ジェームズ・ディーンの「Mind Tree」(2)- 「ビリー・ザ・キッド」の虜に。ハイスクール時代、サン=テクジュペリの『星の王子様』をいつも持ち歩いていた


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聞いた話をすぐに”真似”てみるジミー。ディズニー・アニメも即興で演じる

▶(1)からの続き:まだ4歳にならんかとしている頃、ジミーは家の裏庭に小さなリンゴの果樹園をつくろうとしたことがありました。それは母から聞いた開拓時代の伝説の聖人ジョン・チャップマン(1845年死去)の話から思いついたものでした。チャップマンは果汁を絞り切った後に残るリンゴの種を集めては、ジミーが生まれたインディアナ州も含め東部のペンシルバニア州からケンタッキー州にまでわたって、聖書を説きながら気の遠くなるほどのリンゴの種を植えて回った実在の人物でした。”ジョニー・アップルシード”という愛称で人々に感銘とリンゴの樹々を残していった聖人ジョン・チャップマン話にジミーはすぐに反応し、母にリンゴの種をもらって自分もリンゴの樹を生やそうとしたのでした。ジミーのように心で受け止めた感動した話をすぐに自分なりの行動にうつす(真似てみる)子供は、その人物になってみたいという純粋な欲動からきているので、将来、”役者”となって舞台や映画などで活躍する素地はあるとおもわれます。
4歳の時に引っ越しますが、新しい家の玄関ポーチでもジミーは大忙しでした。ディズニー・アニメの『三匹の子ぶた』を見ると、何週間もの間、玄関ポーチで狼や子ぶたになって演じた踊ったりしました。5歳の時には、『ゴールディロックと三匹の熊』の話を自分の誕生会の時に皆の前で披露し、あまりにも上手に演じたので同じ年の子供は逃げてしまった子もいるほどだったといいます。

ど近視で、父がさそったキャッチボールもできなかった

このジミーの5歳の誕生日会に父ウィントンは、野球道具をジミーに贈りました。何かを演じたり踊ったりする度に拍手喝采する母の育て方ではなく、もっと男の子っぽいこともやらせた方がいいとおもったのです。父は毎週土曜日にジミーを連れ出しキャッチボールをしだしましたが、ジミーはボールをキャッチすることがあまりに苦手だったのです(じつは病院に行くと凄い近眼だったことがわかった)。眼鏡をつけるとキャッチボールもできるようになりましたが、眼鏡をかけさせてまでキャッチボールをさせる(一緒にバスケットボールもやって2人で楽しんでいたようだったが)父のことをジミーは近くに感じることはできませんでした。父もジミーのことをキャッチボールをしていない時は、理解のできない子供で腹立たしいとさえおもったようです。ジミーはおもちゃを買い与えても飽きっぽく、いろんなことをやりたがっては貫こうとせずに、すぐに気になることをやりだすような性向だったようです。それが関心のあるものは一筋で(そもそも関心のあるものがほとんどない)父とちがって目移りばかりしているように映ってしまっていたのです。

「農場」と「ロサンジェルス」の2つの新しい環境

母はジミーの性格をどうも母なりの早期教育に活かしたようです。厚紙で人形をつくって人形芝居を演じたり、バイオリンやタップダンスなどなどで、小学校に入っても続けていたこうしたお稽古や愛情たっぷりすぎる2人だけのゲームは、ジミーに小学校という子供にとっての”社会生活”に適応させる機会を知らず知らずのうちに奪いとっていました。学校帰りに友達をつくる時間もなく、途中、家の近くの小学校に転入しましたが、学校ではまったく存在感のない男の子だったといいます。気づけばジミーは過保護に育てられていたのです。
小学校に入る直前(6歳前)にジミーを襲った病気は、ジミーの「心の樹」に2つの新たな環境に接する機会を与えました。この2つの環境は複雑な経路をたどりながらも少年ジミーの将来に決定的な影響を与えることになります。ジミーが罹った病気は、感染性紅斑で、全身に発疹がでて疲れやすくなり、酷い液体を吐き貧血を起こし微熱がつづくのでした。原因は、引っ越しの度に、母が壁に塗っていた家庭用塗料にかなりの量含まれていた鉛でした。輸血とビタミン療法が繰り返され病院を退院すると、ジミーは療養のため父ウィントンの姉がいる和やかな農場で過ごすことになります(ジミーはこの農場に後に舞い戻って来ることになり、父ウィントンの姉夫妻を、”ママ”、”パパ”と呼ぶようになっていくのです)。が、癒し効果抜群の農場での生活もわずか数ヶ月。ディーン一家は、ロサンジェルスに行くことになります。ロサンジェルス西部の退役軍人病院が歯科技工士の募集に、これを機会に不仲になっていた妻子と離れ、別々に暮らそうとこっそり図った父の提案に、母ミルドレッドが歓喜をもってむかえました。映画の都ハリウッドのあるロサンジェルスで暮らせると。父のうしろめたい謀(はか)り事は、母ミルドレッドにのっとられるかたちで一家は、ロサンジェルスに移り住むことになります。

