梶原一騎の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 父方の知的な高森家と、大柄で激烈な気性の母方・佐藤家の遺伝子の「合作」。不良少年を可愛がっていた英語教師(後に編集者)の父 


はじめに:「スポ根」マンガを確立した「梶原一騎

あしたのジョー』『巨人の星』『タイガーマスク』『愛と誠』『空手バカ一代』『赤き血のイレブン』『柔道一直線』『夕焼け番長』『キックの鬼』など、あらためて思えば、少年期にお世話になった漫画やテレビアニメの主なものの多くが、「梶原一騎・原作」だったとは、当時はあまり知らずに(気にせずに)、私自身楽しんでいたようです。これらの作品が一人の人物から生み出されていたとはあらためて驚くばかりです。また作品のほとんどは、「スポ根」もので、その分野を確立したのが「梶原一騎」でした。この流れのなかに「サインはV」や「アタック No.1」といった女子「スポ根」ものもすぐ後に登場してくるとなれば、いよいよ「スポ根」漫画を確立した「梶原一騎」なる人物のことが気になってこないわけがありません。
梶原一騎」が生み出しつづけた「スポ根」ものの背景には何があるのか。後年スキャンダラスにまみれた豪放磊落で強面(こわもて)の「梶原一騎」とそれは繋がるものがあるのか。「梶原一騎」という仮面の下の高森朝樹(本名)とはどんな人物だったのか。
また、梶原作品にはどうして孤児院(『タイガーマスク』)や少年院(『あしたのジョー』)、不良[中・高校](『愛と誠』)や、強烈な「師弟関係」(『巨人の星』『あしたのジョー』『柔道一直線』など)が、なぜ数多く描かれるのか。その鍵は、高森朝樹の少年時代にあったのです。
そして作品は作者の心の裡を反映させるといわれるように、梶原作品も、高森朝樹自身の裡にある「マインド・ツリー(心の樹)」の露出であり噴出であり、「パンチ」であり「キック」だったのです。

梶原一騎」は、父方の知的な高森家と、大柄で激烈な気性の母方・佐藤家の遺伝子の「合作」

梶原一騎(本名:高森朝樹)は、昭和11年(1936年)9月4日、東京府浅草区石浜(現在の台東区荒川区の境。昭和41年に清川町と橋場町に併合される)に生まれています。が、晩年、スキャンダルに晒されるようになるまでずっと、梶原一騎は自らを肥後もっこすの熊本出身で通していました。高森家が熊本県阿蘇郡高森町にある高森城の豪族の末裔(時に城主や小大名)だったという高森朝樹の強い血統意識があらわれたものとされたようですが(高森城との絡みはどうも事実ではなかった)、その嘘の底には、早稲田大学卒という経歴詐称とは異なる次元の、”知的にして反骨心の塊(かたまり)”となった高森朝樹の巨大な<球根>をつけた”根っ子”があったのです。
また、実弟真樹日佐夫(本名:高森真土 世界空手道連盟真樹道場宗師)の言葉を借りると次のようになります。兄・高森朝樹「梶原一騎」は、父方の知的な高森家と、大柄で激烈な気性な持ち主ばかりだった母方の佐藤家の遺伝子の「合作」だった、と(ちなみにこちらも豪傑な真樹日佐夫氏も、若い頃に開いたバーの店名は、「モンテクリスト」。アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』からとられたもので、日本では別名『巌窟王』として知られ、無実の罪で投獄された主人公の復讐物語)
別様にいえば、「梶原一騎」という豪傑な人物の「原作」は、佐藤家の方で、入念で持続的な知的ワークが要求される「作画」は高森家の遺伝だった、といえるかもしれません。豪傑な血1本ならば、連日睡眠3、4時間という人気漫画家の過密スケジュールは1年もすれば破綻してしまうだろうからです。
ただ、父方の知的な高森家と、気性が烈しい母方の佐藤家の両極の融合かといえば、そう単純ではありません。なぜならば父方の知的派とは、「反骨心の塊」を抱いた知的派だったからです。しかも祖父の妻(梶原一騎の父方の祖母)は、熊本藩主細川家に仕えた林家の女性で、『源氏物語』を全篇そらんじることができ短歌も俳句にも秀でた才女だったのです。
祖父・高森貞太郎は、同志社大学に学び、旧制中学の英語教師だったと一言でかたずけられない存在で、また優等生といわれた父・高森龍夫は線の細いそれでなく、上から押さえつけられるのが根っから嫌いな反骨精神旺盛なインテリジェンスな男だったのです。まずは祖父の貞太郎からみてみましょう。祖父は「梶原一騎」が吹聴し続けた熊本に”根”を持っていました。

