オスカー・ワイルドの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 5歳まで”女の子”として育てられる。そして母のサロンの会話を浴びる

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はじめに

オスカー・ワイルドとえいば、19世紀末に一輪の花として世界を魅了した華やかな社交界の寵児、「ダンディズム」のイコンとして、また小説『ドリアン・グレイの肖像』や『幸福な王子』『サロメ』の著者として知られますが、彼の数奇な運命の芽は、やはり幼少期から少年期にすでにあらわれていました。5歳まで「女の子」として育てられたこと(後の性的倒錯への可能性)、自分の部屋を美しく飾りたてたり、中世時代の手づくりのものを愛したこと(産業革命による大量生産品を嫌った)が、後にウィリアム・モリスが提唱する「生活環境の美化」にもつながり、輝きを失いだした貴族性に代わるウィットに富む「新たな貴族」の象徴的存在と化していきます。
そして今日のロンドン・ファッションがよりアイデンティティを輝かせるものとして作用する傾向があるのは、オスカー・ワイルドボー・ブランメルらのダンディズムのスピリットがその下地になっています。「芸術はすべて無用のものである」と語るオスカーの言葉の裏には、ダンディーそのものが一流の芸術品=人生の芸術化という考えがあり、それは系図による貴族をうっちゃってしまうものだったのです。ゆえに「民主主義のもとにおいては誰もが貴族になるべきだ」とオスカーは語ったのです。オクスフォード大学の最高の栄誉を受けていたオスカーの一世風靡した数々の作品に注入されたデカダンな自由精神は、時の国家権力を刺激します。同性愛のかどで「オスカー・ワイルド裁判」という罠にかかり、2年間獄中生活をおくります。
オスカー自身は、アイルランド人であり、アメリカ講演旅行に行った際、西部まで足を伸ばし、1年前に亡くなっていたアウトロービリー・ザ・キッドに思いを馳せたといいます。ビリー・ザ・キッドもまたアイルランド人でした。国家から締め出されたオスカーはもはや英国に戻ることは叶わず、経済的にも窮しディナーをとるお金すらなくなります。「素朴な享楽こそ複雑なものからの最終的逃避手段」という警句を残し、46歳で亡くなっています。
オスカー・ワイルドの生涯は、小説『ドリアン・グレイの肖像』の登場人物それ以上に興味深く、結果、数奇な「オスカー・ワイルドの肖像」をこの世に残してゆきました。「人生の芸術化」を実践したひとりの人物を知ることは極めて刺激的です。オスカーの小説をあわせて読み合わせると、彼の「心の樹」の中に忍びこむような感覚になります。それは「芸術家された人間」の内側に、「鏡」の内側にいる感覚に近いものかもしれません。

5歳まで”女の子”として育てられる

オスカー・ワイルド(本名オスカー・フィンガル・オフレアティ・ウィルス・ワイルド:以下オスカーと略 Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)は、1854年10月16日に、アイルランドのダブリンに誕生しています(二男。兄は二歳年長)。父ウィリアム・ワイルドは眼科・耳鼻科の権威で、大病院の院長でした。オスカー10歳の時には、”ナイト(男性の場合は”サー”とつく)”の称号を授与されています(現在ではミック・ジャガーデビッド・ベッカムヴィヴィアン・ウェストウッドらも授与されている)。このアイルランドの名士に嫁いだのが弁護士の娘ジェーン・フランセスカでした。ジェーンはオスカーを産む前にアイルランド独立運動フェミニズム(女性解放)運動にも積極的に参加しただけでなく、アイルランドの新聞に「スペランザ」というペンネームで革命的な詩を発表したり、後には民族学にも活動の範囲をひろげていきます。
ジェーンは2人目はどうしても女の子が欲しかったので、妊娠していた時から女児用の衣装をたくさん用意していたのです。その願望があまりにも強かったため、たんに産まれた男の子に、用意してあった女の子の衣装を着せるというのではなく「女の子として」育てたのです。自伝では、たんに5歳頃まで女児の服装をさせられていた、と記すむきもありますが、オスカーの母ジェーンは、父ウィリアム・ワイルドと同様、かなりアクが強く、異常性のある人間だったといわれているように、内面的にオスカーを「女の子」として支配し、コントロールしたのです。
そして父ウィリアム・ワイルドは、どこか怪異的な顔貌で、長い髭に隠され、類人猿をおもわせるほどだったといわれ、母ジェーンと結婚するまでに、3人の私生児をつくっていたといいます。たんに女癖が悪いというのではないようで、患者をクロロホルムで眠らせて暴行したという事件が、”ナイト”の称号が授与されたその年に、ダブリンで大スキャンダルになっています。そういえばオスカーの顔は、背が高く美人だった母ジェーンのDNAを受け継ぎ美男子ですが、それでもどこかに怪異的な父の異質なDNAがうっすらと翳のようにあらわれているような映りの写真もあります。じつはオスカーの肌は、その奇抜な衣装と美しくカールした髪型で覆い隠されていたようですが、胆汁症のように多少灰色がかった色だったといわれています。これは母ジェーンのDNAからきているもので、そのため母はいつもかなりの厚化粧をしていて、薄暗い照明を好んだといわれています。