9歳の時、母が卵巣ガンで死去。ジミーは再びインディアナ州の農場へ

サンタモニカの23番通りにある小さな一戸建ては、たちまちミルドレッドの理想の家となりました。芝生敷きの庭には椰子の木が立ち、3キロ先には太平洋がひろがっていたからです。母はジミーを連れて路面電車に乗ってサンタモニカの海岸まで散歩に出掛けました。ところが、この地での母子の幸せな生活は3年余しか続きませんでした。母が卵巣ガンに罹り、容体が急速に悪化、ついに母は29歳の生涯を終えてしまいます。ジミー9歳の時でした。愚かすぎた父はジミーを追い払うかのように、母の葬儀がとりおこなわれた、姉たちのいる農場(ウィンズロー家)にジミーを行かせました(父は母の葬儀にも出なかった)。
母を失った少年ジミーは、再びインディアナ州の片田舎で過ごしはじめます。西海岸にいる父はどんどん遠い存在になっていきます。新たな暮らしでは、本や人形芝居や踊りや音楽にとって代わって、家畜小屋の掃除や牛の番や肥やしの作業が待っていました。けれどもジミーはからっきし農作業は性にあわずさぼっては昼寝をしていました。農場に暮らしはじめて3年目(11歳)、ジミーは父の姉夫妻を”ママ”、”パパ”と呼ぶようになっていました。父は陸軍医療部隊に派遣されさらに遠くに行ってしまったことを知ったからでした。
少年ジミーは、姉夫妻の「家族アルバム」を見たり、クレヨンで農作業の刈取機やトラックの絵をスケッチしはじめたりします(この頃に新しい”ママ”に子供が生まれています)。学校には転入生だったことと生来の性格からクラスにはまったく馴染むことができません。友達は一人できたましたが危なっかしい少年で、ジミーにレスリングと猫の殺し方を教えるのです。授業中はよくぼんやり虚ろな表情をしていることが多く、ある授業中、ジミーは「母がいなくて寂しい」と泣き出してしまったことがあったといいます。ジミーは学校では「気まぐれで、ぼっとして忘れっぽく、理由もなく頑固」という性格でしたが、新たな家では「いろんなことをやりたがるが、ある所まで知ってしまうと急に興味を向けなくなる。じっとしていられない性格」だったようです。この性格は、「人より抜きんでたい。どんなことでも自分が一番でなくては気がおさまらない」という自身も気づいていない意地のようなものとつながっていたのです。次第に新しい”ママ”は、一緒に過ごすうちにジミーがかなり変わった子だということに気づいていきます。どんなに気紛れでも、「心」を向けずにはいられない、どこかで<要求>されているような気にさせられたといいます。
次第にジミーは新たな”家族”の癖を<真似>(とくにお爺さん)して皆の気持ちを惹き付けるようになり、”変わった子”という印象は、ある”才能”をもった子というように変じていきました。その”才能”とは、「自分の感情を、同じように他人に感じさせる、<共有>させることができる、というものでした。

