カフカの「Mind Tree」(3)- サラリーマンになったカフカ


映画「審判-Trial」より(監督オーソン・ウェルズ 1962年製作:アンソニー・パーキンスジャンヌ・モローロミー・シュナイダー出演)

サラリーマンになったカフカ

▶(2)からの続き:カフカ23歳(1906年)の時、大学卒業試験をなんとかパスし法学士となりました。翌年、しぶしぶ就職活動を開始します。人脈がものをいうなか、カフカマドリードの伯父を通じマドリード総支配人に推薦人になってもらい、北イタリア・トリエステに本社がある「総合保険社」のプラハ支店に入社。カフカ、ついにサラリーマンになりました。ところが入社三ヶ月であまりで激務にめげ、薄給に苦虫を噛んだカフカは根をあげます。これでは人生台無しだと。
カフカはこっそり別の職探しをはじめます。翌年ギムナジウム時代の旧友に力を貸してもらい(旧友の父は財界の重鎮で労働者傷害保険協会理事長だった)、半官半民のボヘミア王国労働者傷害保険協会に仮雇い(臨時職員として)をとりつけます。仮雇いとはいえ例外的な採用だったようです。カフカは退職前にひっそりプラハ商業専門学校に通い「労働者保険講座」を受講し、名前と顔を売っていたようです(講師の半数が労働者傷害保険協会の幹部でした)。カフカの意外な側面がここにみられるかもしれませんが、大学での成績や当時の就職事情も計算にいれたカフカのなんとも用心深い行動が功を奏したのです。そして、その保険協会がカフカの終世の職場となります。
とにかくカフカの「心の樹」は、20代半ば近くになる頃にも、ギムナジウム時代と同様、控えめでまったくめだたなかったようで、他の大勢に樹の中に埋もれるようにひっそりと立っていたようです。しかしかつてのような半ば「死んだふり」して表面的に角を立てず実直に勤め上げたのは父への思惑と妥協であり、その入口も出口も見つからない息詰まる状況は、カフカの「心の樹」の枝葉を”変身”させていくことになります。

カフカに影響を与えた映画

翌1907年、プラハに最初の映画館が誕生します(それまでは劇場などで間借りの単発上映)。カフカも頻繁に映画館「ルチェルナ」を訪れるようになります。マックス・ブルートともお気に入りのカフェ「アルコ」で待ち合わせして一緒に映画に行ったりしています(本を読んだり手紙を書いたりしつつも独りでいられるカフェはカフカにとって欠かせない場所だった)。そして映画はカフカに意外な影響を与えていきます(以前はカフカの死後マックス・ブロートが小説『アメリカ』として刊行した『失踪者』の舞台は、ニューヨークの写真集や絵葉書や観光ガイド類を見て書いたのではと推測されていた)。1912年『失踪者』の執筆で行き詰まったカフカは、偶然に観た映画『失踪者の物語』でニューヨークの光景が映し出されるのを観たようです。そしてタイトルもそのものずばりの『失踪者』でした。

『眼の人間』に対し、映画は制服を着せてくる

カフカは映画に対して、次のように語っています。「私はあまりに『視覚的』な素質があり、『眼の人間』なのです。映画は見ることを妨げます。視線が画面を捉えるのではなく、画面が視線を捉えてします。そして意識に氾濫を起こすのです。映画は、これまで裸のままでいた肉眼に、制服を着せることを意味します。映画は鉄の鎧戸です』(『カフカとの対話』G.ヤノーホ著/筑摩叢書)。また、「『眼は心の窓』だというチェコの諺がある」というG.ヤノーホの言葉にカフカは頷いています。カフカにとってみれば、映画を観ることは気ままな「観察」ではなく、「観ることの強制」といってもよいものでした。映画『時計仕掛けのオレンジ』で、高度な管理者会のなか理由なき反抗者を去勢するために瞬きすることを許さず映像を何時間も強制的に見させるシーンを思い起こさせます(この場合、内界に通じる「瞬き」も問題になるでしょうが。「瞬き」が無くなれば、外界は永遠に続くビデオ映像と化してしまいます)。そして後に映画は「下意識の窓」として、再び”制服”を脱ぐことになっていきます。