母のサロン体験が、オスカーの最初の教室だった

オスカー1歳の時、父はダブリンのメリオン・スクウェア一番地の大邸宅に引っ越します。さすがに大病院の院長でアイルランドの名士だけあってこの時すでに、ワイルド家には5軒の別荘がありました。オスカーが幼少の頃には、父母ともにダブリン社交界の中心的人物で、とくに母ジェーンはパーティー好きで、肌の艶の悪さも濃いメイクで隠し、自分のプライドが十二分に満足されるまでお客をもてなすエキセントリックな女性でした。自宅は完全に知識人のサロンと化し、音楽家や詩人、作家、大学教授や医者たちが毎週のように集まり会話を楽しんだといいます。そのサロンの片隅で、彼らの会話を静かにじっと耳を傾けて聴いていたのが幼少のオスカーでした。母ジェーンのサロンはオスカーの最初の「教室(クラス)」でした。幼少期のサロン体験は、たとえその会話が充分にわからなくても、オスカーの「マインド・ツリー(心の樹)」の土壌になったことは疑いえません。
オスカー5歳の時、オスカーは”突然”に、男の子として育てられはじめます。ワイルド家に女の子が誕生したのです(妹アイソラ)。まったく勝手な話ですが、この頃までにはオスカーのメンタリティーは型がつくられていて、スポーツが得意な兄とは逆に、海辺で貝殻を拾ったり読書をするのが好きな子になっていました(後にオスカー唯一の得意なスポーツは魚釣りになります。釣りがスポーツかどうかはわかりませんが)。母はオスカーに自分のやりたいことをするように、そして人を楽しませることは重要なことだという信念も教えたようです。

10歳の時、「ファスト・リーディング」、驚異的な「速読術」があった

10歳の時、アイルランド北部のエニスキリンにあるポートラ・ロイヤル・スクールに入学しますが、この頃すでに衣装にかなり気をつかったり手間隙をかけたりするようになっています。なにせ母ジェーンは、ケルトのジュエリーや、独特のヘアスタイルや装飾品、華美な衣装でまるで「動く美術館」だったようで、少女として育てられた記憶を脱ぎ捨てることなどできようもありません。オスカーは花に関心を深めあれこれコレクションしたり、ひとり夕日を見るのが好きな性格になっていました。
また、読書好きにも高じていたので遊び友達もほとんどいなかったといいます。オスカーの読書術は、独特な傾向があったようで、とにかく「ファスト・リーディング」、驚異的な「速読術」だったといわれています。3巻本の小説でも、30分で読んでしまうほどで、読み飛ばすだけでなくちゃんとその小説のストーリーも分かっていました。そしてユーモアをまじえながら、何事も大袈裟に話し振る舞う癖があったといいます。後のオスカー・ワイルドの「マインド・ツリー(心の樹)」の、核になるものが完全にこの頃に準備されていたといえるでしょう。どれほどの本読みなのかは今となってはなかなかわかりませんが、当時好きな作家はディズレーリ(オスカー同様ダンディで知られ、後に首相になる。オスカーの『ドリアン・グレイの肖像』に影響を与えたのがディズレーリの小説『ヴィヴィアン・グレイ』であった)で、嫌いな作家はリアリズム作家のディケンズだったといいますから、生半可ではなかったにちがいありません。学校では「ギリシア語聖書」の最優秀者として表彰され、翌年にも「古典語優秀者」として表彰されるほど優秀な生徒でした。
13歳の時、オスカーに一番近くにいて安らぎをくれていた妹アイソラが死去してしまいます(発熱を繰り返し脳内出血)。母もオスカーも悲しみのどん底に落ちます。オスカーはいつも妹のお墓に行き、何時間も戻ることはなかったといいます。エドガー・アラン・ポーが、亡き母の面影がある友人の母親が亡くなった時、毎日お墓を訪れ墓石を抱きしめながら霊魂に語りかけたのが14歳の年でした。成長期でもあり、多感な年頃、2人に限らずとも愛する者の「死」は、各々の「マインド・ツリー」に深く強く影響を及ぼします。心の樹の姿形すら変わってしまうことも少なからずあるはずです。ポーも「ヘレンの君」をうたったように、オスカーも『カンタヴィルの幽霊』の中で、成長したやさしい少女として妹を登場させました。2人は言の葉や物語の中に愛する者を永遠に生きながらえさせたのです。▶(2)に続く