デイヴィッド・リンチの「Mind Tree」(2)- 朝起きが大の苦手、建築事務所と額縁屋をクビになる。真っ黒に近い絵を描きだす。リンチ映画の出発点へ


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10代の半ば、「家」とは、”不幸”が起こりうる場所なんだと考えるようになる

▶(1)からの続き:界隈の2ブロック内の世界や庭に広大無限の一つの宇宙を感受してしまう少年デイヴィッドの感性は、どこにでもある一本の樹さえ、もはや「謎」に包まれた得体の知れない存在と化していきます。そしてついに、少年デイヴィッドの感覚は、「家」についても研ぎすまされていきます。「家」という場所は後に、デイヴィッド・リンチの数多くの映画の中の主舞台になる場所となっていきます。少年デイヴィッドは10代の半ばすぎ、「家」とは、”不幸”が起こりうる場所なんだ、と考えるようになります。少年デイヴィッドが観察してきたように、生命(いのち)が集っていれば、生命の腐敗や死とは無縁ではありえないからです。場合によっては他の”生命体=他人”の攻撃を受けたり、虐待や虐殺がおこなわれることもあります。その感覚は超感覚であると同時に現実感覚でもありました。映画『ブルー・ベルベッド』の冒頭のシーンのあの真っ白に映える庭の柵と見事に咲いた美しい日和に、庭にホースで水を撒いていた主(あるじ)に突然”不幸”が降ってくるのです。

オスカー・ココシュカの下で学ぼうとヨーロッパに行くが、15日で帰国するはめに

画家ブッシュネル・キーラー(トビー・キラーの父)に出会い、絵の道にすすむことを決意してから4年後の18歳の時(1964年)、デイヴィッドは本格的に美術の勉強にのりだすため、ボストン・ミュージアム・スクールに入学します。ところが夢を抱いて入学したスクールにはデイヴィッドを刺激し意欲をかき立てるものがなく傷心してしまいます。デイヴィッドは1年でスクールを見限ってしまいます。ところがすると偶然にも今度はトビー・キラーの叔父さんが、知り合いの女の子数人がヨーロッパへ旅行するので現地までエスコートするという条件で、ヨーロッパ行きの格安チケットを提供してくれたのです。この時、デイヴィッドは別のスクールに通っていたアーティスト志望の友人ジャック・フィスクと連れ立って、3年間のヨーロッパ留学で絵を研鑽しようと意気があがっていました。デイヴィッドの旅の大きな目的は画家オスカー・ココシュカの下で学ぶことでした。ボストン・ミュージアム・スクールの教師に米国の画家ライオネル・ファイニンガーの息子がいてココシュカと親交があり、デイヴィッドは紹介状をもらうことができたのです。ところがここでもまた偶然がデイヴィッドを待ち受けます。オーストリアザルツブルグに到着したデイヴィッドは、ココシュカがこの地に居ないことを知るのです。デイヴィッドたちの留学の計画はのっけから暗礁に乗り上げ、心の中で盛り上がっていた分だけ、急速に興奮が萎んでいってしまうのです。
1960年代半ば、まだ海外旅行がそれほど一般的でなかった頃、せっかくヨーロッパまで来たのだからあちこち見て廻ることもできたようにおもいますが、結局2人はわずか15日滞在しただけでそそくさと旅を切り上げてしまうのです。もしこの時、ココシュカが居れば、デイヴィッドは絵画に突き進み、いずれ映画を撮る運命であっても『イレイザー・ヘッド』(デイヴィッドはこの映画をよく自らの『フィラデルフィア物語』だと言っている。実際にはアメリカの何処でもないような汚れ朽ち獏として忘却されたような場所が舞台であるが)撮影の舞台となるフィラデルフィアに巡り会うことができなかった可能性もあり、現在の映画監督デイヴィッドは・リンチにはなっていないかもしれません。しかしデイヴィッドの10代後半の人生をみても、人生いったい何が禍いし何が福に転じるかその時に言い当てることなどまず分かりません。デイヴィッドの言うように、幸福を味わうためには、どん底まで落ち込んでいなきゃだめ、つまり「禍い転じて福となす」ように運命の実相とは異(い)なものなのですから。

