ジャンヌ・モローの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 英国ランカシャーからパリやって来た踊り子の母と小さなビストロ経営の父

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はじめに

ジャンヌ・モローとえば、フランスきっての大女優であり、映画『エヴァの匂い』(J.ロージー)や『死刑台のエレベーター』(ルイ・マル)『突然炎のごとく』(トリュフォー)『女は女である』(ゴダール)など、ヌーヴェルヴァーグ時代の作品がすぐに思い出される。トリュフォー監督は、彼女のことを「女の特質のすべてと、男特有の弱点を持たない男の最高の要素が備わっている」と語っています。またパティ・スミスが男ばかりだった自身の人生の「役割モデル」としてはじめての女性がジャンヌ・モローで、それ以降パティは少年ぽく突っ張って生きるのではなく、タフ&ラブを実践していきます。突然、音楽を休止し、30代にして家族をもったパティにとって完璧な見本だったといいます。「権威に逆らい、時の流れを恐れない」女性、そして「自分の意思をもち、一人で生きるタフな女でありながら、大人の愛を実践しする」女性として、パティはジャンヌをその外見的なものでなく、その生き方のモデルとして自身に映しだし、そして自分なりの方法で実践したのです。

ではそのジャンヌ・モローは、どんな生き方をしてきた女性だったのでしょう。そして2005年にもフランソワ・オゾン監督の『ぼくを葬る』に77歳でスクリーンに登場し、年齢を超越した人間としての存在感と優雅さと翳(かげ)を生みだしつづけるジャンヌ・モローの「マインド・ツリー(心の樹)」の根元には何があるのでしょう。また、勝ち気で癇癪持ちで、年をとることは歯牙にもかけず恋愛を重ねる”心根”には何が? ではまだ舞台に”芽”も出ていないジャンヌの存在しない世界から宙の覗き穴から、ジャンヌの誕生の到来を待ちましょう。
パリのモンマルトルの小さなビストロで、食事をしている踊り子が見えてきました。ジャンヌの母になるキャスリーンです。その料理をつくっているのがビストロの経営者の一人アナトールです。ジャンヌの父になる人です...。キャスリーンがアナトールに料理について何やら悪態をついています。まるで後のジャンヌ・モローとそっくりに、口をちょっとへの字に曲げて.....

イギリス・ランカシャーからのやって来た踊り子の母

銀幕のスター、ジャンヌ・モロー(Jeanne Moreau)は、パリ・モンマルトルで、1928年1月23日に誕生します。20世紀映画史時代の一人の世界的大女優はこのようにして生まれたまうものなのかいうこと、そして舞台に映画に印象深い「陰影」をおとしたジャンヌ・モローのその内面から滲(にじ)みでる表情は、幼少からそして少女期に、彼女の内の「マインド・ツリー(心の樹)」に刻まれていた、と私たちは後に知ることになります。
最初に、ジャンヌ・モローの魂がまだこの地球上に宿る少し以前から話を起こしていきましょう。宙を漂うジャンヌの”魂”は、きっと何百万分、何千万分の一の確率で<突然炎のごとく>(ジャンヌ自身も映画『突然炎のごとく』の中でそうなった)燃える男女に狙いを定めていたにちがいありません。ジャンヌのような”魂”にとって、地上に誕生することはそうたやすいものではなかったかのようです。ゴールする可能性はほんの僅か。それでも再び生まれでる可能性に賭けたのでしょう。女の方は早いうちにターゲットを絞っておいたようです。快活で、負けん気が強く、我が道を行くタイプ、しかも踊り子をしている。ジャンヌの”魂”は、その女に狙いを定め、一の矢を放ちます。17歳の時イギリスのランカシャーからパリ・モンマルトルにやってきていた「ティラ・ガール」と呼ばれるイギリスの若い踊り子のうちの一人でキャスリーンという名前の子です。キャスリーンの母はランカシャーの綿紡績工場の女工で、父は漁師。つまり家族を守り抜く力強さと忍耐力をもつ血筋といっていいでしょう。

