ケイト・モスの「Mind Tree」(2)- 13歳の時、タバコもお酒も、両親は何でも好きにさせてくれた、とは?

14歳の時、ケネディ国際空港でスカウトされる

▶(1)からの続き:ケイトが、モデル・エージェントにスカウトされたのは、家庭崩壊した翌年、ケイト14歳の時でした。父と弟と3人で2週間のバハマへの旅行の帰り、ニューヨークのケネディ国際空港でのことでした。その時、母リンダの姿はありません。すでに離婚が成立し、母リンダのもとに預けられていたケイトが、父と弟と一緒に海外旅行に行くことになったのでしょう(あるいは離婚前で、一時的別居状態はすぎ、母リンダが不倫相手とともに暮らしはじめた頃かもしれません)
その日も父と弟、そしてケイトの3人は、ヴァージン・アトランティック航空のキャンセル待ちの列に並んでいました。あまりに混雑し、イギリス行きの便はどれも満席状態で、3人は2日間も足止めをくらい、3日目に突入していました。父の妹の結婚式が翌日に控えていたので、3日目の「運命となる日」は、ケイトはチェックイン・カウンターにその事情を話し泣きついていたといいます。その訴えが功を奏し、ファーストクラス、ビジネスクラス、エコノミークラスとそれぞれ1席づつ割り当てられ、ロンドン行き最終便に搭乗することになります。1席づつ割り当てられなかったら、ケイトの運命は別の方向に、ケイト自身も語るように、旅行業界に入ってチケットカウンターで仕事していたのかもしれなかったのです(それは父と同じ職業でもあります。ケイトは別々に暮らすことになる父がとても好きだったようです。後年、ケイトは父がオーナーになる旅行会社に資金を提供しています。またバハマへの旅行も、もし父と距離があれば一緒についていかなかったはずですから)。

ロンドンでモデル・エージェント「ストーム」の時代を読む眼

機内でのこと、ケイトのところに2人の男性が近づき、こう話しかけました。「すみませんが、今までモデルになろうと思ったことはありませんか?」と。話しかけた男は、サイモン・チェンバーズ。この男は元モデルで、当時ロンドンでモデル・エージェント「ストーム」を立ち上げたばかりの実業家サラ・ドゥカスの弟でした。その隣にいたのが、サラ・ドゥカス本人でした。ケイトは最高レベルの警戒をしました。隣には父も弟もいません。
ケイトが機内であったことを父に話したのは、ロンドンについて飛行機を降りながらのことでした。実直な父も警戒心をあらわにするばかりでした。母リンダの魅力に鈍感な父が、リンダに似て幅広な鼻で目が離れ痩せすぎているケイトの魅力に気づくことはありませんでした。「そりゃ、驚きましたよ。うちの娘が特別だなんて考えたこともありませんでしたからね」というのが父ピーターの感想でした。誠実な男ピーターは、母と娘2人の不思議な女性に囲まれていたことになります。そして父似の弟ニックだけが残り、2人ともピーターから旅発っていってしまったのです。まるで父は母・娘2人にとって「中継地点」にすぎず、破天荒な人生の旅行者が、妻リンダと娘ケイトだったかのように。

