マドンナの「Mind Tree」(3)- 振付師パール・ラングの下でダンサーに

ミシガン大学ダンス科に奨学金で通う

▶(2)からの続き:ダンスの技術と表現力をレベルアップしたマドンナは、ミシガン大学でダンスの奨学金を得ることができ、ハイスクールを一学期早く卒業します。師フリンはマドンナが入学する時には同大学でダンス科(芸能学部)の教授職に就いていました。マドンナは他のダンサーに対抗心を燃やし、チューインガムを噛みながらクラスにやってきたり、レオタードをわざと切り裂き安全ピンでとめたパンク・ルックで踊っていたようです。ただダンスへの姿勢は真っすぐで、90分のテクニックの授業を2つとったうえ、演劇部にも出入りし表現力をつけるため2時間を稽古に費やすほどでした。
大学ではかつてニューヨークで女性ダンサーとして活躍したゲイ・グランデ教授にたっぷりと影響を受けます。男性優位の社会にフェミニストとして闘ってきたグランデ教授は、自分の信念を貫いて立ち向かっていくこと、「強さと忍耐力、不屈の反抗心」を伝授します。率直で自分らしさを失わないことを大切にし、「上品は意識をせばめる罠」だとマドンナは考えます。 
この頃、仲の良い女性の友達は、マドンナは母を失ったことからまだ立ち直っていないと感じたといいます。威勢がいいとおもえば傷つきやすく、いつも女性の存在に触れ、なにかと女性に世話してもらいたい素振りをみせていたようです。異性ではなく、母親がわりになる人を求めていたのかもしれません。 

モダンダンス界の巨匠マーサ・グレアムを師として仰ぐ

マドンナはモダンダンス界の巨匠マーサ・グレアムを人生の師と仰ぎはじめていました。ダンスは「魂の秘密の言葉」であるとするマーサ・グレアムに、マドンナは深く共鳴します。マドンナの「心の樹」に潜んでいたとらえがたいものを、マーサ・グレアムが適格にあらわしていたのです。「魂の秘密の言葉」としてのダンスーこの奥義を自身の内でつかんだ者のみが、厳しいモダンダンスの前線に立つことができます。マーサ・グレアムは、古典的なバレエの動きは人間にとって不自然で、すでに時代遅れでさえあり、歩く、走る、スキップするという日常的な自然な動作に着目した新たなをダンスに挑んでいました。こうした思考は、ダンスだけでなく詩や音楽、アート全般に起こりはじめていました。マドンナが学んでいた時期は、師たちが先導した大きな変化を享受する時代だったともいえます。それをどう受け止め、感じ、繰り出すかは、個人の感性と考えにかかりはじめていました。まだこの頃のマドンナは、マーサ・グレアムの新たなアメリカ女性の本質を表現しようとする自由なダンスにすっかり心を奪われるばかりで、エミリー・ディッキンソンやブロンテ姉妹の文学表現を作品に注入したり、フロイトユングの無意識をダンスに反映させていたマーサ・グレアムの試みはマドンナがそう容易(たやす)く理解できるものではありませんでした。

黒人男性振付師アルヴィン・エイリーの影響

マドンナにはもっと自由なダンスが似つかわしくアピールするものでした。それが黒人男性振付師アルヴィン・エイリーのダンスだったのです。アルヴィン・エイリーはアフリカの民族ダンスの舞踏術をモダンダンスと融合させ世界をあっといわせただけでなく、ゴスペルとロックンロールの要素を取り込んだ傑作「リベレーションズ」で知られた前衛的振付師でした。「ダンスをエリート主義者から解放し、大衆のもとに返さなくてはならない」と唱えるアルヴィン・エイリーは、スラム街や農村の人たちにも興味をもてるダンスをつくりだそうとしていたのです。後にマドンナがステージングで多民族構成のバックダンサーを起用するのはアルヴィン・エイリーの影響です。デトロイト郊外出身のマドンナにとって、そうしたアイデアや方法はむしろ自然に受け取れるものだったにちがいありません。

「魔法」の様なダンスフロアと一流のダンサーになる決意

ダンスフロアは、マドンナにとって「魔法」のような場所となりました。マドンナはナイトクラブで、アルヴィン・エイリーらに影響されたのモダン・ダンスだけでなく、ストリートダンス、ジャズ・ダンスとあらゆるダンスを繰り出しました。マドンナの「心の樹」は、その根元からまさに様々な動きのダンスをする<ダンスの樹>と化していったのです。チアリーディングやマリファナなどでは味わうことのない「自由」を感じたようです。
19歳の時(1977年)、マドンナはニューヨークの「アルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアター」で開かれる6週間の夏期ワークショップの奨学金を獲得し、ニューヨークに向っています。この時初めてマドンナは米国中から、そして世界中から成功を夢にてやって来た野心的な若手ダンサーたちに接し気圧されますが、マドンナは一流のダンサーになろうと意を新たにしました。
この頃、地元にいる時は、大学に通いながらマドンナはロッククラブ「セカンド・チャンス」でアルバイトをしていました。このちょっとしたアルバイトが、マドンナにある刺激と予感を与えます。マドンナは日替わりでステージに立つロックバンドを見ているうちに、知的で高尚に感じるコンテンポラリーダンスとは違う、ざわついたサウンドの世界を以前より好ましく感じはじめていました。ただ、まだその感覚は、マドンナの「心の樹」の裏側で当分のあいだ潜むことになります。