モンマルトルの古いカフェ・レストランを経営していた父

ついでジャンヌの”魂”は、ある男に狙いを定め、二の矢を放ちます。芝居や映画やショービジネスの連中は信用がおけないとことごとく反感をもつ一家の男でした。キャスリーンたち「ティラ・ガール」は、ショーの後、滞在ホテルも近い「ラ・クロッシュ・ドール」で夜食をとるのが日課になっていました。そのレストランのオーナーのひとりアナトール・デジレ・モローは、第一次世界大戦後のパリで一旗あげようとフランス中部オーヴェルニュのアリエ県(フランス革命以前のブルボン家ゆかりの地だった)を後に、もう一人の男(兄)と一緒にサクレ・クール寺院のすぐ南、モンマルトルの坂道の途中、マンサール通りにある煙草屋を買い取って、当時流行りのボヘミアン風ビストロに仕立て成功させようと励んでいました。「パリ一番のウサギ料理」が自慢の店で、「ティラ・ガール」たちは常連客でした。

一の矢を受けたキャスリーンが、漁師のように威勢よく、料理が脂っこいとケチをつけました。そのケチに対応したのが弟のアナトールでした。このアナトールに二の矢が放たれていたのです。それから2カ月の間に、化学反応が起こり、やがてキャスリーンのなかに別の<生命反応>が生じだしました。それはそれは細いパスタに針を通すかのように極めて可能性の低いことだったようです。ジャンヌの”魂”の生まれい出る意思として誕生したように。なぜならアナトールは通りの向かいのパン屋の娘と婚約していましたし(界隈では大変なスキャンダルになった。祖母はカトリック信者だったにもかかわらず中絶するように頼んだという)、キャスリーンは目標だったフォリー・ベルジエールのコーラス・ガールという新しい仕事についた矢先のこと。つまり2人にとってまったく予定外の子供だったのです。周りも諦め、両親は男の子を欲しがったところ予期に反して女の子。がっかりした父は酔いつぶれ、仲間にかつがれて出生届けのため市役所へ。男の子の名前しか用意してないというアナトールに戸籍係の人が代わりにつけた名前が「ジャンヌ」でした。

父一家はフランスの田舎の行商人だった

父アナトールのモロー一家は田舎の行商人でした。油や畑から採れた野菜や収穫物を売買したり、時に農具をつくったりしていたようです。そうした田舎の因習がすっかりしみついていた一家だったので、外国人でしかも踊り子など心理的に受け入れがたかったといわれています。ところがモロー一家が何世代も前からずっと住みついていた場所フランス中部オーヴェルニュのアリエ県は、フランス革命以前にはブルボン家ゆかりの地で、19世紀まではパリよりも流行の発信地になっていた場所だったのです。近くのアリエ県ヴィシー(パリから南方400キロにある樫の森と山に囲まれている)は、フランスきっての温泉保養地と1865年に建設されたカジノで知られ、著名人も数多く訪れ、またホテル収容人数もフランス第2位、第二次大戦期には、ペタン率いるナチス協力政府の本拠地でありフランスの首都となり、ヴィシー政権とも言われました。
父アナトールの一家はこのヴィシーにほど近いマジラという村の出身で、実際に田舎の行商人だったかもしれませんが、感覚的にはかなり先端のものの匂いを嗅ぎ、情報通であったにちがいありません。行商人とはまたそういう存在でもあります。モロー家にとって踊り子の評判が悪かったのも、踊り子たちは仕事柄移動も多いでしょうし、行商人にとってはいい関係を築ける商売相手にはならなかったかもしれません。同じくアリエ県、ヴィシーの北部にはムーランという県庁所在地があり、パリの「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」の名前が偲ばれます。父アナトールの思春期には、流行の発信地はすっかりヴィシーからパリに移っていて、アナトールは矢も盾もたまらず、商売を起こそうとパリに向ったのでしょう。そしてモンマルトルのビストロで、ジャンヌの”スピリット”に、どういうわけか「白羽の矢が立てられ」、ジャンヌの父になるわけです。▶(2)に続く