梶原一騎の「Mind Tree」(2)- 小学校で暴れまわり、13歳「教護院」に送り込まれる。「国語」は抜群の成績。絵物語『ノックアウトQ』に熱中。商業高校1年の時、応募した小説が入選

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敗戦後、川崎の公立小学校へ。ピストン堀口に憧れる。「ボクシング」が大好きに

▶(1)からの続き:疎開先の宮崎県日向町では、朝樹は地元の子供たちとは馴染めず、むしろ特攻隊員たちと仲良くなっています。隣県の鹿児島・鹿屋基地の特攻隊員が、最期の自由を味わうため疎開先の近くにまで足を運んできていたのです。後に梶原一騎は『青春山脈』(『少年マガジン』連載)にその様子を書き込んでいます。終戦後、最初に移り住んだのは神奈川県藤沢市鵠沼海岸にあった父・龍夫の家。その2年後に川崎市の浜町を居としています(祖父貞太郎と2年間同居、最期を看取っている)
11歳になった少年朝樹は、再び小学校に通いはじめます。川崎の公立小学校でした。疎開先では大人しかった朝樹は、”性根(根の性質)”が丸出しになり、水を得た魚のように生き生きとしはじめ、喧嘩相手を求めるかのように暴れ回りはじめたのです。「ボクシング」が大好きになったのはこの川崎時代でした。「剣聖」宮本武蔵になぞられ「拳聖」と呼ばれた名ボクサー、ピストン堀口への憧れがきっかけでした。弟の真土を引き連れ朝メシ前の無賃乗車であちこちの会場に行き山口県で催された試合までも)、試合開始の5、6時間前に会場に潜り込み、試合開始まで2人でトイレに隠れる。これがお金の無い朝樹が大好きなボクシングを見るための常習の手口でした。後に梶原一騎が生み出すすべての格闘技の世界の扉を開いた人物がピストン堀口で、スポーツが「ボクシング」だったのです(弟の真土ー真樹日佐夫は、兄・朝樹が子供の頃から心底好きだったのはボクシングだけだったと語っている)。朝樹が求めた喧嘩相手は、大好きな「ボクシング」の対戦相手で、空想の中で、少年朝樹はリングにのぼり対戦していたにちがいありません。ピストン堀口のように無類のスタミナを発揮し、空想の中のロープに追いつめ左右の絶えざる連打ーピストン戦法ーを繰り出せば、相手は間違いなくノックダウンせざるをえなかったはずです。

13歳、「教護院」に送り込まれる。

その結果、朝樹は川崎の小学校からも退けられてしまいます。北九州・小倉で教師をしていた母や江の親類の家に預けらましたが、そこでも担任教師を闇討ちに仕留め退学させられています。夜寝る時も、病弱だった母の隣の席を、兄弟で先を争っていたといいます。東京・大田区の蒲田近くに移り住んでいた父のもとに戻ると、エネルギーを発散するため、弟の真土と近くにあった柔道場に通いだしますが、学校での悪童ぶりは相変わらずでした。凶暴さは止まず、同級生に大怪我をさせてしまったことが、少年朝樹の大きなターニング・ポイントになるのです。
13歳(昭和25年)の少年朝樹が送り込まれたのは、「教護院」児童福祉法に基づいた施設。現在の児童自立支援施設。昭和9年以前の「感化院」)でした。JR青梅線小作駅近くにある東京都立誠明学園(かつての東京府立感化院)がそれでした。