ニューヨークへ。父との絶交

憧れの振付師パール・ラング(マーサ・グレアムの元でソロリストをつとめたモダンダンス界の重鎮)が、ノース・キャロライナ州ダーラムで毎年開催される「アメリカン・フェスティバル・オブ・ダンス」にやって来た時、マドンナはダンサーに応募します。パール・ラングはマドンナのダンスの能力を評価し、選ばれたマドンナは積極的に自分をパール・ラングに売り込みます。パール・ラングの返答をよそにマドンナはニューヨークに行く決意をかためました。師フリンはマドンナを応援しますが、大学を中退することになるため父は「せっかくの奨学金を無駄にするのか」と立ち塞がりました。「私の人生に口出しするのはやめて!」とマドンナは壁に向ってパスタの皿を投げつけたといいます。マドンナと父はその後数年間、交信は途絶えます。
ニューヨークに着いたマドンナはコロンビア大学に通っていた友人宅に転がり込み、約束もないままパール・ラングのダンス・カンパニーに道場破りの意気で繰り出しました。幼少期にイサドラ・ダンカンのダンスに魅了されているパール・ラングは、高度な表現力と技術力を求めます。マドンナはそのハードルを乗り越え、正式に入団を認められました。マンハッタン西部のヘルズ・キッチンのアパートに引っ越して以降、マドンナは食費もままならず日々痩せていったといいます。パール・ラングはマドンナの意気を感じ、高級レストランのクロークの仕事を紹介し、まかないの食事をしっかり摂らせました。

バーガーキングダンキンドーナッツで、ヌードモデルのバイト

マドンナは実際パール・ラングが振付けした6つの作品に出演しています。そうした経験を通し、マドンナはさまざまな舞台セットのあるステージでダンスする楽しさや、エキサイティングな舞台をともにつくりあげること、大勢の人に見られるなか表現することの充実感を体験します。パール・ラングのステージの生の体験は、マドンナの「マインド・イメージ」を豊かで確かなものにしていきます。もっとも現実的な生活面では、ダンス・カンパニーの報酬はつねに少ないものだったので、生活費を稼ぐためにバーガーキングダンキンドーナッツで短期間のバイトを繰り返していました。当時ほとんどのダンサーたちは、副業をもたなくてはやりくりできず、トップレス・ダンサーとして別のステージに立っていました。知り合いに見つからないようにとニュージャージーまで行き、踊るのが定番になっていたようです。マドンナはトップレス・ダンスは一切しませんでしたが、ヌードモデルのバイトはしています。芸術写真でもあり実入りのいいバイトでした。

レイプされ、精神的な苦境に

ところが、マドンナはあることを境にダンスのレッスンに身が入らなくなります。ナイフを突きつけられた黒人にレイプされ、それがトラウマになってしまったのです(レイプに対する怒りが、後にセックスを徹底的に支配したいという欲求になった)。警察に通報せず自分の中だけにしまい込んだこともあり、精神的に苦しくなり、孤立無援の状態に陥ってしまったのです(数年後にセラピストに打ち明ける)。この精神的苦境が、マドンナを再びある場所に向わせました。ダンスクラブでした。厳しいダンスのクラスを終えて女友達と町のクラブに繰り出し、フロアを占領して踊りまくりました。偶然にコスト・オブ・リビングという地元デトロイト出身のバンドのドラマー、スティーブ・ブレイと知り合い、次第にスティーブのバンドの演奏先に出向いては踊るようになっていました。スティーブは当時のマドンナを”自然の猛威”だったと語っています。

パンク風ファッションを真似、アレンジ

おもいっきり自由に踊ると、恐怖や不安も極貧生活からくる疲れもすべて忘れさせてくれたのです。マドンナはあらためてこの心躍る場所と自分の相性に気づいたにちがいありません。そのことを知らないパール・ラングは「マドンナはポップ・カルチャーに気をとられていて、レッスンを億劫がるようになった」と後に語っています。マドンナはカンパニーを去ることを決断します。
20歳の時(1978年)、マドンナはガールズ・パンクバンドのザ・スリッツが好きになりライブに通っていました。ギタリストのヴィヴのファッションが気になったのです。ステージ衣装がランジェリーだったりボンデージ風だったりパンク風だったり、ドクター・マーチンのブーツに髪に巻き付けたイカした布。1970年代後半は、セクシャリティを前面に押し出す派手な女性は、まだ”変わり者”としてしか扱われていませんでした。後にマドンナはこのスリッツのファッションを取り入れ(真似)、自己流にアレンジしていきます。▶(4)に続く