ワイルドバンチ」と「ビリー・ザ・キッド」に入れ込んで、皆の前で演じる

フェアマウント・ハイスクールに通うようになった14歳の時(1945年)、禁酒運動のためのスピーチコンテンストが参加者を募集しているのを聞きつけ、”母”はジミーに舞台の上でトライしてみないか誘いました。ジミーは学校(ハイスクール)でドラマとスピーチを教えていた女性教師アデリーン・ブルックシャーに指導を願い出たのです。このことが契機となり、ジミーは元巡回演劇に出演していたちょっと変わった女性教師アデリーンに、芝居の道に誘われていくのです。学校教師の中でアデリーンだけが少年ジミーの隠れた資質を見抜くことになるのです。
ジミーは、かつて母と一緒に即興で演じた寸劇をひとの前で再び演じるようになっていきました。インディアナ州は犯罪の多い州として全米にも名を轟かせていて、少年ジミーはそうした犯罪や伝説について書かれた書籍を見つけると、母がかつて語ってくれたアメリカの西部開拓にまつわる血沸き肉踊る物語や「伝記」にたちまち惹き付けられるようになります(「ローン・レンジャー」などラジオ番組の影響もあった)。新たな”ママ”と”パパ”や友達たちの前で披露したのは無法者集団「ワイルドバンチ」で、少年ジミーは家畜泥棒や列車強盗、撃ち合いから裁判や逃亡劇にいたるシーンを即興で再現してみせたのです。そして少年ジミーの十八番になったのは、「ビリー・ザ・キッド」でした。ジミーはおそらく”ビリー”の伝記を詳しく読み、人口に膾炙(かいしゃ)している「ビリー・ザ・キッド」が真実とは異なることを知ったのです。ジミーは”ビリー”のひょうきんさや愛嬌、迷子のような表情と無愛想な面、反転して暴力的に、最後に死の間際を巧みに演じ皆をうならせます。「ワイルドバンチ」といい「ビリー・ザ・キッド」といい、後にジミーが出演する映画『理由なき反抗』や『エデンの東』を予感させるものが、10代半ばにしてすでにその<原型(アーキタイプ)>がかたちを成し、存在感のなかった学校でもそれを演じて人気を博すようになります(が、すぐに少年ジミーは再び物思いに沈み孤立していった)。そしてさらには映画『理由なき反抗』に描かれた自動車を崖に向って突っ走らせる”チキン・ラン”を予感させる<スピード>と<度胸試し>に少年ジミーを駆り立てていく切っ掛けが、ジミー16歳の誕生日に、新たな”ママ”と”パパ”から贈られたのです。それがバイクでした。

爆音とスピード狂。16歳、バイクを乗り回しはじめる

少年ジミーは1.5馬力のチェコ製のバイクをけたたましい音と猛烈なスピードであちこちを駆け巡るようになります。ベイク店はジミーの行きつけとなり、店のオーナーでさえ怖いもの知らずのジミーのバイク乗りには肝をつぶしていたほどでした。爆音とスピード狂の意味するところは、つまりは自分の存在を印象づけることに他ならず、少年ジミーは、バイク以外にもフットボールやバスケットボールでも危険極まりないプレイで皆の度肝を抜いています。それでも少年ジミーはチームメイトの誰とも距離を置いたままで、いつも一人ぼっちでいたと当時の周りの人たちは証言しています。ガールフレンドもいなければデートもしたこともありませんでした。
学校で孤立していた少年ジミーの素質を感じ取った学校教師アデリーンでしたが、ジミーの持て余している才能を伸ばそうとします。が、壁にぶちあたります。なぜならジミーは絶対にアドバイスを受け入れなかったのです。授業中に煙草をアデリーンにすすめて驚かせたり、コンテストで入賞を逃すと喚(わめ)きちらしたりと、何をしでかすかわからない気分屋のジミーでしたが、その一方で、自身がクラスから孤立していることーそれを「同情」の”タネ”にして、小指ひとつで教師アデリーンを意のままに操るのでした。それでもアデリーンはジミーを促し、学校演劇にジミーを出演させます。演目は学校演劇などでよく上演されるW.W.ジェイコブス作『猿の手』、つづいて恋愛劇『うすのろのマグフォード』でした。アデリーンはジミーの演技をみてある確信を抱いています。優しさと困惑、傷つきやすさと無愛想が、不思議な配合で一人の少年から強烈に放たれていると。

ハイスクール時代、サン=テクジュペリの『星の王子様』をいつも持ち歩いていた

それはまるで舞台上に、ジミーの肉体の奥にある「心の樹」が、まなざしや表情、身のこなしとなって自然にあらわれでているように感じられたのでした。幼い頃、ジミーが聖者”ジョニー・アップルシード”のように、リンゴの種を植えていた裏庭は、まさに「心の樹」を植えていた場所であり、その場所がいま、少年ジミーが孤立せずに生きていける場所ー「舞台(魔法がおこなわれる場所)」(後にスクリーン)と化したのです。はにかんだ眩しそうな”まなざし”を通して、少年ジミーの「心の樹」が溢れでてくることに気づいた観客たちは、言葉を失ったといいます。舞台は、たとえばサン=テクジュペリの『星の王子様』に描かれた樹の芽の存在を”心で見る”場所です。そしてジミーはハイスクール時代に『星の王子さま』を初めて読み、それからというもののどこに行くにも『星の王子さま』を携えていたといいます。「本当の姿を見たいなら、心で見なくちゃ。大事なものは目には見えないんだ」という言葉は、ジミーの魂の言葉となり、出会った人によく口にしていたほどでした。▶(3)に続く-未