フランシス・ベイコンの「Mind Tree」(2)- 「自分の本性にまかせて漂流し、どこに行き着くか試す」。「病理学」への関心。そしてピカソの素描から「啓示」を受ける 


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「本能」と「運」を重視していた少年時代

▶(1)からの続き:生まれつき「直感」の鋭い少年だったフランシスは、「運」が人生にもたらすものがあることを重視していました。ベイコン家が頻繁にアイルランドへ移住したり、また英国に戻ったり、英国内でも転居を繰り返したりしたことは、自分だけではどうにも暮らしてはいけまい一人の少年に「運」というものを考えさせずにはおられなかったのです。またもう一つ、少年フランシスが重要視したのが、「本能」でした。人間の根元、”根源”にある「本能」に関しては、後にフランシス・ベーコンは、たいがいの人間は”熟知”しない間に終わってしまう、と語っています。つまり”根源”がわからないのであるならば、自身の「心の樹」の姿形も推し量ることができない、ということでしょう。「マインド・ツリー(心の樹)」の方法が、意味を帯びるのは、自身が自身の”根源”に気づく時なのです。こうしていろんな人たちの「マインド・ツリー」を知ることは、翻(ひるがえ)って、自分自身の「マインド・ツリー」に思いを起こし、意識を向けることなのです。また同時に、自身の(家庭)環境に暮らす者(とくに子供)への影響力の大きさに気づくことなのです。少し大きくなった子供たちが、思い思いにいろんな事に好奇心を持ち行動をしはじめますが、友達やメディアからの影響が薄れはじめた時、子供たちを貫いていくものは、その子供の「マインド・ツリー(心の樹)」が映し込まれているもののはずです。時にそれが子供の根元、”根源”、つまりフランシス・ベーコンが重視した「本能」につながるケースがみられるかもしれません。

「自分の本性にまかせて漂流し、どこに行き着くか試す」

ロンドンにやって来たフランシスは、ロンドンの同性愛者の溜まり場を知るようになり、その世界ならではの流し目の方法も獲得していました。フランシスはかつて両親に醜いと言われて育ったのでしたが、ロンドンではそんな自分に魅力を感じ、「かわいい」とさえ思う人間がいることに気づき、ますます同性愛者の世界に入り込んでいきます。そして知り合った同性愛者を通じ当座の短期の仕事をみつけ、ロンドン暮らしをやりくりします。なかには競馬担当秘書の職もありました。馬と一緒にいるだけでも喘息が起こり顔が真っ青になるフランシスが、競馬がらみの仕事に就くというのも、まさに「マインド・ツリー(心の樹)」のはたらきとしかいいようがありません。幼い頃から放り込まれていた馬の「野生」は、フランシスのただでは転ばない強烈な「本能」を引き出していたのかもしれません。深層心理的な「獣性」への関心は、間歇泉(かんけつせん)のようにフランシスの内に噴出してくるもので、画家ムンク「叫び」とは異なる異様な「叫び」の表現に集約されていきます。
必要な生活費を稼ぐための仕事の他、実家の信託預金から週に3ポンドづつ降り込まれていました。母の取り計らいでした。しかしフランシスの快楽への欲望は手にしたお金だけでは間に合わなくなっていきます。ちょっとした盗みをしたり、部屋を借りては家賃を払う前に何度もとんずらしたりしていました。母に習っていた料理の腕で弁護士の使用人になったり、女性の下着の問屋で注文を受ける仕事もしていますが、すべて場当たり的な行動でした。ただそれは「自分の本性にまかせて漂流し、どこに行き着くか試す」というフランシス・ベイコン流の方法の実践だったといいます。両親はそんなフランシスの前途を思いやり、しっかりした人物で見上げた男の伯父のハーコート=スミスのベルリン旅行にフランシスを同行させるのです。ところが伯父のベルリン行きは悪徳を満喫するおしのびの旅で、伯父は豪華なホテル(ホテル・アドロン。かのエスコフィエが料理長をしていた)に泊まり男女関係なく手当たり次第にファックしまくったのでした。そしてそんな伯父がフランシスをベッドに引き入れるのは時間の問題でした。1920年代、ベルリンの夜は世界に冠たる「性の都市=バビロン」で、あらゆる性的嗜好や倒錯が試されていたといいます(170もの男娼の宿があった)。ロンドンやニューヨークでは同性愛は刑事犯罪になっていましたが、ベルリンではナチスが政権を取るまでは同性愛は違法だったものの寛容にみられていました。