朝起きが大の苦手。建築事務所と額縁屋をクビになる

デイヴィッドが米国に帰国すると、両親はデイヴィッドが3年間米国を離れると折り込み、すでにカリフォルニアに移り住んでいました。帰る家もなく、仕送りも無くなっていたため(学校に通っている間だけ経済的に面倒をみる約束だった)、デイヴィッドはトビーの家に寝泊まりさせてもらうことになります。そしてトビーの叔父さんの建築事務所で働くことになるのです。事務所では青写真作りの仕事を任されるのですが、デイヴィッドはその仕事以外のことで、クビになってしまいます。夜中まで絵を描く長年の習慣からデイヴィッドは朝起きが大の苦手になってしまい、8時の始業に遅刻ばかりしてしまうのです。16時間寝れば、2日間の徹夜仕事で挽回できたのですが、建築事務所にとって始業時間は重要でデイヴィッドは失職します。次いで額縁屋で働くことになりましたが、ここでは高額な額縁に傷をつけてしまい再びクビ。すぐに雑用係として再度採用されるのですが、じつはどちらにもデイヴィッドの父が裏から手をまわしていたことが後年わかったといいます。父はデイヴィッドが美術学校に戻って、美学生として学べるように(そうすれば経済的援助も続けられた)仕組んでのことだったようです。父は息子のデイヴィッドは押しつけようとすると反抗することを充分わかっていました。自分の頭で考えアイデアを出し、行動に移してはじめて、うまくいっていると思えるということも。

フィラデルフィアの美術学校に入学。創作意欲の高まりと同時に真っ黒に近い絵を描きだす

2度目のクビを突きつけられた頃、一緒にヨーロッパに行った友人ジャック・フィスクが、フィラデルフィア・アカデミーに通いだしていて、そのアカデミーが学ぶに値すべき所だということをデイヴィッドに話します。フィラデルフィアはデイヴィッドにとってボストンとちがって昔から行ってみたいと思わせるものを感じていませんでした。しかしデイヴィッドはデイヴィッドはフィラデルフィア行きを決断し、フィラデルフィア・アカデミーに通うことになります。じつはこちらも裏でトビーの父ブッシュネル・キーラーが学校に電話してデイヴィッドの才能を強烈に売り込んでいてくれていたのでした。
デイヴィッド・リンチの映画では、「暗闇」が特徴の一つにあげられますが、すでにこの時期、デイヴィッドの描く絵の幾らかがほとんど真っ黒になっていたのです。キャンバス全面が闇のように真っ黒になった絵を描いたのは、このフィラデルフィアに来てからだったようです。この頃はボストン・ミュージアム・スクールの時のように気が滅入っていたからでなく、逆に皆が刺激し合っていて、デイヴィッドは創作意欲に突き動かされていたのです。それなのにデイヴィッドは真っ黒に近い絵を描いたのです。しかもその絵を制作していたのは、ペンシルバニア・アカデミー・オブ・ファイン・アーツ・ビルディングという建物の中で、広い空間が個人用創作スペースに区切られ集中して絵に向うにはもってこいの部屋で、昼でも夜でもひとりっきりになって創作に打ち込むことができたのでした。デイヴィッドは絵の中程に、漆黒の闇に融け込んでいるかのように人物がぼっと浮き上がっているような姿を描き込んでいます。その人物とは時にデイヴィッド自身でもあるでしょう。
デイヴィッドは絵を描く最中、「別の力が入り込んできて勝手に動き回るようにするためつねに窓を開けておく」といいます。アイデアやイメージに波長を合わそうと試みる”ラジオ”のようだと自身を喩(たと)えていますが、波長がうまく合うとシュールレアリストの自動書記状態のように、自然とアイデアやイメージがたくさん生まれでてくるというのです。そしてデイヴィッドの場合、その沸き上がってくるアイデアやイメージは”少年期”の様々な出来事や記憶とどこかで関係しているといいます。次のような感じかもしれません。つまりデイヴィッドは自身の「マインド・ツリー(心の樹)」を下方へ、”根っ子”の方へと降りて行くと、子供の頃の出来事や体験がいっぱい詰まった記憶の”球根”のようなものに入り込んでいて、その記憶の”球根”が別の力の介入によって成長していたことを時に知るといったような。それは異様に膨らんでいった細々とした”ディテール”に少年デイヴィッドがかつてはまり込んでいった体験を追想するようなものかもしれません。ともあれ、そうしたアイデアやイメージをとらまえることができたときが、デイヴィッドにとって”小さなトキメキ”であり続けているといいます。

