カフカの「Mind Tree」(2)- 学校 での「消え方」


映画「カフカ」(監督:スティーブン・ソダバーグ 1991)より

ハプスブルグ皇帝フランツ・ヨーゼフにちなんでつけられた名前

▶(1)からの続き:1883年7月3日、フランツ・カフカ(Franz Kafka)が誕生します。名のFranzは、ハプスブルグ皇帝フランツ・ヨーゼフにちなんでつけられました(ユダヤ人家族は長男にこの名を好んでつけた。父ヘルマンの名も同じく古代ローマ人を撃破したゲンルマンの英雄の名前)。幼い頃は、父も母も店に出ずっぱりで、6歳になるまでは住み込みのチェコ人の乳母が母に代わって面倒をみたようです(この時代は貴族でも小市民でも住み込みの乳母が幼児を育てていた)。フランツはこの乳母を通してチェコ語を知ることになります。ものごころがつく頃、フランス語の家庭教師がつけられました。
店内は父ヘルマンの狙いで女性ものが多い品揃えだったこともあり、母は女性のお客さんの対応に勤(いそ)しみます(商品の仕分けや帳簿づけもしていた)。フランツ(青年期になるまで、フランツと記す)が誕生してからほぼ2年おきに次々と子供が生まれます。弟となる2人は相次いで死去。母のフランツへの愛情はいやが上にも増幅されていきます。

「ドイツ系市民・国民学校」に入学

中産階級の富と地位を手に入れた父ヘルマンは、当然の流れのようにフランツを有無もなくチェコ語ではなく授業をドイツ語でおこなう「ドイツ系市民・国民学校」に入れました。ただ時代は変わりはじめていました。フランツが国民学校に通いはじめた年、ハプスブルク家のルードルフ皇帝が町娘とピストル自殺し、ハプスブルク体制は”斜陽”しはじめていたのです。プラハでドイツ語を話す人も激減、10人に1人強程になっていました。学校では教師の多くはユダヤ人でした。ユダヤ人が首尾よく生き抜いて出世するには、圧倒的多数のチェコ文化ではなく支配者側のドイツ文化ににじり寄った方が有利にはたらいたためでした。ユダヤ人はなんとも皮肉な役回りをしなくてはならなかったのです。
学校ではフランツは優等生で、模範生でした(ユダヤ学の世界に入りイスラエルに移住、学者として名をなした秀才フーゴ・ベルクマンとここで出会っている。終世の友となる)。ところが内面ではフランツは自分を「教育の被害者」だと感じていました。
そんな内面をかかえながらも通常5年かかるところを1年飛び級で卒業したフランツは父の選択のまま、大学入学につながるキンスキー宮殿内に置かれた8年制の王立プラハ旧市ギムナジウムに入学します。


ギムナジウムのこと◉カフカが学んでいた時期には、通常、学校組織は教会の管理を離れているが、ギムナジウムだけは修道院・教団が旧態依然のまま運営していた。兵役のような規律に則り、聖職者の教師が授業の3分の1を古典語(ラテン語ギリシア語)にあて生徒たちに叩き込むのが誇りにすらなっていた。文明が大転換を迎え、街に自動車が走り、鉄道が旅行を誘い、科学・化学・医学の発見が相次いでも、ギムナジウムは伝統こそ誇りであり何一つ変化することはなかった。「古城」のような壁の中でホメロスなど古典作品や歴代の戦さ、歴代の王の名、勝者の事績の丸暗記が一年中おこなわれていた。まさしくその行為はギムナジウムや教師の威厳を保つためのものでしかなくなり、少しでも暗記を間違えると半日廊下立ちや古典の演説筆写20回が容赦なく言い渡された。社会体制を構成し維持するための部品として教師も生徒も記憶する「機械」として作動すれば平穏無事だったためだ。多くのクラスでは生徒の半数は中退し、自殺者も後を絶たなかった。小説家ヘルマン・ヘッセトーマス・マン、哲学者ショウペンハウアー、シュテファン・ツバイクもギムナジウムに嫌気をさし中退している。