「教護院」のシステムは、アメリカや英国の「ファミリー・ホーム」や「チルドレンズ・ルーム」の制度を模したもので、その根幹は日本の「社会福祉の先駆者」で、感化法の制定(明治33年)に尽力した留岡幸助が唱えた「キリスト教の精神、勤労主義、家庭的な雰囲気」の基本思想によって支えらていた。留岡幸助は、偶然にも朝樹の祖父・高森貞太郎が通った京都・同志社英学校で学び、創立者新島襄に薫陶されています。熊本バンドの一人として同じく同志社英学校で学んだ徳富蘆花と親交を結び、福知山で教会牧師となり、アメリカの感化監獄で実習を重ね、帰国後に日本での感化院の設立のために奔走、北海道家庭学校も創始しています。留岡幸助自身、少年時代に喧嘩で武家の子息を怪我させ養父の商いに大きな支障をきたし折檻され、キリスト教会に逃げ込んだことが契機になっています。そんな留岡が設立した感化院(後の「教護院」)に朝樹が入所したのも不思議な縁といえます。


教護院は、『あしたのジョー』に描かれた少年院(犯罪を犯した少年が送り込まれる施設)ではなく、子供に手をやいた両親の合意の下、生活・学習・職業の各指導をつうじ子供を健全に育む目的で設立された施設です。朝樹の場合も、品川児童相談所が両親に話しを向けて入所させられています。6割は窃盗による入所者で、非行歴数えきれずという朝樹のような悪童から、戦災孤児になって浮浪児となっていた子供もいました。ほとんどは親がいないか片親の子供だったといいます(両親ともいる者は約12パーセント)
教護院内は、教護と教母を疑両親に一緒に暮らす環境になっていましたが、悪童がそれで大人しくなるわけではありません。暴れだしたり喧嘩やリンチ、逃亡は日常茶飯事。ここでも朝樹の喧嘩早さは相変わらずで、1年もすると学園のボスにのしあがっていたほどでした。ボスとなった朝樹は、3食では足りず食事を脅し取り、ますます巨漢になり風格を漂わせるようになっていったようです。

「教護院」のボスになる。抜群の「国語」の成績。絵物語『ノックアウトQ』に熱中

この「教護院」時代の3年間は、朝樹のボス体質を証明したこと以上に、少年朝樹にとって、また後の「梶原一騎」誕生の揺籃期にあたっています。小学生の頃からの「悪童」ぶりと「ボクシング」好きと、父・龍夫から受け継いだ「文学」と「絵画」好きが、太い樹幹に「合流」してきた時期にあたるのです。巨きな”樹体”は、体つきだけでなく、その内面も高密度になりはち切れんばかりになっていきます。
誠明学園では、戦後の混乱期にもかかわらず先生にとっても3食つきの好条件だったため、現役の教員が多く集まり学齢別学級と専科別担任教師を揃えていました。朝樹の成績は、体育と理科系以外はかなり良いものだったといいます。体育の成績がふるわなかったのは、授業が「野球」が中心で(全国教護院野球大会が毎年開催されていた)、朝樹はボクシングに比べちょこまかした野球はもともと好きでなく不得手だったのです(それでも後に『巨人の星』を原作しているが)。英語はどちらかといえば苦手だったようですが、「国語」の成績は抜群だったといいます。
巨漢の学園ボスは、読書好きでした。『少年クラブ』『少年画報』『冒険王』といった当時の多くの少年たちも夢中になった月刊少年誌だけけでなく、大きな体をくるらせながら図書室に入り込んで、身を丸め大人向けの世界名作「小説」もむさぼり読むのです(実際、国語の授業中、ダンテの『神曲』を読みふけっていて先生に怒鳴られたことがあったという)。学園ボス朝樹が最ものめり込んだのは、『漫画少年』に連載されていた絵物語『ノックアウトQ』でした(戦後の大衆文芸に絵物語という新分野を開拓した山川惣治(そうじ)が、当時「ノックアウトQ」の異名をもった戦前の名ボクサー・木村久五郎ーバンタム級で世界の8位にランクされ、日本人初のベストテン選手ーをモデルに描いたもの)。『ノックアウトQ』は、山川惣治とボクサー・木村久五郎との実際にあった交遊をモデルとして描いたもので、<自伝的>な要素が強い友情絵物語でした(『ノックアウトQ』の作中の章治少年が、山川惣治自身だった)
学園ボス朝樹も、当時試合でアメリカにいた木村久五郎に勝利のお祝いの手紙を書いています。少年朝樹はあることを「決心」しています。名ボクサー木村久五郎が努力し頑張ったように、自分も「絵」の才を大いにのばし、「画家」になろうという決心でした。それは決心であると同時に、「絵」の才能が天分として眠っているのなら、そうすることが「義務」ではないかと考えたのです。しかし学園ボス朝樹が最も魅了されていたのは、「絵」ではなく「絵物語」の『ノックアウトQ』だったことは大きな意味をもちます。単なる「絵」でなく、単なる「物語(小説)」でもないもの。2つが「合体」していた「絵物語」ー後の『漫画』であり『劇画』ーだったのです。「絵」と「物語(小説)」は、どちらも幼少期から編集者だった父の部屋で触れ、目にしていたものでした。