祖父は、熊本洋学校の”同志”のスピリットを継いだ同志社に学んだ

祖父・高森貞太郎(阿蘇郡坂梨村出身。慶応2年1866年生まれ)の幼少期、熊本は「肥後の維新」明治維新に続き明治3年、封建制打破を掲げ肥後熊本ではじまった民衆運動)、「神風連の乱(明治9年)、「西南戦争明治10年が立て続けに起こり、貞太郎少年のスピリットを刺激していきました。が、貞太郎の父は母と子供たちを残し家を出て行ってしまい、貞太郎は土佐派画家の津々良一如に引き取られています。その後、母も再婚し家を後にし、苦労と苦学のなか貞太郎は京都・同志社に入学しています。
じつはこの同志社が、同志社英学校(1875年新島襄創立時、先生2人、生徒8人)から拡充したのは、創立翌年に、時の中央政権から睨まれていた日本のプロテスタントの三大源流の一つ「熊本バンド(団)」(他は、札幌と横浜)の35人が入学したことが大きな契機になっています。彼等35人は廃校の憂き目にあった熊本洋学校を根城にしていました。熊本洋学校は、あの坂本龍馬の「船中八策」の原案となった「国是七条」を説き、また鎖国政策と幕藩体制を批判し「交易」と「公共」を重視し、<和魂洋才>の実学の始祖として知られる横井小楠(しょうなん)の甥(おい)・横井大平が設立した学校です。日本赤十字社の前身となる「博愛社」が設立されたのもこの熊本洋学校でした。貞太郎は、こうして京都同志社に集結することになった熊本洋学校の”同志”のスピリットを継いでいた人物だったのです(祖父も祖母もクリスチャンになった)。貞太郎はハワイで英語に磨きをかけ帰国後、旧制中学の英語教師になり、熊本済々黌(せいせいこう)中学や、岐阜大垣、愛知津島、群馬富岡で教鞭をとりつづけました。
ちなみに『巨人の星』に星飛雄馬のライバルの一人として登場する左門豊作は熊本出身で、「梶原一騎」は作品中この左門豊作に自身の一端を映しだしているといわれています。

不良少年を可愛がっていた英語教師の父・貞太郎、後に「編集」の道へ

そんなスピリットをもつ父のもとに生まれた朝樹の父・高森龍夫が影響を受けないわけがありません。すでに記したように、龍夫少年は知力が高かったけれども線の細い優等生然としていなかったのは、上から押さえこもうとする権力を酷く嫌う気質があったためで、それは”同志”のスピリットを継いだ高森貞太郎の背中を見て育ったためとおもわれます。面白いことには、主人公が師に挑まなくてはならなくなる梶原一騎作品を彷彿とさせることが、現に父と祖父の間に起こっていることです。高森龍夫少年は、父・貞太郎が愛知津島町の中学校で教鞭をとっていた時、首謀役となり生徒を糾合し授業ストライキを決行しているのです。龍夫少年はこれで退校処分をくらっています。豪傑な母・佐藤や江の血筋がまだ高森家に注入されない時点でこれですから、その子供の朝樹梶原一騎や弟の真土真樹日佐夫がこじんまりとまとまるような性格になるのはもはや不可能ともいえます。
それでも朝樹(梶原一騎)の父・龍夫は、20歳の時、なんとか進学の道をつけ上京、まずは芝白金教会で洗礼を受けています(これも「熊本バンド」の影響でしょう)。実家は扶養する子供も多く、早くから生計を考えなくてはなりませんでした。が、結核から二年間療養を余儀なくされ、ようやく青山学院の師範科に入学することになります(青学選択の理由は当時、卒業後一定期間教師を務めると学費免除か減額されたためとも)。教師志望というわけではなかったものの、やはり英語教師だった父の姿を見ていたのでしょう。卒業後大正14年山梨県都留の山懐の小さな中学校に英語教師として赴任しています。けれども週末の関心は、芝居のスケッチ(築地小劇場に観劇によく出向いた。自宅の本棚にはチェーホフロマン・ロラン)や、2種の同人誌(勤務先中学校や小学校の教師、一般の人たち参加のものと、卒業生が中心となったもの)の世話役をしていたのです。龍夫は、少年期に弟や付近の友達に声をかけ、絵の展示会や詩や作文、挿絵を入れ小冊子を自前でつくっていたので、潜在していた生来の知的な関心事に自然向ったようです。
最も、ここでの教職を投げ打つことになったのも、札付き不良少年の処分をめぐる校長との対立からだったのです(龍夫は不良少年を可愛がっていた)。龍夫の「心の樹」にはすでに様々な枝葉が伸びていて、東京では新聞社でいくらか美術評や挿絵を書いたり、依頼を受け小学唱歌集を編集したり、名古屋(この頃まだ実家があった)で家庭教師をしたりしています。そして幾つもの枝葉の合流点として「編集」を志すようになるのです。ただ時世は厳しく、平凡社の百科事典の編集に一時期かかわったものの仕事は安定せず、浅草の路上で洋書の露店を開いたこともあったといいます。妻になる佐藤や江と出会ったのはこの頃でした(や江の兄が龍夫と友人だった)

