ジャンヌ・モローの「マインド・ツリー(心の樹)」(2)- モンマルトルの娼婦が屯する安ホテルに泊まりつづける。慰めは読書だった


映画『死刑台のエレベーター』より

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お転婆娘で、蛇を集めて薬剤師に売りつけに行った

▶(1)からの続き:ジャンヌ1歳半の時、父兄弟は店を売りにだしてしまいます。仲違いしてしまったのです。アナトールは家族と一緒に実家のあるマジラに近いヴィシーに戻り、レストランとカフェのある小さなホテルを開きます。ジャンヌは活発な少女時代を過ごしただけでなく、何人もの登場人物のいる長い物語をつくりだして、その登場人物なりの声音で演じて周りの者たちを感心させたといいます。大きくなるにつれメキシコの画家フリーダ・カーロのようにお転婆娘になります。木登りであろうが何であろうが少年以上にむこうみずで、遊んでは転んでは両足はしょっちゅう擦りむいていました。しかし大の悪戯好きだったフリーダ・カーロもしなかったことがあります。ジャンヌはあちこちで「毒蛇」を獲って集めてきては薬剤師に売りつけに行っていたというのでう。お転婆というよりは、「魔性」的なものすら感じさせます。

7歳から心に翳りが生じはじめる

ところが7歳くらい頃から、心に翳(かげ)りが生じはじめます。なぜだか人生に見放されたように感じたといいます。8歳の時にそれが決定的になります。親友が呼吸器系の病気で亡くなったのです。ジャンヌはそのショックから学校に行くのがつらくなり、自分の世界に引きこもるようになりました。そして気づけば、自分の「悲しみ」だけでなく自分の周りにある「悲しみ」も感受するようになっていたのです。ジャンヌが感じとるようになった悲しみとは、大人の女性たちが暴力的で陰鬱な人生を受け入れざるをえない状況、そしてまた暴力を振るう男たちもまた不機嫌で満たされない思いを抱いていたことでした。「自我」が形成されていく小学生低学年のこの頃、およそその「自我」からしかなかなかものが見えないのに、周りが見通せ「他人の痛み」に敏感なるメンタリティをもつようになっていました。この周囲の他人の「痛み」「悲しみ」を深く感受しえるのは、女優にとって大切な要素になっていきます。後にジャンヌは表情の「陰影」が印象深いといわれるようになるのも、この少女期に胚胎した心の翳(かげ)りにまで遡ることができるかもしれません。
別様に言えば、ジャンヌの魂には、周りのもの(痛みや悲しみなど)が、「ミラー(鏡)」のように映し込まれていたといっていいかもしれません。おそらくこうした心性と資質の女性が、修道女になるとおもわれますが、まさにジャンヌは、この頃、修道女になりたいとおもうようになっていたのです。カトリック系の学校に通っていたこともあり、ジャンヌは日曜日には必ず教会に行っていましたが、教会に行かなければジャンヌはあまりの陰鬱さに心を閉じるしかなかったでしょう。
この頃、両親の関係は冷えきっていて顔をつき合わせれば険悪になり、ジャンヌを部屋の外に閉め出し言い争ってばかりいました。モロー家は経済的に窮していました。あまりの状況に、ジャンヌは耐えかね家からお金をくすんで家出したこともありました(半日以内に見つかり連れ戻されたが)。ある日、逆に母がジャンヌに一緒に家出をする計画をたてていることを告げたのです。ジャンヌは母と一緒にに家出することを夢見ます。今か今かと待ちわびていた頃、母が妊娠し、妹にミッシェルが生まれるのです。ジャンヌは母に裏切られた気分になりました。父に対しては避けるようになっただけでなく、嫌うようになりました。そんなジャンヌを尻目に父は妹ミッシェルを溺愛するようになりました。ジャンヌは逃げ道がまったくなくなり、ますます殻に閉じこもるようになります。そしてジャンヌはなんと妹ミッシェルを殺す計画を考えるまでになっています。殺人とは、出口がないと感じられた魂が、その出口を求めて心ここにあらずの状態でしでかしてしまうものとはいえ、ジャンヌもぎりぎりまで追いつめられていたのです。ところが不思議なことが起こりました。母が仕事を探しに出掛けるようになると、赤ん坊をお風呂にいれたりミルクを飲ませるようになると、逆に強い保護本能が生まれてくるのでした。後に姉妹の鉾は強く深くなり、妹がイギリスにわたってからもずっと手紙のやりとりなどを通じて交際は生涯つづくのです。

蚤のいる床の上に敷かれたマットレスで寝る日々。慰めは「読書」のみ

1936年の恐慌で、父はすべての財産を失ってしまいます。ジャンヌ10歳(1938)の時、一家はヴィシーからパリに戻らざるをえなくなります。が、パリでは物乞い寸前の貧乏のどん底におちいります。父はゼロから出直すためになんとか使用人の働き口を見つけた。新しい住居は娼婦たちが住む家具つき安ホテルの一室(5階にあった)で、ジャンヌは蚤や南京虫のいる床に敷かれたマットレスの上で寝ました。ジャンヌには母はおかしくなるんじゃないかとはおもえるほどだったといいます。母は自分の結婚が完全に間違っていたことにこの時点で気づき、家族は貧乏で結束するのではなく、逆に心は離れてしまうばかりでした。父は英語に耳をかさず毛嫌いし稼ぎが悪いのに飲んだくれで、いまやパリには知り合いもほとんどなく動きがとれない状況にはまりこんでしまっていました。ジャンヌはこの状況下でも学校に通うようになっていましたが、栄養も足りなかったため体も弱く、子供がかかるあらゆる病気にかかってしまいます。いつも病み上がりの体にとって慰めは「読書」でした。ただ部屋は暗く陽が暮れ本も読めなくなると、壁紙の花模様を数えたり、隣の映画館からもれ聞こえてくる音に耳をすませるのが常でした。この時、想像力で補って映像を思い浮かべていたといいます。

モンマルトルの売春婦が多い安ホテルに泊まりつづける

それから3年後の1939年、母キャスリーンは娘たちを連れて生まれ故郷イギリスへ旅しました(母方の家族は今でもサセックス州のブライトン近くのサウスウィックのリゾート地に住んでいる)。直後に第二次大戦が勃発しフランスへの帰国ができなくなり、ジャンヌたちは以降4カ月イギリスの母の両親とともに暮らした。ジャンヌは短いながらブライトンの学校に通っています(ジャンヌはフランスの女優ですが英語も完璧に喋れて、映画の世界ではかなり重宝される要因にもなったといわれます)。その後フランスに帰国すると今度はその数ヶ月後、ドイツ軍がパリを占領したため移動ができなくなります。父アナトールの方も故郷のヴィシーから召集されていて移動することを禁じられていました。
ジャンヌたちはモンマルトルの娼婦たちが屯(たむろ)する安ホテルを寝場所にしていましたが、母キャスリーンは毎日、居場所をゲシュタポに届け出なくてはなりません。安ホテルの部屋にはドイツ兵たちの行列ができていました。ジャンヌにはその光景が奇異に映っていたといいます。母がセックスについて何も話してくれなかったのでその光景の意味がわかりませんでした。ジャンヌは大人に嫌悪感を抱くようになっただけでなく、周りにも不調和な感情を抱くようになり、対人恐怖症に陥ってしまいます。そして、薄暗い人間の欲望と闇市の世界からなんとかして逃げだそうと心に。ジャンヌは(ジャンヌが自ら脚本と監督を手がけた2作目の映画『ジャンヌ・モローの青春』には、戦時中に成長する一人の少女の姿が描かれた)。
▶(3)に続く-未