ヴァルター・ベンヤミンの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- ドイツ・ブルジョワの末裔、幼年期の”楽園”

はじめに:ラディカル批評が生まれでてきた<根源>

ヴァルター・ベンヤミンは、『複製技術時代の芸術』や『写真小史』、『パサージュ論』、鏡の都パリやベルリン、そして作家のカフカボードレールブレヒトについての論考などで知られる、ジャンルを超越したラディカルなドイツの批評家です。
「複製時代のすすんだなかでほろびていくものは作品のもつ<アウラ>である」といった有名な考え方について聞いたことがあるのではないでしょうか。この<アウラ>は、もとをただせば、ベンヤミン幼年時代に感受していた至福の神的経験や美的陶酔にいきつくもので、勃興する新たな技術文化の真っただ中に成年期を迎えたベンヤミンが、自身の「マインド・ツリー(心の樹)」を辿ることで再認識して生まれでたものでした。ベンヤミンは崩壊しつつあるドイツ・ブルジョワ階級の末裔だったため、幼年期の楽園(エデン)にはあって、それが「今はーない」状態を敏感に感じ取ることができたのです。

ベンヤミンは考古学者や探偵のように幼年期の記憶の断片を収集し、分析し、「楽園」を復元し、その謎を解明しようと企てます。それが「批評活動」の動因になっていきます。その方法を支えるものとして、すべての植物は一枚の葉からなる<原基植物>に由来するという、<根源>への思考がありました。それはドイツ・ブルジョワ期の頂点に生きたゲーテが深く思考していたものでした。そのアプローチは、ベンヤミンが最初に手がけた「ドイツ・バロック悲劇」の<根源>であり、芸術作品の<根源>、夢の<根源>にも行き着くものでした。そして、その<根源>さえ極めれば、かつての「楽園」が復元できると考えたのです。ベンヤミンの膨大な批評や論考は、すべてがここに到着します。

それではベンヤミンの「マインド・ツリー(心の樹)」に分け入り、まずはベンヤミン自身を包んでいた「楽園」の<根源>に向かってみましょう。その根を辿っていけば、『複製技術時代の芸術』や『写真小史』『パサージュ論』が書かねばならなかった理由がみえてくるはずです。

ユダヤ人家系で裕福な商人の家柄

ヴァルター・ベンヤミン(Walter Bendix Schönflies Benjamin)は、1892年7月15日にベルリンでに誕生しています。父はエミール・ベンヤミン、母はパウリーネ(旧姓シェーンフリース)の長男として生まれました。3年後には弟のゲオルクが生まれています。1902年には妹ドーラが誕生。もともとベンヤミン家はフランス国境に近いドイツ西部ラインラント地方出身で、ユダヤ人家系の裕福な商人の家柄、一方の母方のシェーンフリース家は東プロイセン出身で家畜、穀物販売に携わっていました。ともに祖父の時代にベルリンに移住してきています。

美術品オークションで大儲けした父

父は美術品オークション(競売所)の共同経営者で大儲けしています。ベンヤミンは後年、競売の際に木槌を振り落としているイメージが父の記憶として最も焼き付いていると述懐しています。父はそこで手にした財を、医薬品百貨店(ここでは監査役もしている)やワイン販売業、建設会社に投資をしてさらに財を生み出していました。まさに金が金を生み出す、資本主義ブルジョワの典型(別様に言えば、ユダヤ式)といっていいかもしれません。その財で手に入れた邸宅は、裕福なブルジョアの邸宅でひしめくベルリン西部地区にあり、ポツダムとノイバーデスブルには別荘もありました。

