スティーブ・ウォズニアックの「Mind Tree」(2)- 小学3年時から「サイエンス・フェア」に出品し続ける。中学2で「加減算機」を制作。ハイスクールで出会ったエレクトロニクス教師


小学3年生の時から「サイエンス・フェア」に出品

▶(1)からの続き:スティーブがベイ・エリアで開催される「サイエンス・フェア」に自ら制作した科学工作作品を出品するようになったのは、小学3年生の時からでした。最初の作品は、電球と電池を配線し小さな木板でつくった「懐中電灯」だったといいます。小学3年生だったので周りは驚いたようですが、少年スティーブにとってはそれは予行演習、翌年から実験的になっていきます。2本の炭素棒をいろんな液体(コーラかたビール、ジュース、塩水など)に浸した「実験装置」をつくり、次いで周期律表にあるすべての原子がわかる「電子模型」(すべての電子の軌道が点灯)を制作します。この時に電流を効果的に流すためダイオードの原理を学んでいます。このスーパー「電子模型」は、一等賞を獲得します。父が教えてくれた「論理」に熱をあげるようになっていた小学6年の時には、論理ゲームとしてのデジタル「三目並べ」を制作しています。

小学6年生の時に輝かしい科学少年の学校生活が暗転。皆からウク存在に

ティーブは小学生時代、近隣の「電気少年グループ」のリーダー的存在だっただけでなく、スポーツも大得意でした。フットボールや水泳、そして野球のリトルリーグのメンバーでした。また小学5年生の時には、クラスで一番の成績になり、生徒会の副会長に選ばれています。5、6年生の時の担任は、スティーブをよくわかってくれていたといいます。スティーブ自身、先生に恵まれたと語っています。
ところが6年生の時に、スティーブの輝かしい少年時代は暗転してしまうのです。問題は学校や先生ではなく友達間から生じてしまったのです。スティーブは皆の話の輪に入れなくなってしまうのです。クラスの皆が、スティーブの得意な理科工作や算数の話に興味をもたなくなり、皆の話題の中心はスティーブが興味のないことばかり。友達の話についていけなくなり急に仲間はずれにされた感じに陥ってしまったのです。学校生活も面白くなり、もともと内気なスティーブがその負のスパイラルを止めることはできなくなってしまいます。電気少年たちとも距離がではじめてしまいます。エレクトロニクスの理解は深まっていきましたが、友達とは誰もその話を共有することができなくなり、友達から完全に浮いしまったのです。論理に夢中になりデジタル「三目並べ」を家でせっせとつくっていたのはこの頃でした。

中学2年、後にパーソナル・コンピュータをつくる契機、「加減算機」を制作

こうした状況は、中学2年頃まで続いたといいます。この間にもスティーブは腐ることなく科学作品の制作に没入していました。少年スティーブの「マインド・ツリー(心の樹)」は、友達の輪に入れないからといって成長を止めてしまうのでなく、「論理」のブロックで積み上げられた樹幹になってなっていたのです。
「論理」で構成された「加減算機」をつくりだしたのは中学2年の時でした。数字の足し算や引き算ができる30センチ四方くらいの大きさの「加減算機」(トランジスタを100個以上、ダイオードを200個以上、抵抗器を200本以上使用し10個の加減算回路を並べたものだった)でした。この「加減算機」こそが、後にパーソナル・コンピュータをつくるスターティング・ポイントになったといいます。そしてそれは決して「論理」だけで生まれるものでなく、それまでに少年スティーブが学び体験してきたはんだ付けや、二進数理論、エレクトロニクスやエンジニアリングのすべてを投入して、ようやく生み出せるものだったのです。少年スティーブの心に生えた「マインド・ツリー」のすべてが映しだされたもの、それが「加減算機」の設計図でした。
ティーブは、この「加減算機」の制作を通じて、後の仕事にも通じる最も大切な”能力”に気づくことになります。それは「忍耐力」でした。自身が体験し学習したすべての要素がかかわってくるため、それらが互いに絡み合い最高の効果をだすためにはいろんな試行錯誤がつきものなのです。