いるのかいないのか分からない存在。学校での「消え方」

フランツは3学年までは成績優秀の組でしたが、次第に下降していきました(フランツは数学がとくに苦手だった)。その頃、フランツは無口で控えめでめだたない生徒で、いるのかいないのか分からない程の存在だったと当時の旧友に回想されています。ある生徒は「いつもガラスの向こうにいるような」感じで仲間からは離れていたともいっています。フランツによれば、それは厳しい担当の先生の下、ユダヤ人であるカフカがとった学校での過ごし方で、死んだふり作戦ー別名「消え方」だったといいますが、「ドイツ系市民・国民学校」の秀才が、優秀な者たちばかりが集まってくるギムナジウムで、才能もその存在も、周りからもそして自らも「消えた」ように感じたとしても不思議ではありません。こうした「消えた」感は、なかなか当事者しか分からないものでしょう。両親はそんな事情も分からず、「どうしたの?」「なぜだ!」となるのがおちです。カフカの「心の樹」は、プラハ市街をおおう霧の中にわずかに見える教会の尖塔のような感じだったかもしれません。靄(もや)がかかる周囲に対しては、すでに鋭い意識が準備されはじめていましたが、それはもう少し後に処女短編集『観察』となってあらわれます。
18歳の時(1901年)、カフカギムナジウムの卒業試験に奇跡的に「可」でぎりぎり合格します(旧友フーゴ・ベルクマンは「優秀」で楽々パス)。とにかく合格したことで、カフカはドイツ語圏の大学ならどこの大学でも自由に選択し入学することができる資格取得を得ました。やれやれだったことでしょう。

青年期のカフカの行動パターン

カフカプラハ大学で、哲学を専攻しようとしますが、実学一辺倒の父は「お前は失業者志願者か」と一括されます。哲学を選択したことは、カフカにとって当時の社会的評価に則って医者か弁護士を目指すのが順当だとする成り上がりのユダヤ中産階級の考え(その象徴の父)や窮屈なギムナジウム教育に対する反発でした。終結論にいたる直前、旧友であり秀才のフーゴ・ベルクマンに、一緒に化学産業に打ってでよう、と誘われます。当時、化学産業は急速に発達しはじめていました。ところがいざ経験すると2人の夢は急速にしぼみ、方向を見失ったカフカは法学の道へ。が、法学の講義は無味乾燥で心がおどりません。文学忘れられず。カフカはこっそりと文学の講義を聴きにいったりしています。ところがここでも失望が待っていました。興味津々だったドイツ文学の講義も賞味期限が切れたようなものばかりでした。ならばとミュンヘン大学へ入り直しドイツ文学を専攻しようと考え、19歳の時(1902年)下準備でミュンヘンに向かいました。しかしドイツ人の街ミュンヘンはまったく肌に合わずこれまた失望し戻ってきます。父ヘルマンはお見通しでした。気弱な息子がドイツで一人でやっていけるわけがないとたたかをくくっていたのです。
じつは、こうした一連の思考と行動はカフカの行動パターンといってもいいものでした。カフカはまず現状を打開するためにあれこれ思案し本気モードになる→行動する→当初のイメージと異なり、段々思いがこじれてくる(手紙を大量に書く)→断念、あるいは宙ずり。後のベルリン女性フェリーツェとの婚約の時もまったくこのパターンにあてはまっていますで。

プラハを「再発見」する

ところが面白いもので、ミュンヘンから戻ったカフカは、自分の内であらためてプラハを「発見」するのです。生地プラハと自身との切っても切れない関係に異様な何かを感じだし、小説を書きはじめます。カフカの「心の樹」の枝葉が、プラハユダヤ・ゲットーの裏道のように、くねくねと伸びだしていきました。それは記憶を辿るようでもあり、新たな小径を踏みしめるようでもありました。一方、カフカは諦念のなか元の鞘(さや)に戻り法学の講義を受講じつづけます。▶(3)に続く

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