バウハウスアヴァンギャルドなインテリア・デザイン、映画に関心を高めていく

フランシスは2カ月の間、ベルリンを堪能します。伯父の様に性の饗宴ばかりでなく、「漂流」するようにフランシスは、街の奥まで探索しベルリンの裏側にひろがる貧困を肌に感じ、屠殺場も訪れたようです。街に戻れば、都市と生活の外観を一変させていたバウハウス(1919年、初代校長グロピウスのもとに工芸学校と美術学校が合併し「国立バウハウスヴァイマル」が設立されていた。フランシスがベルリンに来た頃には、ヴァイマルバウハウスは閉鎖され、デッサウに移転。モダニズム建築などが世界中に影響を与え始めていた)や、勃興しつつあったアヴァンギャルドなデザインのインテリアを直に見ています。別の日には、フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』(1927年製作)やセルゲイ・エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』(1925年製作)を見ています。この時期、ベルリンは世界の映画産業の中心地で、フランシスをぐいぐい惹き付けたのでした。インテリアや装飾デザイン、それに映画、写真などのヴィジュアル・アートの斬新さは、フランシスの知的冒険心を高揚させずにはおられませんでした。17歳のフランシスはあちこちの美術館を見てまわり古典美術への関心も高めていきました。

展覧会のオープニングパーティーに紛れ込み、知り合いをつくる術

伯父はフランシスをホテルに残したまま女性と姿を消し、フランシスは残ったお金でパリに向かいます。パリは退廃的で重々しいベルリンと違い、華麗でエレガントさに満ち溢れていました。パリでフランシスは「漂流」を徹底させます。フランシスにとって「漂流」とは自分が育った環境からなるべく遠ざかることを意味していました。ドイツ語と同様、フランス語もまるでできなかったフランシスは、数件の安ホテルに投宿した後、内気さを押し殺して身につけていた洗練された大胆さである行動にでます。とある展覧会のオープニングパーティーに紛れ込み、知り合いをつくるのです。フランシスはピアニストで社交界夫人のイヴォンヌ・ボカンタンと知り合い、夫婦の住む優雅な邸宅の一室をあたえられ、夫人からフランス語も学ぶことになります。フランシスは洗練されたダンディーな服装に身を包み夫人につくし、興味を同じくする観劇や展覧会やコンサートに出かけました。そしてシャンティイ城でフランシスは、プーサンの作品「罪無き者たちの虐殺」を見るのです。その絵には、ベルリンで観た「戦艦ポチョムキン」の中でオデッサの階段で乳母が「叫ぶ」イメージと響き合うもう一つの「叫び」が描かれていました。時間と空間を超越した「叫び」がフランシスの「マインド・イメージ」に映し込まれていきます。フランシスは、「叫び」に取り憑かれるようになります(幼少期から馬の「叫び」は日常的に聞いていた。獣性の「叫び」=「本能」)。口腔病の医学書を見つけ出し、口の中の色彩に魅力を感じるようになります。フランシスは後にアトリエで、「叫び」を描く時にこの医学書を参考にしています。