リンチ映画の出発点。真っ黒の中に佇む人物の絵が、”音”とともに少しだけ”動いた”ように感じた

そしてこの真っ黒の絵の中の人物をひとり見つめていた時に、デイヴィッドのセンサーがある何かを確かに感じとったのです。その”何か”こそが、「映画」に通じるものだったのです。”何か”の一つめは、「音」でした。デイヴィッドはその時、かすかな”風の音”を聴いたといいます。”何か”の二つめは、絵が少しだけ”動いた”ように感じたことでした。ここで興味深いのは、絵が少しだけ”動いた”ように感じたのは、かすかな”風の音”が聴こえたと同時で連動していたといことです。デイヴィッド・リンチの映画では、他のどの監督よりも「サウンド」が重視され、映画のムードを醸成し確かなものにするためほとんどオリジナルな「音」や「曲」が使われるのも、この絵が動いた「原体験」に関係しているはずです。デイヴィッドの感じる別の力やイメージは、彼のもとに「オトズレ(訪れ=音連れ=音と共に)」るのです。その微かな”気配”の「オトズレ」をしっかりキャッチするために、周りを最大限に暗くする必要性があったにちがいありません。闇が重ねられた漆黒の闇なればこそ、ほんの僅かの光の存在に気ずかすにはおられないはずですし、光を集めることができる。デイヴィッドはその光景を最も「美しい」と感じるようです。またその漆黒の黒は「夢」の入口であり、心の扉を開け放つことができるともいいます。と同時に、真っ暗な闇は、自身も人々も闇と混乱のなかで彷徨っているという実人生を象徴させてもいるようで、こんな状態が永遠に続くはずはない、解放される日が来るはずだと待望しているのです。
そして、絵が少しだけ”動いた”ように感じたデイヴィッドは、その真っ黒の中に佇む人物を描いた絵を少しだけ動かすことができたらいいな、と直感的に思ったといいます。”動く絵”に「音」を伴(ともな)わせて。映画『ロスト・ハイウェイ』の冒頭に登場する暗闇の中の人物は確実にこの延長線上にあります。デイヴィッド・リンチの場合、映画監督になろうとしたのではなく、自分の描いた絵が動いてしまった結果、映画もまた、別の力のようにデイヴィッドの世界に入り込んできたといった感じかもしれません。この時、デイヴィッドには映画と写真に対する知識はまったくありませんでした。しかし、侵入してきた「映画」的世界を、どうにか実現させてみようと考えたのです。

中古の16ミリ・カメラを買い、真っ黒の絵を1分間のアニメーションに仕立てる

デイヴィッドはフィラデルフィアフォトラマというカメラ屋で、コマ撮りをするために16ミリの安い手巻きカメラを購入します。その時点で、デイヴィッドの創作ルームは、フェラデルフィア・アカデミーが買い取った古いホテルの一室になっていました。デイヴィッドは真っ黒の絵を1分間のアニメーションに仕立てようと奮闘します。ジャック・フィスクとともに石膏でデイヴィッド自身の型をとり、それを3体合体させ、プラスティックの立体スクリーンに映しだしたりとかなり手のこんだものだったようです。製作費は200ドルでした。「病気になった6人の男」とタイトルをつけ、スクールの絵と彫刻の発表会で映画のかたちで発表したのです。ある画家と最優秀賞を分け合うほど評価されたのです。
可能性を感じたデイヴィッドはブルース・サミュエルソンという仲間に声を掛け、一緒にアニメーション映画をつくりはじめました。それは電気仕掛けの絵画といってよいもので、デイヴィッドはメカニカルなフィギュアを、ブルースはリアルな人物をたくさん描き、落としたボールがスロープを転がっていき、仕掛けのスイッチを次々に入れていくというものでした。マッチが擦られると爆竹に火が点き、女性の口が開き、赤い電球が灯り爆竹が鳴ると、女性が悲鳴をあげるという暴力的にしてコメディータッチの仕掛けも入り込みました。バロウズの『裸のランチ』のごとく、タイプライターに女性が変身していく「メカニカル・ウーマン」シリーズもこの時期に制作しています。
当初は、まったく予期していなかった「フィラデルフィア」という古い町が、この時期デイヴィッドの内で極めて重要な場所を占めるようになります。それはまるでデイヴィッド・リンチの「マインド・ツリー(心の樹)」を最も成長させるに相応しい養分を大気中に含んでいるような感覚です。かつて独立宣言が起草された「フィラデルフィア」は、マフィアが暗躍する腐敗しはじめた工業都市(商業や海運都市や学術都市のイメージの方が強い。ペンシルバニア大学やテンプル大学など全米で最大規模の学生人口をもっている)の要素があり、大気の中には目に見えない妖しい微粒子が、工場跡や空き地にほおってある鉄板を腐食させていました。重機具がある採掘現場や工場プラントの陰で、無数の蟻が土盛りをし穴を開け、腐食する化学物質と生命と自然が有機的に相互作用している。こうしたどこか暴力的で秘密めいた光景がデイヴィッドの絵に反映され、『イレイザー・ヘッド』など、デイヴィッド・リンチの映画に写し撮られていくことになっていきます。それは工業都市がもう一度プリミティブな状態に回帰すようとする自然の力に接近する作業なのかもしれません。それは予測不能な場所で起こるがゆえ、デイヴィッドは”どこでもない場所”を重視するようになっていくのです。その”どこでもない場所”は、デイヴィッドの「マインド・ツリー」が腐食した煙突のように立ち上がる場所なのです。▶(3)に続く-未