「梶原」とは、恋仲の女の子の姓だった。商業高校1年の時、応募した小説が入選

学園ボス朝樹が脱走しはじめたのは入所2年目の後期くらいからだったようです。しかも入所していた女の子と一緒でした。学園では朝樹が入所した2年目の時、女子部が併設され、クラスだけは男女共学になっていました。授業が終われば交遊は禁じられていましたが、学園ボス朝樹にとって禁止事項などないにも等しいものでした。なんとも不思議なのは、朝樹と恋仲になった少女の名の姓が「梶原」だったことです。つまり学園ボスの高森朝樹は、2年余り後につけるペンネームの名前に、なんと恋した女の子の苗字「梶原」をつけているのです(梶原一騎自身、生前自分のペンネームは、『平家物語」に描かれた梶原源太景季(かげすえ)に自分のお粗末さをダブらせたものと語っていたが、担当編集者には、高森は顔に似合わず相当なロマンチストだと言われることになる)。
教護院は当時、学園からの脱走には暗黙のルールがあったようです。教護院はあくまで少年院とは異なり、少年少女の気持ちを察し、数日の脱走は大目に見てくれていたといいます(家に戻った場合、電話を入れておくと、2日後に職員が連れ戻しに来ることになっていた)。朝樹の脱走の場合、父が言い聞かせ2人を学園に送り届けています。それからというもの朝樹の成績はぐんぐん上がっていきました。教護院では成績優秀者には進学のための受験を受けることができ、朝樹は都内の商業科ではトップクラスの都立芝商業高校を受験し、見事に合格します。少年朝樹17歳(昭和28年)の年でした。
が、珠算や簿記が重視されていた商業高校で(芝商業高校は珠算で全国トップクラスだった)、少年朝樹がでる幕はありませんでした。ほとんどの生徒は中学でソロバンをマスターしていましたが朝樹は珠算などはからっきし苦手で、入学早々に落ちこぼれはじめます。教護院とはあまりにも異なる学校環境に欲求不満が高じ、ジムに通いボクシングを習いはじめていますが、少年朝樹の漫然とした鬱屈はおさまりません。
高校1年の夏、少年朝樹は『少年画報』が懸賞小説を募集していることを知り、原稿用紙30枚程の小説を書きあげます。『ノックアウトQ』を下敷きに、自らのジム通いの体験を重ね合わせた内容のボクシング小説でした(主人公は「朝彦」、つまり朝樹自身を映しだしていた)。新人ボクサーのデビューまでの軌跡に、兄弟愛と師弟愛が込められたもので、後の「梶原一騎」作品の原型がすでにあらわれていたといわれます。この作品『勝利のかげに』は入選をはたし、『少年画報』の昭和28年11月号に掲載され、同時にペンネーム「梶原一騎」がはじめて紙面におどったのです。マンガの原作者ではなく、「小説」の作者としてでしたが、江戸川乱歩の挿絵も描いていた著名な挿絵画家・林唯一(ただいち)の見事な挿絵と一緒だったのです。
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