エドガー・アラン・ポーの「Mind Tree」(3)- 困窮と短篇執筆、文芸誌の編集

24歳、短篇を懸賞に応募する

▶(2)からの続き:24歳の時(1833年)、ポーの「心の樹」は、一気に樹勢を増したかのように伸長します。孤絶の運命を芯にしたポーの「樹」は、次々に短編を生み出しはじめます。「サタデー・ヴィジター」誌が、ポーの果実を受け取ります。シェイクスピアに関する一文「不可解な事(エニグマ)」や、短編小説群『フォーリオ・クラブ物語』にはじまりました。本格的な果実は、同誌が大々的におこなった懸賞作品の募集後のことです。ポーは原稿の締切り日までの4カ月、書きためてあった原稿に加筆したり、新作の構想をねり夢中で原稿を仕上げます。ポーの樹根にたっぷり吸収されていた「古典的知識」や「科学的知識」を織り交ぜながら、人間の運命の意外性を巧みにあらわした物語が次々に生まれ出てきました。後に有名な短篇に数えられるようになる「壜の中の手紙」や「メエルシュトレエムに呑まれて」「名士の群れ」「妄想家」などがそれでした。短編小説家としてのポーの人生がスタートします。

服一つ買えない困窮に助けの手

懸賞の選考結果は、完璧な文章と構想力で「壜の中の手紙」が当選、「サタデー・ヴィジター」誌にポーの名がおどりました。その時、ポーは栄養不足で痩せ細り、服も傷んだものしかなかったそうです。賞金の一部はクレム叔母さん(クレム夫人)に渡し、自身の洋服は買わなかったといいます。審査員の一人だった著名な政治家であり小説家であったジョン・ケネディーが、ポーの現状を知り、衣服を与え、経済的にも精神的にもポーを支えます。そして弟のように接しポーの就職先の面倒をみました。ケネディーは、ポーをリッチモンドで創刊された「サザン・リテラシーメッセンジャー」誌に紹介。同誌に「ベレニス」や「モレラ」、そして「ハンス・プファールの冒険」が掲載されることになりました。25歳の時、養父アランが死去しますが、再婚し子供も3人いたためポーへの遺産はまったくありませんでした。そのためポーの困窮生活はまだまだ続くことになります。

13歳のヴァージニアへの思いがつのる

26歳(1835年)の年、極度の憂鬱に沈み酒に頼っていたポーのなかで、ヴァージニアへの想いが妄想になっていきました。その時ヴァージニアは13歳になったばかりのあどけない少女でした。ポーの気持ちを知ったクレム叔母さんは親族会議を開き、ヴァージニアは親族が養育することに落ち着きましたが、ポーは長文の手紙でヴァージニアへの想い、クレム叔母さんへの経済面での援助を何度も訴えかけます。自身の死を予感させるポーの熱意に親族も折れ、ポーはヴァージニアと結婚します。しかし新婚生活はクレム叔母さんとヴァージニアとの3人暮らしではじまっています。ポーにとってヴァージニアは天使アフロディティであったため、純愛だけを注いでいきました。

編集の仕事とオーナーとの不和。ニューヨークへ

仕事面では仮採用さった「サザン・リテラシーメッセンジャー」誌での編集の仕事が大いに評価され、また自身の作品「ペスト王」や「影」なども発表、ついに主筆に抜擢されるまでになります。論壇時評での鋭さ(現代の一流の書評にみられる方法を確立)と、科学、航海術、歴史、地理、宗教、社会学などの分野に目配せした執筆で発行部数を7倍(500部から3500部へ)に激増させました。ところが実績に見合う賃金の支払いでオーナーと不和、興奮しやすい性格のポーは職を辞しました。ポーはいっそう飲酒に走り、友人たちは離れていきました。ポー一家はリッチモンド(当時人口2万)を去り、大都会ニューヨーク(人口30万)に向かい、「ニューヨーク評論」社の門を叩きますが不採用になります。運よく「メッセンジャー」誌に掲載されていた『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の版権を「ハーパー・アンド・ブラザーズ」社が買い上げてくれましたが、それも一時しのぎ、生活は奈落の底に落ちる一方です。ポーの「マインド・ツリー(心の樹)」は、メエルシュトレエムの渦に飲み込まれ、いっこうに根を張る土地を見いだすことができません。言の葉も枯葉のように舞い落ちるばかり。

信念の作品が運命を呼び込む。短篇集出版へ

この頃、ポーの容姿は根腐されした古木のように老人のようになり、死の影が漂いはじめたいたといいます。ヴァージニアとともにほとんど放浪するように向かったフィラデルフィアでも仮の宿さえ追い出され、明日のパンを得るため原稿を出版社に売り込みつづけます。その間に偶然にかつての友人ブルックスと出会い、彼が創刊したばかりの文芸雑誌「アメリカン・ミュージアム」に霊魂が前世に存在したことをうたった『ライジーア』が掲載されることになります。この信念の作品が、ポーの運命を呼び込みます。「ジェントルマンズ・マガジン」誌から声がかかり編集の仕事に就くと、ようやくしっかり根を張る場を得たポーは、みるみる枝葉を生やしていきました。それはまさに樹霊のなせる術とでもいうほどのものです。『アッシャー家の崩壊』と『ウィリアム・ウィルソン』(共に1839年)が掲載され絶賛されます。翌1940年には2巻本の短編集(リー・アンド・ブランチャード社刊。印税なしの条件)が出版されます。1巻目のタイトルは『グロテスクでアラベスクな物語』で「壜の中の手記」「ペスト王」「ライジーア」「アッシャー家の崩壊」「影」など14篇、2巻目は「ハンス・プファールの無類の冒険」「ベレニス」「エルサレムの物語」「妄想家」など11篇からなっていました。多くの雑誌が書評に載せ、賛否の渦を巻き起こしますが、圧倒的な想像力と表現力は次第に多くの読者を獲得していきます。好意的な批評も多く浮けますが、ポーの主題「心霊的存在への知覚」に気づいた批評は皆無でした言及した。

再び編集へ。「モルグ街の殺人」を著す

一難去ってまた一難。利潤を追求しはじめた「ジェントルマンズ・マガジン」誌のオーナーとそりが合わなくなり、譲渡された「ジェントルマンズ・マガジン」誌は「グレアムズ・マガジン」として再スタートします。そこで編集を担いながら、ポーの「樹」は樹勢をさらに逞しくします。「モルグ街の殺人」など週に3篇の短編と評論を発表し、1年半後に米国最大の発行部数(3万7千部)にまで伸ばします。ところが、その時、ヴァージニアが肺結核にかかってしまうのです。▶(4)に続く-近日up