年)でした。ロッキング・キングスのギタリストとして、シアトル郊外の小さな町ケントにある州兵の軍事教練場で、コースターズの曲を演奏しました。ギグは大成功だったといいます。何度かギグするうちに、ジミは観客の前でプレイにあたってある重要なことに気づきます。日々の練習やリハーサルでは考えもしなかったことでした。それはどうやってお客をノセれるのか、ということでした。ジミは少年の頃通ったペンテコスタル教会(世俗の楽器を持ち込んで来てくれた人たちを楽しませていた)で見ていたことがフラッシュバックしました。その記憶と、ジミが気になっていたビッグ・ジェイ・マクニーリーというサックス奏者のステージでの姿が重なったのです。ビッグ・ジェイ・マクニーリーはステージ上で海老反りになってパワフルにサックスを吹いていました。そしてジミには、その「意味」がはっきりとわかったのです。誰がなんと言おうと。

マディ・ウォーターズら「ブルース・ギタリスト」をレスペクトする

ビッグ・ジェイ・マクニーリーの姿が脳裏に焼き付いている頃、ジミはある「ブルース・ギタリスト」に入れあげていました。マディ・ウォーターズでした。大分前に彼のレコードを聴いたことがありましたが、この頃にはその凄さが分かり心からレスペクトしていたのです。マディ以外にも、B.B.キング、ジミー・リード、エルモア・ジェイムス、ジョン・リー・フリッカーらさまざまなタイプの「ブルース・ギタリスト」のギター・サウンドを聴いていて、ジミのエレキギターの中に、いろんな音のアイデアが搭載されていきました。
ジミは大好きなブルース・ギターだけでなく、あらゆる音楽に耳を向けていました。ブギのピアニストのロスコー・ゴードンやシンガーのボビー・”ブルー”・ブランドの音楽はいつもジミを熱くしていました。ジミは耳に入るあらゆる音には演奏のアイデアがあるという感覚を抱いていたのです(両親たちが日々聴いていたチャールストン、ジルバ、イーグル・ロックなどを忘れるわけにはいかない)。さらにどんなギタリストの演奏に耳をかたむけ、いい所を見いだして自分のものにしていったのです。地元のギタリストのギター・ショーティー(ウェスト・コーストのブルースを得意とする)からは、観客をギターで煽る方法を学んでいます。ジミ・ヘンドリックスの天才性には、耳に入るすべての音にオープンになり、どんな音もスポンジのように吸収する姿勢と継続がもとになっていたのです。
ロッキング・キングスは、ジミがメンバーになった1959年から、ギグの度に評判を勝ち得ていきました。翌1960年には「バンド・オブ・ザ・イヤー」のコンテストでなんと全米中第2位になっています。そしてバードランドでのティーンエイジャー・ダンスの定期演奏で、ロッキング・キングスはブレイクするのです。

アクロバティックなギタープレイと「道化」のこと

ジミが聴衆の前でアクロバティックなギタープレイを見せた最初は、ロッキング・キングスが催したピクニック場でのギグでした。それは2000人以上の観客を集めたそれまでで最大のギグの時でした。頭の後ろや股間でギターを弾くジミのパフォーマンスに観衆は熱狂します。ジミは屋外ステージで突っ立って演奏するばかりのプレイは、とくに黒人の観客にはブーイングものだということを知っていました。アクロバティックな演奏はブルース・ギタリストの「ショウマンシップ」からきているものでした。ミシシッピーのギタープレイヤーたちは、集まって見に来てくれた観客を楽しませるのが自分たちの使命であり、ミュージシャンであると同時に、ギターを持った「道化」であることを感じ取っていたのです。
ロッキング・キングスは名をあげた後、問題を抱え解散することになります。核になるメンバーが残って結成された新バンド「トーマス&ザ・トムキャッツ」で、ジミはレギュラーのギタリストになります(それまでは時々リードをはさむベースパートだった)。新バンドは再びワシントン州のいたる場所で(時に空軍基地で)ギグをするようになります。この時期にジミは、その頃の音楽業界の鉄則を知ることになります。ミュージシャンへの支払いは一番後回しで、しかも一番額が少ないということでした。▶(4)に続く-近日up