パティ・スミスの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 病気ばかりしていた幼少期、お話、音楽との出会い 

「夢」を変換したパティ・スミス

因襲や性別の境界を吹き飛ばした異端のロック詩人、パティ・スミスは、安息の日の最終章に相次いだ悲劇を乗り越え1995年(49歳)、不死鳥のようにカムバックしました。21世紀の今日、そのカリスマ性がゆらぐことがありません。マドンナやルー・リードらと同様、パティ・スミスも最初からロックン・ロール・シンガーを夢みていたわけではありませんでした。なぜ彼ら彼女らは、音楽界に特異な存在と化していき、世界を席巻するようになっていったのでしょう。その理由の一つに、ミュージシャンになる前に、別の夢をとことん探求し、研究し、結果、そこで磨き上げたものを、シンガー(パティ・スミス・グループ)としての強力な武器に「変換」することができたことがあげられます。マドンナの武器は自由なモダンダンス、ルー・リードの武器は斬新な小説、そしてパティ・スミスの場合は、挑戦的でラディカルな詩人のスピリットでした。
またパティ・スミスは、自身の能力に自信が持てなかった時期が長く、毎年のように役割モデルのアーチストや作家たちに惚れ込み、必ず彼ら(女性性に目覚めて以降の女優ジャンヌ・モロー以外、全員男性が役割モデル)の伝記を読みこんで「空想」をふくらませていました。病気を発症しつづけた少女期、その辛い時期に母から与えられた「空想癖」と「音楽」、父と同じく工場で働いた体験、そして劣等感と憧憬への強烈さは、パティ・スミスを女性ロッカーのオンリーワンの存在におしあげます。
パティの「マインド・ツリー(心の樹)」は、写真家ロバート・メイプルソープや劇作家サム・シェパードなど、錚々(そうそう)たる人たちで彩られますが、それも好奇心やチャレンジ精神の数だけ、枝葉を自在にめぐらした結果ともいえます。そして33歳(1979年)の時、今度は突然、MC5のミュージシャン、フレッド・”ソニック”・スミスと結婚し音楽界から引退し、愛を捧げ家庭をもちます。当時はパティのイメージとは異なるこの引退劇はファンを驚かせましたが、それもパティの幼い頃からの「マインド・イメージ」に沿った決断でした。パティ・スミスの「マインド・ツリー(心の樹)」は、自信のない自分を成長させるヒントや方法に満ちています。まずは一読してみて下さい。関心の向く分野は異なっても、思わぬヒントに当たるかもしれません。

典型的な労働者階級の娘だった。いつも病気で伏せっていた

パティ・スミス(本名:パトリシア・リー・スミス)は、1946年12月30日、イリノイ州シカゴのサウス・サイドで誕生しています。父グラント・スミスは工場労働者、母ビバリー・アン・スミスはドラッグストアの店員という典型的な労働者階級のカップルの子供でした(パティは姉で、後に弟トッドと、2人の妹リンダとキンバリーが生まれている)。パティ4歳の時、シカゴからフィラデルフィア北部のニューホール・ストリートに引っ越しています。工場労働者だった父グラントですが、家ではいたって読書家でした。好奇心旺盛だった父は、つねに新たな情報を読書から吸収していたといいます。母ビバリーもまたお伽話やいろんなお話をパティに語って聴かせていました。
この頃、パティは毎年のように病気に罹(かか)っていました。リウマチ熱、おたふく風邪水ぼうそうだけでなく、肺炎も2度罹っています。床に伏せたパティの気持ちをやわらげたのが母ビバリーのお話でした。後にパティは、「母は空想することを教えてくれた」と語っていますが、パティは病床にいながらたっぷり空想の世界に遊んでいたのです。パティの「マインド・ツリー(心の樹)」の原点は、度重なる病気と読んで聞かされたお話から発展していった「空想」癖にあるのかもしれません。本が大好きだった両親からの影響にあるようです。パティの感性はまず「言葉の森」から、そして「空想」することから高まりました。