イディッシュ語劇団に通いつめる

映画とちがい芝居は、カフカの「心の樹」にぴったりはまり込むものだったようです。カフカは映画をよく観るようになる以前から芝居通いをしています。月に数回は観劇していました。プラハには「新ドイツ劇場(現在のスメタナ劇場)」と「チェコ国民劇場」があり、それぞれが民族の意識と情熱の砦のような場所となっていました。劇場では、カフカの眼は映画のように強制されることなく、心の思うまま観劇することができ、”裸の眼”のまま観ることができたのです。カフカは一度だけ「洞窟(遺稿では墓堀り)」というタイトルで劇作を試みています。
カフカ28歳の時、東欧のガリツィア地方からやってきたイディッシュ語(東欧ユダヤ語)で演じる劇団に魅了されます。公演はカフェで行なわれていました。主演女優の虜になったカフカは毎日のように足を運びました。カフカは劇団の主宰者イツハク・レーヴィと親しくなり、翌年の春に劇団がドイツへ旅立つまでこの交流は続きました。この出来事は、カフカが自身のユダヤの民族性への意識に目覚めるきっかけとなっています。

29歳、女性に猛烈にアプローチしだす

映画とちがって主演女優の生身の女性を見つづけ語らい接することで、カフカのなかで女性の存在に大きな変化が生じたのでしょうか。劇団がプラハを旅立った年(カフカ29歳)、カフカは4歳年下のベルリン女性フェリーツェ・バウアー(ユダヤ人)に出会い猛烈に恋します。フェリーツェは親友マックス・ブルートの義兄の従妹で、カフカと出会った時は、ベルリンからプラハにまで仕事で自身が扱うパルログラフ(口述録音器)の販路を開拓しにきていた時でした。恋のはじまりの「判決」はカフカの一方的なものでした。第一印象はまったく魅力を感じなかったようですが、次の瞬間には、フェリーツェを”カフカ劇場”の”主演女優”に決めていたのです。カフカはその”主演女優”に最初の手紙を1カ月後に出しましたが、それ以降は3カ月に100通、つまりほぼ毎日(前日の手紙を今日の手紙が配達で追い越すほどに)手紙を書き送ったのです。

カフカの内で動く複雑な心理的方程式

なんとも興味深いのは、最初の手紙を書きあげた2日後に、短編「判決」を一気に書きあげていることです。それは父と自分との断絶に決定的な”判決”が下ったという内容のものでした。カフカは自身と周囲に巻き起こったことを、自分と家族との関係性に変換して思考する癖や傾向があるといわれます。自身のなかでは別の場所にあった関係の凝(しこ)りや難問に対し、奇妙な回路が通じて問題の糸口をつかむ、といった感じでしょうか。カフカは短編「判決」を、「はじめて満足のいく作品」だと語っています。極めて複雑な心理的方程式がカフカの内で動いたことがみてとれます。恋心をもった女性に対する気持ちの「判決」だったはずなのに、父・子との関係における「判決」になり変わってしまったのですから。ところがこのフェリーツェとの関係は、まさに「カフカ的」じれったさにはまり込んで「未完」に終わります。▶(4)に続く-近日up

◉青年期:Topics◉カフカユダヤ正統派を名のる人々と初めて接したのは、イディッシュ語劇団に関心を寄せた3年後の1914年の時。第一次世界大戦の勃発後、ユダヤ人迫害(ポグロム)を受けウクライナ白ロシアガリツィアなどから「東方ユダヤ人」がプラハに大挙流れ込み、プラハ市民はハシディズム派特有の黒服、黒い帽子、長い髭を気味悪がっている。ハシディズム派は18世紀半ばのガリツィア生まれのイスラエル・ベン=エリザーが提唱した一派で、聖典『タルムード』の晦渋な解釈にのめりこむのではなく、神との盟約に生きることを主張。東方の貧しいユダヤ農民層に広まっていた。