父は、中央公論社改造社の編集者に

龍夫とや江は、浅草区石浜の木賃アパートで夫婦生活をはじめます。浅草・石浜といえば、かつて隅田川の河口が浅草・石浜で、そこが「石浜湊」、東京湾の歴史の第一頁になった場所であり、戦国時代には、すでに戦国前期に建てられていた太田道灌江戸城とは別に、この地の”根城”としての石浜城があり、睨みを効かしていたようです。こうした荒ぶるこの地の<地霊ーゲニウス・ロキ>も身籠ったや江のお腹の中に侵入したのかもしれません。昭和11年、「2・26事件」が勃発した半年後、長男として朝樹梶原一騎が誕生します。朝樹の記憶には浅草区石浜の光景はありません。朝樹誕生後、渋谷区原宿穏田に移り住んでいるからです。
朝樹が生まれた当時、父・龍夫は中央公論社で『世界文芸大辞典』の校正員(当初は定職ではなかった)として働いていました。昭和13年中央公論社を退社した龍夫は、大正デモクラシーの高揚を背景に民衆解放の主張を掲げ、戦前・戦中の代表的総合雑誌となった『改造』の版元・改造社に職をみつけています。入社した4年後に戦時下の言論弾圧の象徴となった「横浜事件(1942年)が起こってしまいます(論文が共産主義の宣伝だとし、『改造』と『中央公論』のみならず岩波書店朝日新聞などの関係者ら60人余を治安維持法違反で検挙、拷問から4人が獄死、権力は2社を解散させている。すべてが神奈川県警特別高等警察の権力をかさにした思い込み捜査で、事件が冤罪であったことが今では判明したいる)。龍夫は改造社で、『俳句研究』の編集長を務め、派閥意識に固まった俳壇の閉鎖性を打ち崩そうと「大東亜俳句圏」なる構想を打ち上げようとしましたが、「横浜事件」から改造社は解散の憂き目に。龍夫は小さな雑誌社の顧問として過ごしています。

後の青山学院初等部に入学。喧嘩っ早く小学1年で転校を言い渡される

高森朝樹(後の梶原一騎)の気性が落ち着かず、喧嘩っ早い気質は、すでに戦中の幼少期にあらわれていました。それでも他の子供たちと同様、戦中の昭和18年、朝樹は渋谷の私立緑岡小学校に入学(戦後に青山学院初等部と改称)しますが、やはりすぐに問題を起こしてしまいます。青学といえば、父・龍夫が師範科時代に在籍していた学校でした。案の定、朝樹の荒い気質は、あまりにも青学のそれとは水と油。クラスや同学年の生徒たちと衝突ばかり。朝樹の身体がこの頃から太り気味で大きかったため勝ち目はないとふんだ同学年の生徒たちは、上級生とつるんで逆襲してくるのでさすがの朝樹も体中生傷が絶えなかったといいます。そのくせ目立ちたがり屋でもあった朝樹は、「喧嘩」が花の如く、「喧嘩」に自身の存在感を感じ取るのでした。小学校1年にして、まずは母方の血筋と父の反抗心が融合し、鉄拳の様な塊となり、<性根>が剥き出しになっていたのです(幼少期としては自然な状態ではあるとおもわれますが)。朝樹の悪ぶる<性根>は、そうした尖った<性根>を集団生活と学校権力で制御しコントロールしようとする環境(学校や家庭、地域)をもすべて蹴散らしてしまうほどのものだったのです。朝樹は仕返しに彼等上級生(4年生の3人組)を奇襲し血染めにしてしまいます。これは梶原一騎の初期作品『タイガーマスク』で中学生3人をやっつけた素質を見込まれレスラー「虎の穴」にスカウトされたという背景に酷似しています。最も朝樹が入れられたのは、「虎の穴」ではなく、またスカウトもされず、当時家のあった原宿穏田のすぐ近くの公立の小学校でしたが、朝樹の心の内では、空想の中の「虎の穴」の様なところこそ、自身が所属するべき所と思ったにちがいありません。現実には、母が学校に呼びつけられ、入学してまだ1年もたっていませんでしたが、早々に転校をすすめられたのでした。
そんな強者(つわもの)の朝樹を今度はB29が上空から襲いはじめます。空襲警報が鳴る中、高森一家は仕事のある父を残し、龍夫の叔父(母の・寿の弟)が住む宮崎県日向町に疎開するのでした。▶(2)に続く
参照文献:『梶原一騎伝』(斎藤貴男著 新潮文庫 1995刊)

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