「山の手」の邸宅 - 魅惑と根源的違和感

こうした環境は、少年ベンヤミンに大いに影響を与えていきます。ベルリン西部の「山の手」の住宅街や、室内のブルジョアの生活空間は、ベンヤミンに両極の、あるいは裏表の心理的影響をもたらしたといいます。一つは安らぎと限りない魅惑の源泉として。もう一つは根源的違和感として。ベンヤミンの魂は、年を追うごとに両極に引き裂かれ、裏表の乖離が大きくなっていきます。本質的な違和感がベンヤミン少年にべったり貼り付き、まるで奇妙なゲットーのようにブルジョアの生活空間に閉じ込められていた感じだったと語っています。緻密な彫刻の施された食器棚や暗くて長い回廊は、ベンヤミンの心に「....魂の抜けた豊穣さに、まことの快適を覚えるのは屍体だけなのだ」と映っていました。逆に、棕櫚の樹のある中庭は、幼いベンヤミンの心には「楽園」として映っていたようです。「中庭を眺めることほど、思い出を生き生きと蘇らせてくれるものはありません」と後に語っています。

天使的な小宇宙に木霊する魂

それはベンヤミンのあくまでも透明な「小宇宙」ーそれはどこか天使的なーに木霊(こだま)する気質に通じていたからでした。ベンヤミンは少年時代、皇帝パノラマ館を見てまわることや、叔母さんの家にあるのガラス製の立方体(動く鉱山に似た仕掛けがあった)を眺めるのが大好きだったといいます。陰鬱な家に戻れば、本を読みに斜面机に飛んで行きました。斜面机にはド近視だったベンヤミン用の眼鏡が特別に組まれてあり、透明なレンズの中、光とともに<文字宇宙>が目の前に広がるのでした。ベンヤミンにとってそこはまさに「至福な場所」だったのです。
しばしばベンヤミンの少年時代は、閉ざされた空間を求める心性があったと言われますがそれはあたっていません。子供の頃、中国の画家が自分の描いた絵のなかの一軒家の中に消えてしまう物語が好きだったそうで、このことは、閉ざされた空間を好む心性を意味するのではなく、見えない世界ーつまり魂の「小宇宙」の存在を感受する感度が極めて高かったことを物語ります。このエピソードは、後にベンヤミンが心の絵として飾ったパウル・クレーの「新しき天使天使」に通じるものとなります。

◉幼年期:Topics◉ベンヤミンという名前はユダヤ民族のなかでもかなり早く登場する名前で、『旧約聖書・創世記』によると、最初の人類のアダムから数えて、なんと23番目に登場する名前だといいます。アブラハムからはえ4番目の子孫にベンヤミンという人物がいました。ベンヤミンが生まれた頃には、ブルジョワであり、キリスト教社会と同化していたので、ある時期まではシオニズムユダヤ民族主義)に対して批判的でした。▶(2)に続く

アウラとは◉ベンヤミン自身の<アウラ>についての説明。この説明によって、いかにベンヤミンが<アウラ>を、幼年・少年期に感じ取っていたもので、記憶の底から汲み上げてきた感覚から出発したものであったかがよくわかります。「幼年期の楽園(エデン)での自然との心と心を通じ合わせ抱きすくめられるようなエロス的ともいえる交流として経験されるもの、対象が孕んでいるこうした性質を<アウラ>と呼ぶ」。21歳の時に著した『青春の形而上学』の中で、さらに<アウラ>を分かりやすく説明しています。「幼年期に特有の至福の神的経験において現れる対象がもっているような性質である.....ある夏の日の午後、ねそべったまま、地平線をかぎる山並みや、影を投げかける樹の枝を眼で追うーこれが山並みの、あるいは樹の枝のアウラを呼吸することである」。ただ、その樹の種類や名前を覚えることでーたとえばポプラとかハンノキのようにー魂の内で言葉が樹と結合し、眼と眼を合わせるように通じあう(性的結合のように)のだ、としていることは重要です。
こうした感性は、ベンヤミンが青年時代から関心をもちかかわったドイツ青年運動や「ワンダーフォーゲル」での体験で磨きがかけられていききます。ドイツ青年運動は、19世紀後半の資本主義がもたらした機械化された生活様式や、肉体と魂をひからびさせる大都市の環境に反発する若者たちの心と体を回復させる運動でした。