ハイスクールで出会ったエレクトロニクス教師。コンピュータに初めて触れる

ハイスクールに入学すると少年スティーブの孤立感は消え失せます。軍人あがりの有能で面白い先生との出会いでした。Mr.マラコム(スティーブがつけた渾名)の授業内容は濃く、しかも自作し論理的なテキストを用いたエレクトロニクスの教え方にスティーブは感激します。後にスティーブ自身も同じ方法で教えるようになるほどのものでした。生徒は電子キットでいろんなものを組みたてながら覚えていくのですが、Mr.マラコムは大学の研究室でもおめにかからないエレクトロニクス機器やテスト機器を自身で数多く用意していて、授業はまさに「ラボ(研究室)」のようだったといいます。うまく作動しない時、何が問題なのか、うまく動くまで探求することができたのです。感電など日常茶飯事でした。
ティーブが最初に書いたプログラムは、「ナイト・ツアー」というパズル解きでした(チェスボードの64マスすべてを1度ずつ通過するようにナイトを動かすもの)。プログラムはなかなか難しく、プログラムは無限ループしてしまったといいます。考え抜いた「アルゴリズム」(プログラムが従うルール、手順のこと)がなければ、1秒間に100万回のスピードがあろうが問題が解けるものでないということを認識したといいます。「論理」だけでなく「洞察力」がなくては、パズルさえ解けないと。
Mr.マラコムは、できのよいスティーブだけ特別に金曜日にある会社(シルバニア社)に行かせそこで実地に学ぶことを授業に相当させたのです。スティーブは夢中になります。そこでコンピュータのプログラミングを学ぶことができたのです。そこで本物のコンピュータを初めて目にし触れています。スティーブは、FORTRANの本を買い込みプログラミグを勉強しだします。キーパンチのやり方を会社のエンジニアに教えてもらいながら、初めてつくったプログラムを打ち込みコンピュータを走らせたのでした。
そこで『スモール・コンピュータ・ハンドブック』というマニュアル本を偶然見つけます。その本と出会ったのは長い人生のなかでも最高の幸運の一つだったとスティーブは語っていますが、それは自身の「心の樹」の枝が伸びていった先にあったもので、宝クジに当たったようなラッキーさとはまったく異なるものです。コンピュータへの強い関心を抱いていなければ、『スモール・コンピュータ・ハンドブック』のマニュアル本などほとんどの人にとってそこいらにうち捨てられた雑誌と同じものなのですから。この時期に幸運が重なります。工学系雑誌で「コンピュータの記事」を見つけたのです。父がたまたま部屋に放ってあったものでした。ここでももしスティーブがコンピュータに意識を寄せていなければ、部屋の中にほおっておかれた工学系雑誌などまさにゴミ同然のものだったわけです。
「幸運」とは、自身の絶えず希(のぞ)み続けている意識の状態と必ず関係があるものなので(自分が気にしていないもの、望んでいないものがいくら手元に入り込んでも、ひとはそれを「幸運」とは思わない)、「運」を招き入れる回路、つまり「マインド・ツリー」の枝がある方向に向ってしっかり伸びていっていれば、その枝先にひょいと”ひっかかってくる”ものにちがいありません。

ミニコンピュータのマニュアルを入手し、「想像力」でミニコンピュータを設計

さて、『スモール・コンピュータ・ハンドブック』に載せてあったのは、ディジタル・イクイップメント社製PDP-8ミニコンピュータの仕組みでした。少年スティーブは興奮します。本物のコンピュータの内部の様子を初めて目の当たりにしたのです。会社のエンジニアに頼み込んでその本を家に持ち帰り、論理回路や部品を精査していきました。どのように論理部品を組み合わせたらこのミニコンピュータと同じものができるのか、少年スティーブは毎晩繰り返し思考したといいます。そして未完成部分やミステイクも多くあったようですが、自身でコンピュータを設計しはじめたのです。高校3年以降も、自力で入手しえるだけのミニコンピュータのマニュアルを数年間にわたって継続的に収集しつづけました。ヒューレット・パッカード、データ・ゼネラル、ディジタル・イクイップメント、バリアンのものでした。時代は巨大コンピュータが小型化する過渡期で、ミニコンピュータ・マシンが世の中に出回りだしていた頃でした。
ティーブはひとり部屋にこもり、論理部品やチップのカタログとマニュアル本から得たコンピュータの内部構造を照らし合わせたり、改良された新部品をつかった少ないチップによるミニコンピュータづくりをはじめていったのです。スティーブにとってそうした改良や設計はゲーム感覚のノリでした。本物のコンピュータをつくる部品を購入することはできないので、すべて紙の上での「想像力」による設計でした。このことは何年間も、友達や学校の先生だけでなく両親にも話さなかったといいます。1年も黙々とやり続けると部品を少なくするノウハウに関しては、誰にも負けない気がするようになったといいます(後にスティーブ・ジョブスとの出会いの中でそのノウハウが活かされることに)。なんと本物のコンピュータでもちいられている半分のチップ数で、同じものを設計できるようになっていたのです。
▶(3)に続く-未

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