「病理学」への関心。そしてピカソの素描から「啓示」を受ける

口腔病の医学書は偶然から見つけだしたものでなく、「病理学」への関心が時代精神に通じていたことが背景にあります。『シュールレアリスム革命』(1928年出版)には、「ヒステリー誕生50周年」と題されヒステリー患者の「発作」の写真が掲載されていました。フランシスはその「写真」を見たといわれています。ヒステリー症状の内でもフランシスはとくに「性的恍惚」の様子に無性に惹かれていたといいます。関心を深めた「叫び」をめぐるイメージに、病理学的な「性的恍惚」のイメージが加わってきたのです。
そして、ついにフランシスに「啓示」がもたらされます。その「啓示」はピカソの素描からやって来ました。フランシスはロゼンベルグ画廊に足を運んでいたのでした。しかし、キュビズム絵画の最新作の展示でもなかったロゼンベルグ画廊に、17歳のフランシスがわざわざ素描を見に向ったことじたい、もはや「運」だけではない何かを感じざるをえません。フランシスはピカソの生命の泉から溢れ出すイメージ群に、ピカソの「本能」を嗅ぎ取ります。その「本能」の表出の仕方に感激しているようです。つまり作品の見事さと同時に、その”根源”にあるエネルギーを外界にあらわすことができること、その「方法」を”発見”したのです。この2年後に、日本からやって来た岡本太郎が、同じようにピカソの絵画から、フランシスのようにピカソの「本能」を嗅ぎ取っています。
翌年(フランシス18歳の時)、ピカソは生物形態(バイオモーフィック)の人物像を生み出し、その前衛的な方法がさらにフランシスを大いに刺激していきます。フランシスはいてもたってもいられなくなります。絵画の基礎的な技法などほとんど知らないなか、とにかく自己流で素描や水彩画を描きはじめたのです。後のインテリア・デザインの時でもそうですが、フランシスは学校で基礎的なことをしっかり学んでから訓練し徐々にマスターしていくことは気質的に受け付けないようです。引っ越しや長引く喘息で初等の学校教育がいつも途切れがちで学校生活に馴染めなかったことが一つの原因だったようです。
ピカソのバイオモーフィックの人物像を見る前、フランシスはモンパルナスで過ごし、1920年代後半に巻き起こった新たなアートムーブメントを肌身で感じ取っています。世界中の芸術家や作家を惹き付けていた「ホテル・ドゥランブル」に宿泊していたこともありました(金銭的余裕のない知識人や外国人たちに好評な月極の割安料金設定があった)。娼婦の住処だったドゥランブル通りにある「ル・タンゴ」には、ヘミングウェイフィッツジェラルドが常連で顔を見せ、「カフェ・デ・ドーム」「ロン・ポワン」「クーポール」「セレクト」には、マン・レイが愛人の「モンパルナスの女王」キキを連れ立ってやって来ていました。キキの住居の隣は、日本から来た画家・藤田嗣治(つぐはる)のアトリエでした。藤田はヌードのキキを描いて「寝室の裸婦キキ」(1922年)がセンセーションを巻き起こしすでに名をあげていた頃です。フランシスはパリの文化のど真ん中で過ごし、芸術事情や文学に精通していきます。
美術雑誌の『カイエ・ダール』(フランシスがパリに来る前年に発刊)を手にすれば、そこにはベルリンで観た映画『戦艦ポチュムキン』の映画評が掲載され、ジョルジュ・バタイユが創刊した雑誌『ドキュマン』を買えば、そこには「叫ぶ」口の写真やベルリンで見たばかりの屠殺場の動物の屍骸の写真やレポート、さらにはミシェル・レリスのサド・マゾに関するエッセイが掲載されていました。『カイエ・ダール』で映画評を書いていたルイス・ブニュエルが、サルヴァドール・ダリと製作した『アンダルシアの犬』にも発奮され(ブニュエルの映画にはこの後つねに刺激を受けている)、オペラ座ではアベル・ガンスの『ナポレオン』を見ています。三つのスクリーンにそれぞれの映像が流される様は、後の3作品の連作となる「トリプティック」の形式に影響を与えていったともいわれます。心酔していたジェイムズ・ジョイスの新作『ワーク・イン・プログレス(フィネガンズ・ウェイク)』を英語の文学雑誌「トランジョション」で読んだのもこの頃でした。フランシスの「マインド・ツリー(心の樹)」は、17、8歳にして、ベルリンとパリの文化の坩堝(るつぼ)に”根”を浸し、強靭な幹と樹勢をもった姿形に大きく変容していったのです。▶(3)に続く-未