ファッション業界に訪れた新しい価値の体現者

この出会いの背景には、ヴァージン・グループの会長リチャード・ブランソンの存在が垣間見えます。サラ・ドゥカスは、リチャード・ブランソンの妻リンディと昔ルームメートで、そのつてでドゥカスはブランソンから資金援助を獲て、モデル・エージェント「ストーム」を立ち上げ、またケネディー国際空港でケイトら3人がキャンセル待ちの列に並んでいたのもリチャード・ブランソンが34歳の時立ち上げた、斬新なサービスと身軽な旅を実現させようとしたヴァージン・アトランティック航空のカウンターだったのです。
気鋭のモデル・エージェント「ストーム」は精鋭揃いのモデルを採用しようとしていましたが、90年代に入るとファッション業界におとずれようとしていた新たな潮流を乗り切っていくには、従来のモデル観にはないものが必要だと感じ取っていました。肩パッドの入ったスーツに身を包んだ男まさりキャリアウーマンが闊歩した1980年代は終焉し、90年代に突入すると世界各地で政治的にも経済的にも混乱しはじめ、投機市場が生み出すような過ぎたゴージャスさは浮きはじめ悪趣味と感じられはじめていました。
飾らない姿、ありのままの自分、本物の何かを求める風潮が次第に大きくなってきました。そうした時代には、従来のオーディションという方法では、新しい価値を体現するモデルを発掘できないジレンマに陥っていました。そのためドゥカスたちは意外な場所でモデルを発掘するようになっていたのです。「通りで見かけた女の子をスカウトするというのは、<時代の精神>をとらえる新しい方法なのだ」と語っています。この感覚は、遡ればエドガー・アラン・ポーボードレールに通じうるものともいえます。

野放図な自然児さに漂うもの

2人がケネディ国際空港にいたのも、アメリカで新しいモデルを探すのが目的で、その旅は結局、無駄足だったと感じていた時のことだったのです。交際空港で初めてケイトを見つけた時の二人の興奮は言葉ではいいあらわせない程だったといいます。よほどの魅力の源泉を、14歳のケイトはその身にたたえていたにちがいありません。しかし「高い頬骨、幅広な鼻、尖った歯、離れた目、痩せた体、O脚の足、ぺちゃんこな胸、不思議な顔」と、そのどれもが80年代スーパーモデルのそれとはかけ離れていました。しかしそんなケイトが醸し出す自然な魅力、無邪気さ、荒削り、野放図な個人主義ニヒリズム的憂いは、時代の流れをキャッチする能力にたけた彼らの目を釘付けにするものだったのです。ケイトのその野放図な自然児さは、これからケイトらが搭乗しようとするヴァージン・アトランティック航空の創立者リチャード・ブランソンのイメージとどこか通じ合います。そしてケイトとリチャード・ブランソンが生まれたのは同じくサウス・ロンドンだったのです。
そしてサラ・ドゥカス兄弟が、跫(あしおと)として感じ取っていた感覚は、数年後に浮上してくる<アンチ・ファッション>というムーブメントでした。この流れは、すでに浮上していたストリート・ファッションやグランジ・ルック、さらにはウェイフ(浮浪児)現象とも絡まりながら、ファッション界を貫いていきます。ケイトは「スーパー・ウェイフ」のイコンとなっていきます。ケイトの痩せ細った「マインド・ツリー(心の樹)」は、同じく痩せ細った樹木でいっぱいの原野の中の典型的な一本の樹木でもあったのです。

13歳の時、タバコもお酒も、両親は何でも好きにさせてくれた、とは?

じつはドゥカス兄弟が初めて目撃したケイトの姿は、自然な魅力、ありのままの姿、無邪気さ、といったものとはちょっと異なっていました。その前年から、ケイトはそれまでのケイトではなくなっていたからです。素行は乱れだし、夜な夜な男たちと何処かに消えてゆくようになっていました。当時もケイトが口にすることのないその原因。それは間違いなく両親の離婚でした。ケイト自身次のように語っています。「13歳の時、親の前でタバコを吸ってもお酒も飲んでも、両親は何でも好きにさせてくれたのよ」と、さもものわかりがよく自由な家庭環境だったかのように語っています。が、ケイト自身いみじくも明かしているように「13歳の時」なのです。それは幸せだった家庭に亀裂が走った年、そして両親の諍いが修羅場と化していた年、ケイトの人生がややこしくなりはじめた年だったのです。両親が喚(わめ)きちらしている前で、心乱れ暗澹たる気持ちのケイトが、タバコを吸いお酒を飲もうが、もはや両親は諌(いさ)めることなどできようもありません。それをケイトは、「両親は何でも好きにさせてくれたのよ」と婉曲に語っていたわけです。
▶(3)に続く