6歳の時、強烈な音楽体験。生き生きする感じ

パティが6歳の時、強烈な体験をします。友達の家でリトル・リチャードの曲「女はそれを我慢できない」を聴いたのです。するとそれまで体験したことのないエネルギーとパワーを体全身に感じ、生き生きする感じがしたといいます。今度は6歳にして「音楽」への感性を全身で感じとっています。「言葉」と「音楽」、この2つがパティのなかで高度に融合していくまでに、パティの「心の樹」は、それぞれに太い幹となって成長していきます。その2つの幹と枝葉が激しく深く重なり合うまでに十数年のさまざまな体験と出会いが重ねられていきます。
詩人を夢見ていたパティが朗読会に音楽(エレキ・ギターの伴奏)を取り入れたのは、セント・マークス教会での詩の朗読会(25歳の時。1971年)でしたが、パティの「心の樹」のなかで音楽への感性は、かなり早い時期にうごきはじめていたようです。その感性をさらに高めたのは、再び母でした。パティが7歳の時、猩紅(ショウコウ)熱に罹り、恐ろしい幻覚に襲われ不安になっていた時に、母ビバリーはアイデアからパティに気分が少しでも晴れるようにとオペラのレコードー蝶々夫人」のボックス・セットを買ってきたのです。それをパティがあまりにも喜んだので、母はパティが病気になって寝込む度にレコードを買って元気づけるようになります。コルトレーンの名作「マイ・フェイバレット・シングス」もそうしてパティの手元にやってきたものでした。シングル・レコードは後にパティ自身で購入するようになります。パティが最初に買ったシングルはハリー・ベラフォンテの「シュリンプ・ボート」で、ニール・セダカの「クライム・アップ」も毎日聴くようになり、ついでペーシェンスとプルーデンスの「マネー・トゥリー」もお気に入りだったといいます。

いじめ、”不良少年”のスタイルを好んで着る

またパティは片目が弱視でこのころ眼帯をつけていました。そのせいでクラスメイトから笑われたり、いじめられていました。そうした影響もあり、パティは自分が”どこか他の場所”からやって来たのでは、と心の何処かでいつも感じていたといいます。日々着る服も、クラスの女子誰もが着ている女の子らしいキュートな服を拒むようになります。パティは小学生の低学年にして、”不良少年”のスタイルを好んで着るようになっていました。労働者階級が放つワルのイメージをパティが感受し、空想した挙げ句の姿だったのかもしれません。

父も娘パティも工場で働いた

8歳の時、パティ一家はニュージャージー州の片田舎のピットマンにある小さな団地に引っ越しました。その地で父グラントは工場で夜勤の仕事をして働くようになりました。思い起こせばパティ・スミス最初のシングル曲「ピス・ファクトリー」は自身が工場で働いていた時のこと、その感情が歌われていますが、パティの父も同じく工場で働いていました。父や母の仕事や仕事観は、子供たちに程度の差こそあれ大きな影響を与えることは、パティのケースでもみてとれます。工場の仕事を終えた父グラントは余暇のほとんどを聖書を読んだり、ギャンブルをしたり、それでなければUFO関連の本を読んで過ごしていたといいます。母も働きづめでしたが、休みの日にはパティをフィラデルフィアまで連れていき本を買ってあげていました。パティはこの地の水に合わず、外で遊ぶこともせず、家の中でファンタジックなお話を書いて、その役柄を両親に演じさせては楽しんでいたようです。家には経済的な余裕がまったくなかったためテレビはいうにおよばず、子供らしい玩具はなにもありませんでした。パティと弟妹は自分たちで遊び方をいつも考えていたそうです。パティの「心の樹」は、幼い頃に母に読んでもらっていたお話を養分に逞しく成長し、パティのスピリットを明敏に快活にしていきました。

女流作家になる夢をもちはじめる

しばらくするとパティは女流作家ジョー・マーチのような作家になることを夢見はじめました。ジョー・マーチはパティの少女期の「心の樹」に欠かせない存在となり、心の拠り所となっただけでなく精神を一人立ちさせるきっかけにもなっていきました。そしてルイザ・オールコットの小説『若草物語』は、少女期のパティに家族とともに現実的な困難さ、貧しさを乗り越え、将来何かをつかみとることの大切さを教えました。若草のような萌芽が雨風を受けながらも立派な樹に成長する、そんなシンプルだけれども逞しいストーリーにパティは入れこんだのでした。パティは一番の年長だったため、よけいに影響を受けたかもしれません。後に父の後を追うかのように工場で働くようになったのも、少なからぬ影響があったにちがいありません。後年、15年間にわたり、ロック詩人の名声をシャットアウトしたのは、家族生活をし、それを守るためでした。その「家族回帰」の原点がこの頃にあるといわれています。▶(2)に続く